No.a6fhc200

作成 2000.4

 

ナチスとアメリカ企業の協力関係

 

 

戦争の歴史には、その裏に必ず、人々を戦いに駆り出す利権
争いと、そこで死体を見ながら札束を数える軍需産業の介在がある。

第二次世界大戦中、ナチスを支援した企業には、驚くことにアメリカの
企業が複数含まれていた。またスイスも重要な役割を果たしていた。
この奇妙な利権構造の実態について触れていきたいと思う。

 


第1章
「I・G・ファルべン社」とナチス
第2章
「スタンダード石油」とナチス
第3章
「フォード社」とナチス
第4章
「デュポン財閥」とナチス

追加1
「IBM」とナチス
追加2
映画 『ザ・コーポレーション』
追加3
『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』

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■■第1章:「I・G・ファルベン社」とナチス


●「ナチスとアメリカ企業の協力関係」を語るには、何よりもまず最初にドイツの企業「I・G・ファルベン社」の存在について触れなくてはならない。

「I・G・ファルベン社」抜きには語れないテーマである。

 

 
ドイツの巨大企業「I・G・ファルベン社」(1935年)

 

●「I・G・ファルベン社」は、1925年にドイツの8大化学会社が合併して設立された、従業員13万人の巨大企業である。

「I・G・ファルベン社」の株主はユダヤ人が多く、社長もカール・ボッシュというユダヤ人だったので、最初はヒトラーから「国際金融資本の手先」と攻撃されていた。

※ カール・ボッシュは高圧化学の発明と開発で、1931年にノーベル化学賞を受賞。


●しかし、ナチ党が勢力を強めるにつれ、ヘルマン・シュミッツ会長やゲオルク・フォン・シュニッツラーなどの取締役たちはヒトラー支持の尖兵へと変身していった。

※ カール・ボッシュはヒトラーと合わず、やがて追われてしまう。

 


「I・G・ファルベン社」の
ヘルマン・シュミッツ会長

 

●「I・G・ファルベン社」の幹部は、1933年2月20日、ドイツ産業界の重鎮数人とともに、ベルリンでヒトラーおよびゲーリングと会談し、ナチズムに対する政治的財政的支持(「4ヵ年計画」の実行役)を約束した。

また、ヘルマン・シュミッツ会長は、ナチス御用達の銀行だった「BIS(国際決済銀行)」の設立にも参画し、第二次世界大戦終了時まで役員を務めた。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●「I・G・ファルベン社」は、1939年までにドイツの外貨の90%、輸入高の95%を稼ぎ出し、かつ「4ヵ年計画」に基づいた軍需製品および工業製品の85%を製造した。従業員は10万人に達し、世界の大企業の中でもアメリカの「GM」「USスチール社」「スタンダード石油」につぐ4番目、化学会社としては世界最大の企業にのしあがった。

「I・G・ファルベン社」は、ドイツの化学工業をほぼ独占し、ナチス戦争経済を維持するうえで不可欠だった2つの製品を供給した。それは合成石油と合成ゴムで、その大半はアウシュヴィッツで運営していた同社の巨大化学工場で、被収容者を労働力にして製造されたのである。

 


アウシュヴィッツの第三収容所=モノヴィッツ(1944年)

この収容所は被収容者を労働力とする「強制労働収容所」であり、
収容所内の工場は「I・G・ファルベン社」が操業を行っていた。
その他にも「クルップ社」 「ジーメンス社」 「ウニオン社」
といった大企業の工場も置かれていた。

 

●『第三帝国の興亡』の著者ウィリアム・シャイラーは、この「I・G・ファルベン社」を「ナチスが国家事業として遂行した大量虐殺のひとつの象徴」ととらえ、こう記している。

「ドイツ有数の実業家、信心家の呼び声高き人物を取締役陣にそろえた企業である『I・G・ファルベン社』ほどの世界的企業が、このアウシュヴィッツ収容所を舞台に収益活動を展開した事実は、ヒトラー政権下のドイツ人、とりわけ人望厚き人々を理解するうえで避けて通れないものだ。」



●ところで、ナチス崩壊後、破壊されたフランクフルトに入ったGI(米軍兵士)たちを驚かせたのは、その破壊の規模ではなかった。「I・G・ファルベン社」の建物が無傷で建っていたからである。「I・G・ファルベン社」は敵国最大の企業だったのに、空軍が一切の攻撃を加えなかったのはなぜなのか? 彼らはそのような問いかけをして理解に苦しんだ。(この建物は戦後CIAのドイツ本部となった)。

アメリカ戦争省はのちにこう語ってる。

「『I・G・ファルベン社』の巨大生産能力、その徹底した調査能力、巨大な国際的つながりがなければ、ドイツの戦争遂行は考えられなかったし、実現することもできなかった」


●ちなみにイギリスは、このドイツの「I・G・ファルベン社」に対抗して、1926年に「ノーベル産業」「モンド社」「ブリティッシュ染料」「ユナイテッド・アルカリ」の4社を合同させた「ICI社」を設立。

グッゲンハイム=ロスチャイルド一族のアルフレッド・モンドが初代会長に就任した。

そして同じ1926年に「I・G・ファルベン社」は早くも「ダイナミット社」(かつての「アルフレッド・ノーベル社」)と提携したが、これにより、表向きは平和の顔をした中立国スウェーデンの「ノーベル・トラスト」は、それぞれの分身が奇しくも同じ年に、敵国同士であるドイツとイギリスの巨大企業「I・G・ファルベン社」と「ICI社」に、同時介入を果たしたことを意味した。(敵対国の双方に弾薬を送り込む死の商人「ノーベル・トラスト」の実態については別の機会に触れる予定)。

 


《 ドイツ工業界からナチスへの資金の流れ 》

この系図は広瀬隆氏が作成したもの(『赤い楯』より)。
この系図の左上に「I・G・ファルベン社」の名前がある。

 

 


 

■■第2章:「スタンダード石油」とナチス


●「I・G・ファルベン社」はアメリカ企業、特に世界最大の石油会社「スタンダード石油」(エクソン)と密接な関係にあった。

この石油会社はロックフェラー財閥が所有していた。

「スタンダード石油」のウォルター・ティーグル会長は、「I・G・ファルベン社」のヘルマン・シュミッツ会長と早い時期から友人関係を結び、「I・G・ファルベン社」のアメリカの子会社「GAF」の取締役に就任した。ティーグル会長はこの「GAF」に多額の投資をしたが、シュミッツ会長も「スタンダード石油」に多額の投資をしていた。ティーグル会長は1938年に「GAF」の取締役を退いたが、「I・G・ファルベン社」との協力関係は維持し続けた。

 


WASP勢力の中心に君臨しているロックフェラー一族

世界最大の石油会社である「スタンダード石油」(エクソン)は
ロックフェラー財閥の会社である。大戦中、ナチスを支援した。

 

●当時、ドイツ空軍はテトラエチル鉛がなければ爆撃機を飛ばすことができなかったが、テトラエチル鉛の権利を持っていた「スタンダード石油」は、イギリスの系列会社である「エチル社」を通じて、「I・G・ファルベン社」にテトラエチル鉛を供給し、ドイツ空軍が戦えるように手助けした。

この結果、ドイツ空軍はこの貴重な物質を供給してくれたロンドンを空爆することができたのである。その上、「スタンダード石油」はテトラエチル鉛を日本にも供給し、日本軍が第二次世界大戦を戦う手助けをしたのだった。

さらに皮肉なことに、イギリス空軍の航空燃料はロンドンを空爆しているナチスの爆撃機が使用しているものと同じだったので、イギリス空軍は特許使用料を「エチル社」経由でナチス・ドイツに支払わねばならなかったのである。

 

 

「スタンダード石油」=現エクソン社

(「エクソン」の海外ブランド名は「エッソ」である)

 

●1939年になると、アメリカのゴム不足は深刻になった。アメリカ軍は軍用機、戦車そして軍用車両の車輪を完成させるのも困難な状態になっていた。

この時期、「スタンダード石油」はヒトラーと契約を結び、ヒトラーは「スタンダード石油」製の何種類かの合成ゴムを取得することができた。この契約は真珠湾攻撃後まで継続した。しかし、「スタンダード石油」はアメリカ合衆国に対して合成ゴムの供給を一切しなかった。

「スタンダード石油」と「I・G・ファルベン社」は、世界中で獲得した石油と化学製品の独占権で、世界市場を文字通り分割していたが、「スタンダード石油」と「I・G・ファルベン社」が協定していたおかげで、アメリカ政府は真珠湾攻撃後でさえ、貴重な合成アンモニアの製造工程を取得できなかった。それだけでなく、天然ガスから水素を取り出す技術、高高度で飛行する爆撃機のエンジンにガソリンを円滑に流入させるための製品、すなわちパラフローも取得することができなかった。


●アメリカが参戦する前、ヨーロッパにおける戦争が長引くにつれてドイツは深刻な石油不足に陥り、石油の備蓄はごくわずかしかなかったが、「スタンダード石油」は、ルーマニアの油田をドイツにリースし、さらにハンガリーの油田を売り渡して、ナチス政権を助けた。

また、「スタンダード石油」はカナリア諸島のテネリフェ島に石油を運び、そこで燃料を補給すると共に、運んできた石油をハンブルグ行きのドイツのタンカーに移し替えていた。アメリカ政府がUボートヘの燃料補給など道義上、容認できないと言明し、その上、大西洋でアメリカ国籍の商船がUボートに撃沈され、ルーズベルトがいわば宣戦布告なしの戦いをしていたにもかかわらず、「スタンダード石油」のタンカーはUボートに給油をしていたのだった。

また、「スタンダード石油」は、ナチス政権のために毎週1万5000トンの航空燃料を生産する製油所をドイツ国内(ハンブルグ)に建設してもいた。



●1941年7月15日、アメリカ陸軍情報部のチャールズ・A・パローズ少佐が、「スタンダード石油」はオランダ領西インド諸島にあるアルバ島からアフリカのカナリア諸島のテネリフェ島へ石油を輸送している、と陸軍省に次のように報告している。

「『スタンダード石油』はこの燃料油の20%を現在のドイツ政府に流用している。この航路に就航している約6隻のタンカーに乗船している高級船員のほとんどは、ナチ党員のドイツ人であると考えられる。船員たちはカナリア諸島のすぐ傍で潜水艦を何回も見たこと、また潜水艦がカナリア諸島で燃料補給をしていることも知っている、と我々の情報提供者に話している。『スタンダード石油』のタンカーは魚雷攻撃を今日まで1回も受けたことがないにもかかわらず、異なった航路に就航している他のアメリカの会社は、魚雷攻撃でタンカーを失っている、とこの情報提供者は述べている」

この報告を受け、1941年7月22日、アメリカ財務省は「スタンダード石油」が行っているタンジール向けの石油輸出について国務省と会議をしたが、「スタンダード石油」に対して何らかの圧力をかけることはしなかった。

結局、真珠湾攻撃後も、財務省と国務省は、「スタンダード石油」や他の大企業がナチスの協力者と戦争中も取り引きすることを許可し、証明書を発行していたのである。



●「スタンダード石油」は、第二次世界大戦を通してファシストの国であるスペインにも石油を輸送していた。

スペインヘの石油輸送は間接的に枢軸国を援助することだった。スペインのタンカー船団は定期的にドイツに航行し、ドイツの大使館、軍事基地、戦車と装甲車、そしてロシア戦線にスペイン軍を運ぶ輸送車などに燃料補給していた。(スペインの軍隊はアメリカと同盟しているソ連軍と戦っていた)。


●このような状況を憂えた経済学者のヘンリー・ウォルドマンは、1943年2月26日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙に次のような意見を載せた。

「考えても見てください。戦争の真っ最中に敵国を実際に手助けをしている国がアメリカなのです、そればかりではなく、スペイン大使が詳細に述べているように、アメリカはこのような援助を続けるばかりか、援助を拡大する準備までしているのです。スペインは『敵国』です。しかしそれでも、アメリカはスペインを援助しているのです。」

それでも、状況は改善されなかった。毎月4万8000トンのアメリカ産の石油が、スペインを経由してナチスに供給され続けたのである。


●このような状況の中、イギリス情報機関が秘密作戦を駆使してアメリカのメディアを操り、「スタンダード石油」と「I・G・ファルベン社」との提携関係を暴露し始めた。すると、予想通りスタンダード首脳陣は国民から猛烈な非難の声を浴びることになった。

「『スタンダード石油』は『I・G・ファルベン社』と組んでアメリカの戦争を妨害している!」と、アメリカ国内では「スタンダード石油」批判が沸き起こったのである。


●このイギリスが仕掛けたネガティブ・キャンペーンにより、「スタンダード石油」のティーグル会長と、彼の跡を引き継いだビル・ファーリッシュ新社長は、「裏切り者」「国賊」というレッテルを貼られ、ファーリッシュ新社長はショックのあまり、まもなく心臓発作で亡くなってしまった。残されたティーグル会長も、顧客の信用を一気に失い、精神状態が不安定になり、失意のうちに第一線を退くことになった。

この反スタンダード石油キャンペーンを受けて、アメリカ政府による調査が開始された。

しかし、「アメリカ陸軍省」と「戦略情報局(OSS)」は、「スタンダード石油」の助けなしにはアメリカは戦争を継続できないことを熟知していたため、スタンダード攻撃をある程度のところで止めるように働きかけたといわれている。

 

 


 

■■第3章:「フォード社」とナチス


●「フォード社」の創業者ヘンリー・フォードは、熱烈な反ユダヤ主義者であった。

1919年に『ニューヨーク・ワールド』誌で初めて反ユダヤ主義を表明し、1920年にはユダヤ人に対する悪意に満ちた『国際ユダヤ人』を出版した。

また、ヘンリー・フォードはヒトラーを溺愛し、1922年という早い時期から、外国人としては初めてナチスに資金援助をした。その見返りとして、ヒトラーはフォードの大統領選挙立候補を助けるために突撃隊の派遣を申し出た。

 


「フォード社」の創業者
ヘンリー・フォード

 熱烈な反ユダヤ主義者で、
ナチス・ドイツに資金援助をした

 

●このヘンリー・フォードが書いた反ユダヤ主義の本『国際ユダヤ人』(1920年)は、16ヶ国語に翻訳されたが、ヒトラーはこの本に感銘(かんめい)を受けていた。

 

 
ヘンリー・フォードが書いた
反ユダヤ主義の本『国際ユダヤ人』

 

●戦史作家である児島襄(こじま のぼる)氏によると、その成果は、のちに発表されるヒトラーの著書『我が闘争』にあらわれ、そのユダヤ人批判の部分は、中にはそっくり引用したとみられるものもあるほど『国際ユダヤ人』の内容に類似していたという。

また1923年に入ると、ヒトラーは公然とヘンリー・フォードを礼賛し、ミュンヘンの自宅の居間にフォードの肖像画をかかげ、来訪者にドイツ語版の『国際ユダヤ人』をプレゼントしていたという。

※ ヒトラーの著書『我が闘争』で唯一言及されているアメリカ人がヘンリー・フォードだった。ヒトラーは「フォードは(ユダヤ人たちの)憤激に対抗し、1億2000万人の国家の支配者たちから完全な独立を維持している偉大な男」と記している。

 

 
「ヒトラー・ユーゲント」の指導者
バルドゥール・フォン・シーラッハ

『国際ユダヤ人』は、一般のドイツ人にも大きな影響を与えた。
「ヒトラー・ユーゲント」の指導者バルドゥール・フォン・シーラッハは、
この本を読んで「反ユダヤ主義者」になった、と述懐している。

ちなみに、SS(ナチス親衛隊)長官のハインリッヒ・ヒムラーも
フォードの反ユダヤ主義を高く評価し、「我々の最も貴重で
重要で機知に富んだ闘争者」と評している。



SS長官ハインリッヒ・ヒムラー

 

●ところで、ヘンリー・フォードは1938年の75歳の誕生日に、

非ドイツ人に与えられたものとしては最高の「ドイツ大鷲十字章」を、ヒトラーから授与されている。

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチスの「ドイツ大鷲十字章」


1938年、デトロイト駐在のドイツ領事がヘンリー・フォードに
「ドイツ大鷲十字章」を贈り、ヒトラーの謝辞を伝えた

 

●前出の児島襄氏は著書『誤算の論理』(文藝春秋)の中で、ヘンリー・フォードとヒトラーの関係について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。


「1938年7月30日、自動車王ヘンリー・フォードの第75回誕生日記念日に、デトロイト駐在ドイツ領事F・ハイラーが来訪し、ナチス・ドイツが制定して以来3人にしか授与されていない『ドイツ大鷲十字章』を贈り、ヒトラーの謝辞を伝えた。 〈中略〉

ドイツは4ヶ月前にオーストリアを併合し、1年後には第二次世界大戦を開幕する。色濃さを増す戦雲に世界が視線を奪われている時期であり、ドイツのユダヤ人迫害の情報も伝えられている。アメリカ国内で、一段とフォード批判の声が高まったが、自動車王フォードは、勲章を返すつもりも捨てるつもりもない、と言明した。

ところで──、

ヒトラーの謝意は、フォード個人の献金に対するもののほか、自動車王フォードが支持している事実が、ドイツ内外の財界、政界のナチ党支持の誘い水になった事情を表示していた。

ヒトラーとドイツ政財界上層部の間で、その後も自動車王フォードの支援は、アメリカの『真の実力者』たちのナチス・ドイツに対する応援の表象であり、米ジャーナリズムのナチス批判はアメリカの真意ではない、との理解が存続したことは、戦争の経緯が告げている。

その意味では、自動車王フォードが第二次世界大戦への道程で果たした役割を大きいといえる。」

 


『誤算の論理』
児島襄著(文藝春秋)

戦争とは、政治的手段と異なる手段で
継続される政治にほかならない、といわれる。
軍事と政治の相関と混乱を分析する「パットン
将軍の死」をはじめ、ユダヤ嫌いからヒトラーを
支援した自動車王フォードの大いなる失策を
描く「王たちの誤算」など11篇を収録。

 

●ヘンリー・フォードには、エドセル・フォードという息子がいた。

エドセル・フォードは1930年代を通じて、「I・G・ファルベン社」のアメリカの子会社「GAF」の取締役を務めた。

フォード親子はイギリスのために航空機エンジンを製造することを断わり、その代わりにドイツ陸軍の輸送部隊の主力となった5トントラックの部品の製造を始めた。その上、アメリカ国内のタイヤ不足にもかかわらず、ドイツへのタイヤ輸送も手配していた。「フォード社」からタイヤ輸出の30%はナチスが支配する地域に出荷されていたのである。

 

 

●1940年に「フォード社」は、ナチス占領地域にあるフランスのポアシーに自動車工場を建設し、ドイツ政府に納入するための航空機エンジンの製造に着手した。また、この工場はドイツ陸軍のトラックや軍用車両の製造も手がけた。さらに「フォード社」は北アフリカにも自動車工場を建設し、ロンメル軍団のためにトラックと装甲車を製造した。

こうして1942年には、ナチス・ドイツで使用されていたトラックのうち、約3分の2をフォード製が占めるようになった。

 

  第二次世界大戦期におけるドイツ・フォード社の
  生産推移 (1940〜1944年)


 

●真珠湾攻撃後、エドセル・フォードはヨーロッパにおける「フォード社」の権益をナチス占領下のフランスに移行した。この措置はナチス・ドイツ政府との癒着を公表するようなものだったが、あえて敢行して「フォード社」の権益を守ったのであった。


●こうした「フォード社」のナチス・ドイツにおける企業活動は、アメリカの本社によって完全に把握されていた。

しかし戦後「フォード社」は、「強制労働者補償基金」設立の際、アメリカのユダヤ人団体によって、「ナチスへの加担企業リスト」に名前が公表されるまで事実を認めようとしなかったのである。

 

 


 

■■第4章:「デュポン財閥」とナチス


●アメリカのデュポン一族が経営する「GM」とナチスの関係は、フォードに負けず劣らず親密なものだった。

「GM」とナチスの関係は、ヒトラーが政権を握った時から始まった。

 



世界最大の自動車メーカー「GM」は、
1900年代にウィリアム・デュラントによって
組織され、1914年に最初の投資を受けて以降
1950年代まで「デュポン社」の出資を受けていた。
現在、アメリカのミシガン州デトロイトに本社がある。

 

●「I・G・ファルベン社」のアメリカの子会社「GAF」は、「GM」に多額の投資をしていた。「GM」の経営陣も、1932年から1939年までの間、「I・G・ファルベン社」の工場に合計3000万ドルの投資をしていた。

※ 「GM」の欧州総支配人であるジェームズ・ムーニーは、ヘンリー・フォードと同じように、ヒトラーから勲章をもらっている。

 



1929年、「GM」は当時ドイツ最大の
 自動車メーカーだった「オペル社」を買収した



1929年、リュッセルスハイムで撮影された
ドイツの「オペル社」の買収契約調印式の記念写真
(左から6人目が「GM」のアルフレッド・スローン社長)


1931年に「オペル社」は「GM」の「完全子会社」となり、
ドイツ自動車市場の40%という圧倒的な地位を占める事になる。

(参考までに、当時の「ダイムラー・ベンツ社」のシェアは9%、
「フォード社」は8%、「BMW」は3%だった。1932年に
新しく誕生した「アウトウニオン社」が、「オペル社」に
次いで当時ドイツ第2位の自動車メーカーだった)。


「アウトウニオン社」のエンブレム

社名は1985年に「アウディ」に変更され、
1964年以降は「VW社」の傘下に入っている

 

●1930年代の中頃になると、「GM」はドイツでトラック、装甲車、戦車の本格的な生産に取り組んでいた。スイスでは、ドイツ陸軍のトラックの修理とガソリンをメタノールに変換する作業を請け負っていた。

ドイツのリュッセルスハイムにある「GM」の子会社「オペル社」の工場は、第二次世界大戦を通じて、ドイツ政府のために軍用機を生産していたが、特にドイツ空軍で最も殺傷力が高かった中型爆撃機である「ユンカースJu88」のエンジンの50%を製造していた。また、「オペル社」はナチス軍用車の装備をほとんど製造してきた。

 

「オペル社」リュッセルスハイム工場における生産額の推移 (単位:100万マルク、%)

 

●1943年に、「GM」のアメリカ工場がアメリカ陸軍航空隊の飛行機を整備している間に、ドイツの「GM」グループは世界で最初のジェット戦闘機である「メッサーシュミットMe262」用のエンジンの開発に成功した。デュポン一族の工場がそのジェット・エンジンを製造し、組み立てたのである。

「GM」も「フォード社」と同じく多数の強制労働者を使い、主要工場では、ナチスの人種等級区分が適用されていた。SS(ナチス親衛隊)が工場の強制労働者を監視していたというが、その多くは女性であった。


●戦争犯罪を問う声に対する「GM」の対応は「フォード社」と同じであった。

例えば、1974年、上院小委員会で、上院付き某弁護士が、「連合国のGM工場と枢軸国のGM工場の間では、情報も物品も絶えず流れていた」、「フォードやGMの支援がなければ、ナチスはあれだけ持続的かつ首尾よく戦争を遂行することができなかっただろう」と証言すると、「GM」の弁護士はこれを「全くの偽り」と反駁し、退けた。



●京都大学の西牟田祐二教授は、著書『ナチズムとドイツ自動車工業』(有斐閣)の中で

ナチス時代の「オペル社=GM社」について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 


『ナチズムとドイツ自動車工業』
西牟田祐二著(有斐閣)

─ 京都大学経済学叢書 ─

「ナチズムの遺産」として常に言及される
「アウトバーン」と「フォルクスワーゲン」。これらが
共に関連する「ドイツ自動車工業」を考察の中心に据え、
ナチズムの体制およびナチス経済について論述している。

 

「『オペル社』(=GMの子会社)のブランデンブルク工場は、3トン・トラック『オペル・ブリッツ』の戦時期を通じての年間約3万台規模生産の維持によってドイツの軍需用トラック生産の約40%を占める圧倒的な首位に立っていた。

さらにそればかりか、1942年より独ソ戦の経過の中から3トン・トラックの増産の話が持ち上がった。そこで、同社ブランデンブルク工場が3トン・トラック『オペル・ブリッツ』の生産網の形成の中心となる。ライセンス生産の方法で、同社は『ダイムラー・ベンツ社』のマンハイム工場などに大量生産技術を指導した。 〈中略〉

こうした点から考えると『オペル社』は、ナチス政権の追求した『軍モトーリズイールング』のための要求に存分に応える存在であったことは疑うべくもない。『電撃戦』戦略は『オペル社』なしには成立しなかった。それはもちろん『総力戦』期についてもいっそう当てはまる。

1942年以降はGMアメリカ本社とドイツ子会社は事実上分離する。両社は米独それぞれの軍事経済で枢要な位置を占めるのである。ドイツにおいて『オペル社』は、3トン・トラック『オペル・ブリッツ』のライセンス生産供与に見られるように、その大量生産技術によってシュペーア時代の生産合理化のモデル工場となったのである。」

 


3トン・トラック「オペル・ブリッツ」(タイプS)

このトラックは1930年にブランデンブルクに
専用工場が建設されて生産開始となった

 

●ところで、1930年代半ば頃、アメリカ軍当局は必要な軍需物資の95〜97%を民間に頼っていたが、その民間企業の中で1、2位を争っていたのは常に「デュポン社」であった。

そして当時全世界を三分していた三大化学トラストである「デュポン社」「I・G・ファルベン社」「ICI社」(イギリス)は、敵味方に分かれた戦争中も、そして戦後も、国籍に関係なく一貫して友好関係を保ち、もちつもたれつで仲良く共存共栄を図ろうとしていたのである。

 

 

●デュポン一族は、アメリカで結成された複数のファシスト・グループに政治献金をしていた。このファシスト・グループには反ユダヤ主義や反黒人を唱える「アメリカ自由党」や、1933年に125万人もの会員がいた「クラークの十字軍」と呼ばれる組織も含まれていた。


●1937年、リベラル派のドイツ駐在のアメリカ大使ウィリアム・ドッドは、任期終了時にニューヨーク港で記者会見を開き、次のように語った。

「アメリカの産業資本家たちのあるグループは、民主的な政府の代わりにファシスト政権を何が何でもアメリカに樹立したいと、ドイツとイタリアのファシスト政権と密接に連絡を取り合っている。私はベルリンでの任期中に、アメリカの支配階級の一部がナチス政権といかに親密であるかを見聞する機会を多く持った。船上で旅客の1人が、彼はある巨大銀行の著名な重役だが、ルーズベルト大統領がこのまま進歩的な政策を続ければ、具体的な行動を取ってアメリカにファシズム政権をもたらす用意があると単刀直入に語ってくれた」



●1944年、アメリカ上院軍事調査委員会において、検事次長は次のように発言している。

「『I・G・ファルベン社』は国際カルテル協定によって勢力を保っている。アメリカにおいて同社は『デュポン社』および『ICI社』と協定を結び、アメリカ国内市場を三分割している。1940年、『デュポン社』は『I・G・ファルベン社』に対し、戦後、『I・G・ファルベン社』の市場回復に協力することを約束した」

検事次長の発言を受けて、キルゴア委員長は次のように結論を下した。

「このような『デュポン社』の協定は、『スタンダード石油』のそれと同じく『売国奴』のそれであり、上院議員ハリー・トルーマンも同様の語を使って非難した」


●もちろんこのような利敵行為が「売国奴」のそれであることは言うまでもないが、デュポンは当然その事実を否定し、次のように述べた。

「『I・G・ファルベン社』との関係をアメリカ及び連合国側の利益を損ねる利敵行為であるとして非難する意見があるが、それは全くの嘘である。それはあたかもソ連共産党のプラウダ紙が『原子力研究は完全に独占資本の支配下にある』と非難するようなもので、的はずれもいいところだ」



●さて最後になるが、第二次世界大戦中の「デュポン社」は、「原子爆弾」の生産を除外しては考えられない。

「マンハッタン計画」がひそかに計画された頃、この計画の中心人物レスリー・グローブス将軍は、「デュポン社」に協力を求めた。これを受けて「デュポン社」は、シカゴ大学の監督のもとに、まずテネシー州オークリッジの付近に試験工場を建設し、次いで、ワシントン州ハンフォードにプルトニウム工場を建設した。「これまで世界で企てられたもののうち、もっとも大規模な、また、もっとも困難な工業企業」はこうして実現されたのである。

もっとも、これらの巨額の費用は「デュポン社」が自腹を切ったわけではない。全て「国費」である。

 

 
(左)ウラン型原爆「リトル・ボーイ」 (右)プルトニウム型原爆「ファット・マン」

「デュポン社」はアメリカの原爆開発において重要な役割を果たした

 

─ 完 ─

 


 

■■追加情報: 「IBM」とナチス


●アメリカの作家エドウィン・ブラックが、『IBMとホロコースト ─ ナチスと手を組んだ大企業』という本を出した。

彼の両親はホロコーストを生き延びたユダヤ人である。

 

 
(左)アメリカのユダヤ人作家エドウィン・ブラック
(右)『IBMとホロコースト ─ ナチスと手を組んだ大企業』(柏書房)

彼は膨大な資料を駆使して、ナチスと親密な関係を築き巨利を
得たIBM創業者の行動を、厳しく指弾・告発している

 

●彼によると、「IBM」の創業者トーマス・ワトソンは、ヒトラーから「メリット勲章」(ドイツで2番目に位の高い勲章)を授かるほどナチスに貢献し、彼にとってヒトラーの第三帝国は世界で2番目に大きな取引先だったという。

ブラックは次のように告発する。

「IBMは、もともとドイツの子会社を通じ、ヒトラーのユダヤ人撲滅計画遂行に不可欠な技術面での特別任務を請け負い、恐ろしいほどの利益を上げた。IBMこそ現代の戦争に情報化という要素を持ち込み、こともあろうにあの戦争でナチスの“電撃戦”を可能にした張本人なのだ」

 


ヒトラー(左)と会談するIBM創業者
トーマス・ワトソン(左から2人目)

このIBM創業者はヒトラーから「メリット勲章」を
授かるほどナチスに貢献し、彼にとってヒトラーの
第三帝国は世界で2番目に大きな取引先だったという

 

●当時、コンピュータは存在しなかった。が、コンピュータの先駆をなす機械を「IBM」は開発していた。

パンチカード機器の「ホレリス」がそれである。

ナチスは「IBM」の提供したパンチカード技術を使い、ドイツ国民の名前、住所、家系、銀行口座などの情報がすばやく参照できるようにした。その技術で、同性愛者を「ナンバー3」、ユダヤ人を「ナンバー8」、ジプシー(ロマ)を「ナンバー12」などと区分していたのである。(「D4」のコードは、殺害された被収容者を意味していた)。

 

 
(左)「IBM」が開発したパンチカード機器「ホレリス」 (右)ホレリス・パンチカード

 

●ブラックは言う。

「IBMがナチスに提供したパンチカード機器『ホレリス』が、ユダヤ人の判別と鉄道の効率的な運行を容易にし、ユダヤ人問題の『最終解決』に無比の威力を発揮したのである。もちろん、IBMなしでも、ホロコーストはすべての形で行われたであろう。しかしIBMなしには、ナチスの犠牲者の数は実際よりも遥かに少なかったはずである。その意味ではIBMの創業者トーマス・ワトソンへの評価はスキャンダルと言わざるを得ない。現代的な企業で先見の明があった社長どころか、ホワイトカラーの犯罪者なのである」

「IBMは戦後、まったくその責任を問われなかった。ナチス時代のIBMのすべての幹部は報償を与えられ、昇進した。その忠誠心が報われたのか、その効率の高さが報われたのであろう。私は情報を知らず、命令を実行することに満足していたIBMの幹部たちを責めようとは思わない。しかしトーマス・ワトソンとその取り巻きたちは、自分たちのしていることを十分に承知していたことだけは繰り返し指摘したいと思う」

 

 

●ちなみに「IBM」は、ナチス第三帝国が崩壊して間もなく、1948年にイスラエルが建国宣言すると、すかさずイスラエルに進出し、現在に至るまでイスラエルでの事業展開に多大な投資を行っているという。

 

 


 

■■追加情報2: 映画 『ザ・コーポレーション』


●ドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』の中で、マイケル・ムーア監督は次のように語っている。

 

 
(左)映画『ザ・コーポレーション』(DVD)
(右)マイケル・ムーア監督

※ この映画は、マイケル・ムーア監督ら
総勢40名のインタビューを基に構成された
社会派ドキュメンタリー映画である。

 

20世紀最大の封印された話といえば、ナチス・ドイツとアメリカ企業が共謀していた話だろう。

まず最初はアメリカ企業がドイツを再建し、初期のナチスをサポートしたこと。次に戦争の筋書きを作ったこと。

GMはオペル社を守り、フォードも自社を守った。

コカ・コーラ社は存続が危なかったので、ドイツ人のためにファンタ・オレンジを発明した。この発明でコカ・コーラ社は利益を守れたんだ。ファンタ・オレンジはナチス御用達なのさ。何百万人と死んでいる時にファンタで富を築いていた」

 

 

 


 

■■追加情報3: 『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』


●なぜアメリカ国内に「敵国ナチス」を支援した人々が存在したのか?

彼らは単に「反ユダヤ主義」で結ばれていたのか?

理解にとまどう人は少なくないと思う。


●アメリカ政財界の「親ナチス派」の実態について、もっと詳しく知りたい方は

菅原出氏が書いた本『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』(草思社)を読まれるとよいだろう。

 


『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』
菅原出 著(草思社)

 

●この本の中で菅原出氏は次のように述べている。

「1920年代からソ連邦の崩壊にいたるまで、アメリカの外交戦略には、明確なパターンがあった。それは『共産主義に対抗するために独裁者を援助し、育てる』というものである。この最初にして最悪の例がヒトラーのナチスだったといえる。第一次世界大戦で敗北したドイツが、十数年後にはヨーロッパを席巻する軍事大国になれたのは、ブッシュ大統領の一族など、アメリカ政財界の『親ナチス派』の援助に負うところが大きかったのだ。

戦後、この親ナチス・エリート集団は、反共工作のために各国の独裁者、麻薬王、そしてイスラム過激派とも手を組んだが、多くの場合、最終的にはみずからが育てた独裁者たちと対峙することになった。」



●この本の中で指摘されているように、彼ら「親ナチス派」は「反共産主義」で結ばれていたのだ。

もちろん、当時のアメリカにはルーズベルト大統領やモーゲンソー財務長官をはじめとする「反ナチス派」もいて、「親ナチス派」勢力の動きを取り締まろうと努めていたのである。

つまりアメリカは、熾烈な内部抗争を抱え、対立する二派による一進一退の攻防を繰り返しながらあの戦争を戦っていたというわけである。

 

 
(左)第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト

(右)アメリカ財務長官ヘンリー・モーゲンソー(ユダヤ人)。
戦後、「全米ユダヤ人組織連合」の名誉会長を務め、
イスラエル援助機関を指導した。反ナチス派。

 

●そして、この「親ナチス派」の中で、最も重要な役割を演じたのはダレス兄弟であった。

ダレス兄弟の実態については、次のファイル「シュローダー男爵とダレス兄弟の暗躍」をご覧下さい。

 

 
(左)アレン・ダレス (右)ジョン・フォスター・ダレス

 

 


 

 

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