No.a6fhd200

作成 1998.2

 

シオニズムの変遷



〜 イスラエル建国の舞台裏 〜

 

 

第1章
いつからシオニズム運動は
 暴力的な運動になったのか?
第2章
「ロスチャイルド家」抜きには
ありえなかったイスラエル建国
第3章
シオニスト組織と
ロスチャイルド一族の深い関係

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■■第1章:いつからシオニズム運動は暴力的な運動になったのか?


●一般にシオニズム(ZION主義)とユダヤ思想の違いはあまり意識されることはない。

そのため、シオニズムとユダヤ思想は同じものだと思っている人が多い。しかし本質的に、シオニズムとユダヤ思想は別物である。

また、シオニズム運動は、現在のような人種差別的なイデオロギーと軍事思想に基づいたシオニズム以外にも、幾つかの流派があり、初期のシオニズム運動は比較的穏やかな性格のものであった。しかし、次第に強硬路線を唱える者たちに乗っ取られていく。

この点を理解しておくのは非常に大事なので、シオニズム運動の歴史を少し振り返ってみたい。

 



イスラエルの旗は、1891年にシオニズム運動の
運動旗としてユダヤ人ダビデ・ウルフゾーン
(リトアニア出身)が考案したものである。

 

●シオニズム運動は、19世紀末に南ウクライナで連続して発生した「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)に大きな衝撃を受けたロシアのユダヤ人たちによって、本格的に開始されたものである。

当初、ロシアにおけるシオニズム運動の主流は「宗教的シオニズム」であった。宗教的シオニズムは、信仰の崩壊や解放や同化から、ユダヤ民族の統一を守ろうとし、もしユダヤ人が自らイスラエルヘの帰還を準備するとき、神の助けを期待するものであった。彼らは、パレスチナの植民地化を要求したが、しかし独立国家の樹立までは考えておらず、世俗的な運動(政治的シオニズム)による時期尚早の国家建設は、神への冒涜であると主張していた。


また、ロシアのシオニズム運動の中には、新たに「文化的シオニズム」という潮流も生まれた。

この「文化的シオニズム」の創始者はキエフ州スクヴィラ生まれのアハド・ハアムだった。彼はパレスチナを訪れ、そのあとすぐに植民は誤れる道だと批判した。

彼によれば、ユダヤ国家の建設はまず当面は実現され得ない。それに代わるものとして、彼は2、3の入植地に集中して移住することを支持し、パレスチナを、離散におけるユダヤ民族のルネサンスがそこから出現するような、そうしたユダヤ民族全体の精神的拠点にすることに賛成した。彼も他の多くの東欧ユダヤ人と同じように、特に彼らの文化的独自性を強調し、いまこそそれを再生復活させることが大切だと説いた。

 


「文化的シオニズム」の創始者
アハド・ハアム

彼はパレスチナを訪れ、そのあと
すぐに植民は誤れる道だと批判した

 

●この「文化的シオニズム」は「政治的シオニズム」に対する、もう1つ別の決定的な道となるべきものであった。

マルチン・ブーバーおよびその他の著名人たちによってさらに進められたこの「文化的シオニズム」は、とくに東欧ユダヤ人の根源を援用して、「ユダヤ的特性」を強調し、他の文化の評価を独自の文化への意識と結合させた。その限りにおいて文化シオニストたちは、パレスチナにおけるアラブ人たちとの妥協を支持したのであった。

 


マルチン・ブーバー

彼は20世紀最大のユダヤ人神学者である。
1938年、ドイツからイスラエルに移住し、ユダヤ人の
教育の充実を図った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を
体験してから死去する。その遺言に遺産を貧しいアラブ人の学生にも
分かち与えることを書き遺した。キリスト教神学界にも影響を与えた
この碩学に対して、ユダヤ人側からの評価は低かった。

 

●東欧のシオニストは右派から左派まで様々な団体を形成していた。

「宗教的シオニズム」を支持していた正統派ユダヤ教徒の諸政党は、「イスラエル同盟」という形で連合した。彼ら正統派ユダヤ教徒の考えによれば、現状の変革はメシアによる救済をもって、初めて実現するはずであった。実際には、彼らはこうした態度によって右派の政策を助長していた。1920年代を通して、彼らは最も多数の支持者を集め、約50%の支持率を保っていた。



●西欧において「政治的シオニズム」運動を始めたのは、“近代シオニズムの父”とされているテオドール・ヘルツルである。

彼はシオニズム運動とは全く無縁なハンガリーの“同化ユダヤ人(キリスト教社会同化者)”であった。ところが、フランスの「ドレフュス事件」に遭遇し、自らの民族感情を呼び覚まされたのであった。

ヘルツルは、ユダヤ人の悲劇の根源は“国家”を持たないところにあると考え、ユダヤ国家樹立こそ急務であるとした。彼は『ユダヤ人国家』を著し、1897年には、スイスのバーゼルで国際的な「第1回シオニスト会議」を開催し、「世界シオニスト機構」を設立。自ら議長となり、シオニズム運動の国際認知のために、精力的な外交活動を展開していった。

 

 
(左)テオドール・ヘルツル
(右)彼が書いた
小冊子『ユダヤ人国家』

 彼は「第1回シオニスト会議」を開催し、
「世界シオニスト機構」を設立した



「第1回シオニスト会議」の入場証

 

●東欧で「文化的シオニズム」を提唱していたアハド・ハアムは、ヘルツルの「政治的シオニズム」を批判していた。

また、ユダヤ教の主流ともいうべき伝統にのっとった正統派ユダヤ教徒は、シオニズム運動そのものが世俗的なものであるとして支持しなかった。ロシアのユダヤ人労働者総同盟「ブント」のメンバーも、シオニズム運動を“反動ブルジョア的”と決めつけ非難していた。

さらに改革派ユダヤ教徒も、ユダヤ人は民族ではなく宗教集団であるから、国家を樹立する必要はないとして反対していたのである。


●また、東欧ユダヤ人たちの多くは西欧ユダヤ人たちを、「ディアスポラ(ユダヤ人の大離散)の苦労を忘れ果てている」といって非難していた。逆に西欧ユダヤ人の間では、東欧ユダヤ人たちを「時代に取り残された者」として蔑む者たちがかなりいた。もっとも東欧ではユダヤ人の物質的困窮が最大限に達していたので、西欧のユダヤ人たちは彼らに救いの手を差しのべようとはした。そしておまけに彼らを必要とした。東欧にこそ“ユダヤ人”の大半が住んでいたからである。


しかし、東欧のシオニズム運動は、次第にメシア救済を掲げる理想主義に走り、行き詰まるようになる。そのため、ヘルツルの「政治的シオニズム」に大きな可能性を見い出す者が増えて、彼らは「実践的シオニズム」を唱えるようになる。

その後、ロシアのシオニストたちのスポークスマンであったメナヘム・ウシシュキンは、「政治的シオニズム」と「実践的シオニズム」の2つを統合することを提案。1907年の「第8回シオニスト会議」で、この2つのシオニズム運動が統一され、「総合的シオニズム」と名付けられた。名付けたのは、白ロシアのピンスク地区出身の化学者ハイム・ワイツマン(後の初代イスラエル大統領)である。

この「総合的シオニズム」運動が、各種シオニズム運動の中で有力路線となる。

 


白ロシアのピンスク地区出身の
ハイム・ワイツマン

 

ハイム・ワイツマンは「世界シオニスト機構」の総裁を務め、その後、何年にもわたって世界のシオニズム運動の指導者となった。やがてワイツマンのシオニズム運動は、ベングリオン「建国強硬路線」にとってかわられていく。

ベングリオンの指導のもとに、ユダヤ人の独立国家をつくる基盤は着々と準備された。彼はシオニスト労働党マパイの指導者で、労働総同盟代表などを経て、やがて初代イスラエル首相になる。このマパイ、労働総同盟に基盤をもつシオニスト主流派の潮流が、そののち長くイスラエルを牛耳ることになるのである。

 


デイビッド・ベングリオン

 

●強硬路線をとるもう1つのシオニズムの潮流(ベングリオンのライバル)について触れておきたい。それは「シオニスト修正派」である。

これは南ロシア出身のジャボチンスキーに指導され、ユダヤ人の武装、パレスチナ人の追放、イギリスとの非妥協、ヨルダン川の東西の岸を含む大イスラエル(エレツ・イスラエル)復活などを唱え、やがてメナヘム・ベギンの「イルグン」や、イツハック・シャミルの「シュテルン」などの、ユダヤ人テロ組織を生み出した。(メナヘム・ベギンとイツハック・シャミルの2人は、後にイスラエル首相となる)。

また、1920年には、後のイスラエル国防軍の中核となる「ハガナ」と呼ばれる秘密のユダヤ人武装部隊が結成され、年々その組織を拡大し、軍隊としての形を整えていった。このユダヤ人武装部隊は、後にイスラエル国防軍の中核となる。

 

  
(左)ジャボチンスキー (中央)メナヘム・ベギン (右)イツハック・シャミル

 

●このように、初期のシオニズム運動は比較的穏やかな性格のものであったが、次第に強硬路線を唱えるシオニストが力をつけて主流派となり、一部の者は武装化して軍事力をつけて暴力的となり、イスラエル建国が果たされたのである。

 

 


 

■■第2章:「ロスチャイルド家」抜きにはありえなかったイスラエル建国


●イスラエル建国の父にして大慈善家・大資本家として知られるモーゼス・モンテフィオーレ

彼はヨーロッパの金融王ネイサン・ロスチャイルドの義兄弟であった。

そしてもうひとりのイスラエル建国の父は、ずばりフランス・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルドであった。

彼らは、東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)をパレスチナに入植させるために資金を提供して力を尽くし、イスラエル建国の種をまいたのである。

 

 
(左)モーゼス・モンテフィオーレ(ロスチャイルド一族)
(右)フランス・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルド

2人は「イスラエル建国の父」として知られている

 

●一般に“近代シオニズムの父”は、ユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルだとされる。彼は1894年にフランスで起きた「ドレフュス事件」で、反ユダヤ感情が燃え上がるのを目の当たりにした。ユダヤ人の危機を感じた彼は、1896年、今日では有名になったパンフレット『ユダヤ人国家』を出版する。

しかし、この『ユダヤ人国家』の表紙に最初に記した言葉が、「ロスチャイルド家の人々へ」だったことは、ほとんど知られていない。フランスのドレフュス事件から間もなく、彼は日記に次のように建国案を記している。

「ベネチアの建国史をモデルにすることになるだろうが、ベネチアの失敗からも学ばなければならない。ロスチャイルド家が我々と手を組んでくれるなら、初代の『ドージェ』はロスチャイルドとしよう」


●ここにヘルツルが記したのは、7世紀末に独立したベネチア共和国水の都ベニスのことで、やがて大々的な植民地主義を推し進め、武力的商法でアドリア海を制圧した国家である。ヘルツルはその武力征服を理想像として想い描いている。このベネチアが19世紀後半に没落し、今日のイタリアに併合されてしまった歴史に、彼は学ぼうとした。そして、この国で「ドージェ」と呼ばれたのが大統領の地位であり、ヘルツルはユダヤ国家の初代大統領にロスチャイルドが就くことを夢想していたのである。

 


テオドール・ヘルツル

 

●ユダヤ国家建国を熱望していたテオドール・ヘルツルは、何回も何回もロンドンのロスチャイルド家に書簡をしたため、会見の申し込みを行った。

「貴方がすべての調和の要石なのです。もし貴方が拒絶されれば、私がつくり上げてきたすべてのものが壊されてしまいます。貴方が参加しないなら、私は異なった方法を取らねばならないのです。私は貴方にこのすべての運動の指導をお願いしたい。貴方が引き受けてくださるのであれば、私は喜んで指導者の座を下ります」

このヘルツルの要請に対し、ロスチャイルド一族は、最初は無関心だったと表向き伝えられている。しかし実際には、ロスチャイルドは、石油などの利権支配のために中東での足場を築くかたわら、誰よりも深くシオニズムに関わっていたのである。(ちなみに、ドレフュス事件で逮捕されたユダヤ人アルフレッド・ドレフュス大尉は、ロスチャイルドの血族であった)。

 


ロスチャイルド家の紋章

 

●ロスチャイルド家のイスラエル建国への働きかけ(パレスチナの利権獲得)は、第一次世界大戦終結と同時に急速に高まる。

ロスチャイルドを含む数人の有力なユダヤ人は、第一次世界大戦終結の際、敗戦国ドイツに課せられた条約の文言を任せられた。条約により、ロスチャイルド家はドイツが所有していたパレスチナ(トルコの領土)の「鉄道権」を得た。また、ロンドンのロスチャイルド家は、トルコ共和国に貸し付けを行っており、その額は1億ポンドに迫るものだった。第一次世界大戦後、敗戦国側だったためにトルコ政府が崩壊すると、ロスチャイルド家はそのトルコに対する貸し付けの未払いを理由に、パレスチナに対する権利を要求した。このようにしてロスチャイルド家は、パレスチナに関する方針を押し通す確実な手段を得る道を開いたのである。


●また、ロンドンのロスチャイルド家はイギリス政府内の代理人を通して、イスラエル建国へとつながる階段を強固に築いた。

第一次世界大戦後、イギリスはパレスチナに対する「委任統治権」を与えられたが、政府はロスチャイルド家の命ずるところに従った。1917年11月2日、イギリス外相バルフォアは、ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ロスチャイルド宛に、「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人の国家建設を支持し、努力する」事を確約した書簡(手紙)を出したが、これが有名な「バルフォア宣言」である。

 

  
ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ロスチャイルド(左)と
イギリス外相バルフォア(中央)。(右)はバルフォアが
ライオネル・ロスチャイルド宛に出した手紙=
「バルフォア宣言」(1917年)

 

この「バルフォア宣言」は書簡形式をとっているが、この叩き台をつくったのはシオニズム運動の世界的指導者ハイム・ワイツマンライオネル・ロスチャイルド自身で、彼らは既に1917年7月18日の時点で宣言の「草案」をバルフォアに手渡していたのである。

(ちなみに、この段階で入植地に提供された資金は170万ポンドに達していたが、そのうちの160万ポンドはライオネル・ロスチャイルド自身のポケットマネーであった)。



●パレスチナへのユダヤ人の入植活動は、ハイム・ワイツマンの指揮下で行われた。

パレスチナのユダヤ人入植地は、1900年には22であったが、1918年には47まで増えた。

1909年には「キブツ」と呼ばれるユダヤ人の集団農場が作り始められ、ユダヤ人の町「テルアビブ」ができた。

 


イスラエル建国前にパレスチナに入植したユダヤ人
(「キブツ」と呼ばれるユダヤ人の集団農場の様子)

 

●このパレスチナへの入植活動には、当然、多くの資金が必要とされた。しかし、それは心配する必要がなかった。

なぜなら、パレスチナで活動していたユダヤ人たちに、「匿名の寄贈者」というサインの付いた「小切手」が送られていたからだ。

この膨大な資金によって、続々とユダヤ人たちがパレスチナに入植し、その金によって住宅、学校、農業地を購入することができたのである。またその資金援助によって、その地で採れるあらゆる農作物が当時の世界市場よりも高く買われ、全収穫物が毎年買い付けられるということが行われた。

後にこの「匿名の寄贈者」の正体は、フランス・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルドであったことが公にされた。(フランスとロンドンの両ロスチャイルド家は、1878年以来、パレスチナの土地を買収し続けてきたのだ)。

 


第一次世界大戦後の中東

 

●その後、イスラエル建国運動は、ナチスの台頭によって急速に進展し、

第二次世界大戦後、正式にイスラエル共和国が成立する。

(※ この第二次世界大戦中に、シオニストたちはどういう活動をしていたのか? 第二次世界大戦でのシオニストたちの動きについては、別ファイル「ナチスとシオニストの協力関係」をご覧下さい)。

 


アドルフ・ヒトラー


「イスラエル共和国」の独立宣言(1948年)

 

●初代イスラエル首相にはベングリオンが就いたが、彼は、次のように語ってロスチャイルド家を称えた。

「ロスチャイルド家がどのユダヤ人よりも、おそらく全世界のユダヤ人の総数を合わせたよりも、多くの費用をユダヤ人開拓地のために提供した」


●ロスチャイルド自身は、初代イスラエル大統領ワイツマンにこう語っている。

「私がいなかったらシオニズムは成功しなかっただろうが、シオニズムがなかったら私の仕事も台無しになっていただろう」

 


イスラエルの大蔵大臣(右)らと、親しげに
肩を組むロスチャイルド(中央)

彼らの結びつきは非常に深かった

 

このように、パレスチナにユダヤ人国家を建設するのに、最も多額の金を注ぎこんだのがロスチャイルド家であった。パレスチナでのユダヤ人の入植活動は、ロスチャイルド家の資金援助によって実施された。これは厳然たる歴史的事実である。

そしてまた、ロスチャイルド家のシオニズム支持は、中東における「利権」獲得と裏腹になっていたことも歴史的事実である。一時期、パレスチナでサッスーン家(ロスチャイルド家の代理人として特に中国などアジアで活動)が暗躍したが、この間の事情を物語っている。


●ちなみに、現在、イスラエル共和国の首都テルアビブには、ロスチャイルドの功績を称えて作られた「ロスチャイルド通り」が存在する。(エドモンド・ロスチャイルドは、イスラエルの切手やお札の顔にもなったことがある)。

 


エドモンド・ロスチャイルドを称えて発行されたイスラエルの記念切手

 

 


 

■■第3章:シオニスト組織とロスチャイルド一族の深い関係


●ユダヤ人大富豪ロスチャイルドの研究で有名な広瀬隆氏によると、シオニズムを動かしたユダヤ人の主な協会や機関を調査してみると、次のようなリストが出来上がったという。

※ ロスチャイルド一族の名前がぞろぞろ出ている↓

 

■「ヒルシュ男爵財団」──設立者モーリス・ヒルシュ男爵、理事長マイヤー・アイザックス、副理事長ヤコブ・シフ、理事ロバート・モーゲンソー、ヴィクター・ロスチャイルド(全員ロスチャイルド一族)

■「モンテフィオーレ・ホーム」──理事長ヤコブ・シフ、理事ヴィクター・ロスチャイルド、サミュエルとバーナード・ザックス兄弟(全員ロスチャイルド一族)

■「世界ユダヤ人会議」──会長エドガー・ブロンフマン(ロスチャイルド一族)

■「イギリス・ユダヤ人協会」──設立者フランシス・ゴールドシュミット、会長オズモンド・ゴールドシュミット、副会長フレデリック・モカッタ、アルバート・サッスーン、レオポルド・ロスチャイルド(全員ロスチャイルド一族)

■「ユダヤ人植民協会」──設立者モーリス・ヒルシュ男爵、会長オズモンド・ゴールドシュミット、レオポルド・ロスチャイルド(全員ロスチャイルド一族)

■「マッカビウス協会」──会長アルバート・ゴールドシュミット(ロスチャイルド一族)

■「ユダヤ人保護委員会」──財務理事レオポルド・ロスチャイルド

■「ユナイテッド・ユダヤ財団」──理事長ギイ・ロスチャイルド

■「フランス・ユダヤ人協議会」──会長アラン・ロスチャイルド

■「アメリカ・ユダヤ人会議」──会長ネイサン・シュトラウス(ロスチャイルド一族)

■「アメリカ・ユダヤ人委員会」──設立者ヤコブ・シフ(ロスチャイルド一族)

■「イギリス・イスラエル商業会議所」──会長マーカス・シーフ(ロスチャイルド銀行重役)

■「イギリス・イスラエル輸出委員会」──会長マーカス・シーフ(ロスチャイルド銀行重役)

■「国際女性シオニスト機構」──会長エドモンド・ロスチャイルド夫人

■「西セントラル・ユダヤ人クラブ」──会長リリアン・モンタギュー(ロスチャイルド一族)

■「ユダヤ人女性連合」──会長ナサニエル・コーエン夫人(ロスチャイルド一族)

■「パレスチナ経済会議」──会長フルフレッド・モンド(ロスチャイルド一族)

■「ユダヤ人退役軍人協会」──会長エドモンド・ロスチャイルド

■「ユダヤ人移民組織ユース・アリヤ・フランス」──会長ギイ・ロスチャイルド夫人

■「ヘブライ大学」──理事長ヘンリー・モーゲンソー(ロスチャイルド一族)

■「アメリカ・イスラエル独立債券発行会議」──議長ヘンリー・モーゲンソー(ロスチャイルド一族)

■「ユナイテッド・ジューイッシュ・アピール」──事務局長ヘンリー・モーゲンソー(ロスチャイルド一族)

 

  
(左)第二次世界大戦中のロスチャイルド直系当主
ヴィクター・ロスチャイルド (中央)ギイ・ロスチャイルド
(右)アメリカ財務長官を務めたヘンリー・モーゲンソー。
ロスチャイルドの血族で、戦後、「全米ユダヤ人組織連合」の
名誉会長を務め、イスラエル援助機関を指導した。

 

●広瀬隆氏は著書『赤い楯』の中で次のように語る。

「イスラエルの建国は、全世界のユダヤ人がここに戻って来た、というような美しいドラマではなく、聖書を持ち出すなら、ダビデ王以前にユダヤ人ではない無数の民族がここにいたことを自ら聖書が証明する通り、パレスチナがユダヤ人の専用物であるはずはない。現代の話をするなら、すでにここに住みついていたアラブ人(パレスチナ人)を追放した侵略者はまぎれもなくユダヤ人であった。

イスラエルに入った人は、この土地がかつては荒れ果てた砂漠であって、これを緑に変えたのはユダヤ人である、という話を百回も聞かされる。そちこちで出版されている書物から、すでに出発前にその“歴史”なるものを読み、洗脳されているのである。ところが自分の足でイスラエルを歩いてみると、どこにでもアラブ人が住み、畑を持っている。北部ガリラヤの野辺は、キリストが山上の教訓を垂れた丘一帯にひろがる緑が、何千年もの歴史を物語っている。アラブ人が畑で働いている。

こうしてイスラエルという国家に懐疑的になる。

時代は変わり、PLOのアラファト議長の登場からパレスチナ問題が多くの人にも理解されるようになり、数々のジャーナリストが正確な中東情報を伝えるようになってきた。これに危機感を抱き、パレスチナ人の絶滅によって問題の消滅をはかろうとしているのが、今日のユダヤ人国家イスラエルである。

闘争の責任者はアラブとイスラエルのいずれにあるのか、という議論を交わす者がほとんどであるが、これは、議論の出発点を誤ったものである。パレスチナ問題の根源は、“ヨーロッパ人”によるユダヤ人迫害にあった。このヨーロッパ人の責任が、アラブ人から土地を奪取することによって中東に転嫁されたことに源がありながら、そのヨーロッパ人が口をつぐんでいるのは、不思議な沈黙である。イスラエルを建国することは、ユダヤ人を追い出したいと思うヨーロッパの、多年の願望だったのである。イスラエルはユダヤ人の国ではなく、ヨーロッパによって創られた国であった。


「イスラム教とユダヤ教の対立、あるいはアラブ民族とユダヤ民族の死闘、これはそのあとに生まれた結果であり、中東紛争の原因ではない。熱烈なシオニズムがイスラエルを建国したと言うが、そのシオニズムを動かしたユダヤ人の主な協会や機関を調査してみると、上のようなリストができあがる。(残念ながら、ここに全てを紹介することはできない)。

これらロスチャイルド一族の名前は特別にコレクションしたものでなく、ほとんど全員が重要な巨大企業と事件を追うなかで偶然に付随して出てきた人たちである。したがって系図は省略するが、これらの重要なユダヤ機関を体系的に描けば、大変なシオニズムの説明図になるであろう。

ことに最後の部分に記したユダヤ人、ヘンリー・モーゲンソーは、ナチスを倒す第二次世界大戦の終了直前まで、アメリカ合衆国の全財産を預かる財務長官であった。この人物がイスラエルの独立債を発行し、今日のユダヤ人にとって世界最大の資金調達機関である『ユナイテッド・ジューイッシュ・アピール』に私財を投じたのである。

これを一覧すれば、シオニズムは、ユダヤ民族の闘いなどではなく、『ロスチャイルド一族のユダヤ機関』の活動と表現するほうが的確であろう。

こうしてヨーロッパ人が砂漠に蜃気楼のように幻の国境線を引き、人知れず創作したものがイスラエルという国家であった。



●上で広瀬隆氏が指摘しているように、イスラエルはヨーロッパによって創られた国であった。

結局、イスラエルが中東に建国されたのは、ユダヤ人のためというより、なにかと問題の種になるユダヤ人を、自国から追い出したいという欧州諸国の思惑と、ロスチャイルドの中東戦略(利権支配)が一致したのが大きな要因だったといえる。


なお、アラブ人とユダヤ人は大昔から宿命的な敵対関係にあったと説く人がいるが、それは本当ではない。アラブとユダヤの関係が悪化したのは、第一次世界大戦後のことに過ぎない。そして対立の原因は人種的、宗教的なものではなく、政治的なものである。第一次世界大戦までパレスチナではアラブとユダヤは平和的に共存し、その間に重大な摩擦は起きなかった(ユダヤ人は少数民族であった)。

第一次世界大戦後、それまでパレスチナを支配していたオスマン・トルコの敗北にともなって、パレスチナは国際連盟の委任統治の形式で、イギリスの支配下におかれた。これを機会に、第2章で触れたように、イギリスが戦時中のユダヤ人に対する約束に従って、パレスチナにユダヤ人の「民族的ホーム」の建設を許してから、対立が始まったのである。


●「外国からのユダヤ人が来るまでは、お互い行ったり来たりしながら仲良く暮らしていたものです」という言葉は、1948年以前にパレスチナに住んでいたアラブ人がよく口にする言葉である。

“外国からのユダヤ人”というのはいうまでもなく、建国後に移住して来た欧米系のユダヤ人を指す。そのような指導者階級のもとで強引に推し進められた「植民(入植)政策」によって、カナンの時代からパレスチナに住んでいたアラブ・セム系先住民の土地が奪われていったのである。そのため“パレスチナ・アラブ人”たちの抵抗運動は死にもの狂いの“テロリズム”にならざるを得ない。

 

─ 完 ─

 


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