No.b1fha506

作成 2003.6

 

ヒトラーの日本観と日独交流秘話

 

序章
ヒトラーが指摘していた
「3つの人種」と「ユダヤ菌」とは?
第1章
意外にも日本の文化や伝統に
好意的だったヒトラー
第2章
2つの世界大戦と日独関係の変化
第3章
SS長官ヒムラーの風変わりな人種理論
第4章
『ヒトラーの遺言』に書かれている
ヒトラーの好意的な日本観

おまけ
「ベルリン・オリンピック」と
幻の「東京オリンピック」
おまけ
ヒトラーの反ユダヤ主義に
同調しなかった日本政府

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■■序章:ヒトラーが指摘していた「3つの人種」と「ユダヤ菌」とは?


●第二次世界大戦中、日本はイタリアとともにドイツと同盟を結んでいた。1940年9月27日にベルリンで結ばれた「日独伊三国軍事同盟」によって、三国の枢軸体制を強化し、イギリスとアメリカを抑制しようとしたのだ。

が、ヒトラー自身は日本をどのように考えていたのだろうか?

 


(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。(右)三国軍事同盟祝賀会の様子。

 

●ヒトラーは『我が闘争』の中で、世界には「3つの人種」がいると書いている。

1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う「文化追従種」。そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」。彼の定義によると、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、日本人や他の民族は二等種(文化追従種)に過ぎない、と書いている。そして、3番目の文化破壊種はユダヤ人だと書いている。

またヒトラーは『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた「黄禍論(反日感情)」はユダヤ人が扇動したものであると書いている。ヒトラーは同じ敵を持つ仲間として、日本との同盟を考えていたのである。

 

※『我が闘争』は、1925年に第1巻、翌年12月に
 第2巻が出版され、1943年までに984万部も出て、
印税は550万マルクに上った。当時のドイツ文芸学の
大御所から、ゲーテの『詩と真実』と並べてドイツの
全著作の最高峰と称えられもした。ちなみに、この
「我が闘争」という題名は、ダーウィンの言葉
「生存闘争」をなぞったものであった。

 

●しかしヒトラーは、東方のこの同盟国の実力があなどりがたいものだ、とも考えていた。

ナチス・ドイツの軍需大臣を務めた建築家、アルベルト・シュペーアは次のように書いている。

「人種的観点からむろん問題の多い同盟を彼は拒否しなかったが、『日本との対決』を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーはイタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本は列強国の同盟国とみていた。」

 


アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●ところで、『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)という本があるが、この本は1941年から1944年にかけて、ヒトラーが側近に語りかけた会話を速記録してまとめ上げたものである。

当時、ヒトラーから最も信頼されていた秘書のマルチン・ボルマンが速記録を訂正、また本人から承認を取り、かつ個人保管していた資料なので、俗に『ボルマン覚書』とも呼ばれている。

 


(左)ヒトラーに忠実な側近中の
側近だったマルチン・ボルマン大将
(右)『ヒトラーのテーブル・トーク』

ボルマンはドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるった。
ヒトラーの卓上談義を記録した『テーブル・トーク』は、
「公式記録」として残されたものであり、俗に
『ボルマン覚書』とも呼ばれている。

 

●この『ヒトラーのテーブル・トーク』には、次のようなヒトラーの言葉が記されている。
(ヒトラーにとって「ユダヤ人」は感染力の強い「バイ菌」に見えていたようだ)。

「『ユダヤ菌』の発見は世界の一大革命だ。今日我々が戦っている戦争は、実は前世紀のパスツールやコッホの闘いと同種のものなのだ。いったいどれほどの病気が『ユダヤ菌』によって引き起こされていることやら。

日本はユダヤ人を受け入れなかったので、菌に汚染されずにすんだのだ。ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。すべての病気には原因がある。偶然などない。」

「1925年、『我が闘争』(それに他の未発表の論文)に書いたのだが、ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない敵だと見ている。日本人には鋭い直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということは分かっているのだ。となると外から叩くしかない。

本来、イギリスとアメリカにとっては日本との和解は多大な利益を意味する。その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人なのだ。私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった。」

 


(左)ナチス時代に作られた反ユダヤ主義のポスター。
(右)はこのポスターの一部を拡大したものである。ドイツ人の
血の中にユダヤの「ダビデの星」や共産主義や金の亡者の
病原菌がいっぱいいることが図案化されている。

 

 


 

■■第1章:意外にも日本の文化や伝統に好意的だったヒトラー


●ヒトラーは日本についてかなり詳しい知識を持っていたが、その情報源のひとつがドイツの代表的な地政学者、カール・ハウスホーファー教授である。(ミュンヘン大学での助手がルドルフ・ヘスだった)。

ヒトラーに『我が闘争』の執筆をすすめ、ヒトラーの政治顧問を務めたハウスホーファー教授は、また滞日経験のある日本研究家でもあった。彼は流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残している。

彼はアジアの神秘主義を深く研究し、チベットの地底王国アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じていた。(※ しかし1941年に独ソ戦争が始まると、彼はヒトラーと政策面での意見が合わなくなり、冷遇されるようになる)。

 


ドイツの代表的な地政学者
カール・ハウスホーファー教授

1908年から2年間、ドイツ大使館付き武官
として日本に滞在。1934年に「ドイツ学士院」の総裁に就任。
この間、駐ドイツ大使館付き武官であった大島浩と接触してドイツと
日本の政治的連携の確立に関与した。1939年にはSSが運営する
「ドイツ民族対策本部」に所属し、ナチス・ドイツの対外侵略
(生存圏の拡大)構想の理論的支柱になった。

 

●1939年にベルリンで「日本古美術展覧会」が開かれたが、このとき、ヒトラーも訪れている。

ヒトラーは多くの日本の古美術を熱心に見てまわった。特に平清盛像に異常な関心を寄せ、いつまでものぞきこんでいたという。平清盛といえば一代にして栄華をきわめた男。ヒトラーは平清盛に自分の姿を重ねあわせていたのであろうか。

 


1939年にベルリンの「日本古美術展覧会」を訪れたヒトラー

※ ヒトラーと一緒に、ヒムラー、ゲッベルス、ゲーリング、
リッベントロップなどのナチ党幹部も訪れた



(左)ヒトラーと平清盛像 (右)1939年3月1日『読売新聞』の記事

※ この展覧会は1939年2月28日から3月31日までの1ヶ月間、
ベルリンの「ドイツ博物館」で開催され、7万人が訪れたという

 

●山崎三郎氏(独協大学教授)の「私はこう思う ユダヤ問題は経済問題である」(『月刊保険評論』1970年)には、面白い逸話が紹介されている。

かつて満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、ドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。

「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴方の国の万世一系の皇統である。これはドイツが100年試みても、500年間頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ」

 


(左)昭和天皇 (右)鮎川義介。大正・昭和期に
活躍した実業家。「日産自動車」の実質的な
創立者。満州重工業開発総裁。

 

●これはヒトラーが、日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承している日本に対して、率直に敬意の気持ちを表わしたものであろう。

「君主政治」を完全に近い形で実現している国は、当時では日本だけであった。外国、とくにヨーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王は往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという、欧米人にとっては甚だうらやましい関係が、ごく自然な形で成り立っていたのである。

※ この「君主政治」と対極をなすものが、主権在民を置く民主主義であるが、ヒトラーは民主主義の欺瞞性を鋭く見抜いて批判していたのである。

 

 


 

■■第2章:2つの世界大戦と日独関係の変化


●ところで、第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」同士だった。

連合国の一員として参戦した日本は、1914年8月にドイツ帝国に宣戦布告し、ドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島と、南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略。日本の勝利で戦いが終結すると、敗戦国ドイツでは「黄禍論」(Yellow peril)が盛んに唱えられるようになったのである。


●「黄禍論」はアジア人を蔑視し、差別した考え方(人種差別の一種)であり、もともとは「日清戦争」後にヨーロッパ諸国に広まったもので、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が主な論者だった。

1905年に「日露戦争」でロシアが日本に敗れると、ヴィルヘルム2世は「黄禍論」を下地に、「白人優位の世界秩序構築」と、そのために日本をはじめとする「黄色人種国家の打倒」を訴えていたのである。

※ このヴィルヘルム2世は、1918年に第一次世界大戦でドイツが敗れた後は亡命先のオランダで「黄禍」に対する警告を繰り返し発し続けていた。

 


(左)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
(右)ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の国旗

過激な黄禍論者だったヴィルヘルム2世は、日本の国際的進出は
キリスト教文明ないしヨーロッパ文明を脅かすとして、「ヨーロッパ
列強は一致団結して、日本を極東に閉じ込めるべきだ」と主張し続けた。
※ このヴィルヘルム2世が宮廷画家に描かせた「黄禍の寓意画」が
「黄禍論」の流布に大きな役割を果たしたと言われている。

 

●この「黄禍論」はアメリカでも広がり、日本人労働者の就職妨害や排斥、学童の隔離教育、太平洋沿岸州議会のハワイからの転航移民禁止などとして具体化し、「排日気運」を激化させていったのである(=「太平洋戦争」の遠因)。

 


『黄禍論とは何か』
ハインツ・ゴルヴィツァー著(草思社)

帝国主義国家として空前の経済的繁栄を
謳歌していた欧米各国は、それまで劣等民族
と信じて疑わなかった黄色人種の台頭に限りない
不安を抱き(自らの「没落の予感」と結び付いて)
「黄禍論」はやがて政治的スローガンとなっていく。

本書は膨大な資料をもとに、政治、経済、文化、
宗教など様々な角度から「黄禍」をめぐる言説
を考察した歴史ノンフィクションである。

 

●ところで、1920年代になっても日独関係はそれほど良好ではなかった。当時の中国はドイツ最大の武器輸出国で、ドイツ財界は完全に親中だった。

日中戦争が始まる前の時期(1930年前後)には、ドイツの反日的な元将軍たちが、上海付近の中国人の防衛陣地の建設に協力していた。この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用した「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた。


●しかし、1936年に「日独防共協定」が結ばれ、1940年に「日独伊三国軍事同盟」が成立すると、日本とドイツの関係は急速に改善されていったのである。

 


1933年1月30日に誕生したヒトラー政権

※ ドイツの中国に対する軍事援助はヒトラー政権が誕生する
6年前(1927年頃)から始まっていた。「日独防共協定」の精神に
違反するとの日本からの度重なる抗議にかかわらず、ドイツは中国への
軍事援助(軍事顧問団の派遣)を続けていたが、日本との関係を
選択するに至ったヒトラーの意向により、1938年7月に
全面的に中国から引き揚げることになる(それまで
続いていた武器輸出も全て停止となった)。

 

●また、1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まると、ヒトラーはその直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。我々には3000年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、アメリカに宣戦を布告している。


●1943年にナチス・ドイツは技術交流の一環として、最新鋭の航洋型潜水艦(Uボート)を2隻日本海軍に無償で譲渡することを決定したが、これはドイツ海軍部内の人々、あるいは専門家の強い反対を押し切ったヒトラーの英断によって実現したのだった。

※「Uボート」はドイツ語の潜水艦の略だが、英語ではドイツ海軍所属の潜水艦を指している。

 


↑ヒトラーが日本海軍に寄贈したUボート(9C型)

このUボートは日独共通の戦場であるインド洋に勝利をもたらす
ために贈られたものだが、ヒトラーは日本海軍が同タイプの潜水鑑を
量産し、連合国の通商線を破壊することに期待をかけていたのである。
(元々このUボートは「有償」で日本海軍に提供するという話だったが、
ヒトラーの鶴の一声により「無償譲渡」が決定した。ドイツ海軍が
強く反対したが結局はヒトラーに押し切られる形となった)。


↑Uボートは1943年5月10日にヨーロッパを出航後、アフリカの
南端・喜望峰を経由して、90日間・約3万kmとなる航海を経て、
広島の呉港に到着(8月7日)。翌9月に日本海軍の所属となり、
「呂号第500潜水艦」(通称「呂500」)と命名された。
※ この潜水艦には防振・防音技術や溶接技術など当時の
日本にはない技術がいっぱい詰まっていた。

 

※ この日本にやって来たUボートについてもっと詳しく知りたい方は、
当館作成のファイル「ヒトラーが日本に贈ったUボート秘話」をご覧下さい。

 

 


 

■■第3章:SS長官ヒムラーの風変わりな人種理論


●SS(ナチス親衛隊)長官ハインリヒ・ヒムラーは、大戦中、日本軍の強さに感銘し、御用科学者に日本人がアーリア民族であることを立証させようとしていたことで知られている。

彼は日本人から日本刀を贈られたとき、日本人とゲルマン人の祭式の共通性を発見。学者の協力を得て、どうしたらこの共通性を種族的に解決できるか、の研究を進めたという。

これは、ヒトラーがつねづね、「なぜ我々は日本人のように、祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか? 間違った宗教を持ってしまったのが、そもそも我々の不幸なのだ」と語っているのを聞いていたからという(ヒトラーは日本の神道を高く評価していた)。

 


SS長官ハインリヒ・ヒムラー

ヒムラーの若い頃からのオカルト大好きな性格は、
異常なまでに熱を帯びていたことで知られる。彼は敬虔な
カトリックの家庭に育ち、熱心なカトリック教徒として成長
したが、ナチ党に入党してからは徐々にキリスト教とは距離を
置くようになり、「古代ゲルマン異教思想」に染まっていった。

彼はSSの隊員たちをキリスト教から引き離そうと試みたが、
結局彼らをキリスト教から引き離すことはできなかった。
(ヒムラーの空想的な「異教思想」は他のナチ党幹部
にも受けが悪かったといわれている)。

 

●また、戦局がドイツに次第に不利なものに傾いていった1944年夏、ヒトラーは高校(ギムナジウム)に日本語を必須科目として取り入れることを命令している。最初はとりあえず一校だけをモデル校に選んで試験的に授業を始めることになったが、最終的には全ギムナジウムで英語のかわりに日本語を必須科目にする計画だったという。

そのほか、菜食主義者(同時に禁酒・禁煙)だったヒトラーが、日本の豆腐に注目。“ローマ軍は菜食であれほど強かった”のだから、ドイツ軍にも豆腐を食べさせようという計画を立てていたとも言われている。


●ちなみに、ヒムラーも生野菜の大ファンで、酒もタバコもほとんどやらなかった。

彼は「自然療法」の信奉者で、「あらゆる医師は自然治癒医師でなければならない」と言い、「東方の諸民族」は菜食の結果、健康な身体(と長い大腸)を有すると信じていた。

ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や強制収容所の多くで薬草の栽培が行われた。「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所でもあった。ヒムラーの夢はドイツ国民のすべてが菜食主義者になることで、そうして初めてドイツは彼の思い描く古代アーリア人に戻り、本来の、世界に冠たる国家となるのであった。

 


ダッハウのハーブ園で薬草を摘み取るヒムラーと
SS隊員たち。「ダッハウ収容所」は世界有数の
ハーブとスパイスの栽培所でもあった。

 

●歴史学者の金子民雄氏は著書『文明の中の辺境』(北宋社)の中で、SS長官ヒムラーがチベットに送った探検隊について触れているが、ヒムラーの風変わりな人種理論に関してはこう述べている。

「ナチスの似非科学、すなわち民族学的疑似科学によれば、アジアはアーリア民族の古い揺籃の地であり、ここにアーリア民族が隔離されて住んでおり、チベット人は民族的に見て“純粋”な種であるという理論である。雑婚していない原種というわけである。それにこのヒマラヤの彼方、チベット高原のどこかに、理想郷であるシャンバラが存在するはずであると彼らは信じた。これはジェームズ・ヒルトンが勝手に捏造した地上の楽園シャングリ・ラの原郷である。」

「ヒムラーは、チベット人がスカンジナヴィア(北欧)地方から移住していった後裔であり、そこには失われた大陸アトランティスからの移民たちが建てた偉大なる文明が、かつて存在していたという、まったく正気と思えない妄想にとりつかれていた。この理論を証明しようというのが、民族学者のブルーノ・ベガーだった。

ちょっと考えれば、これはもう正気の状態とは思えない。

ちなみに、チベット人は日本人と同じモンゴル系であるが、ヒムラーは日本人とドイツ人の祖先を同じ系統にしたがっていたという。当時、ドイツと日本は密接な関係にあったから。」

 


(左)『文明の中の辺境』金子民雄著(北宋社)
(右)SS長官ヒムラーがチベットに送った探検隊とチベット人たち



ドイツからはるばるやって来た探検隊に、チベット人たちは友好的だったという

 

 


 

■■第4章:『ヒトラーの遺言』に書かれているヒトラーの好意的な日本観


●ヒトラーは最後まで忠実だった総統秘書長のマルチン・ボルマンに、公式の「遺言」を残しているが、そこにはヒトラーの好意的な日本観が表明されている。

このヒトラーの「遺言」は、原書房から出版されている『ヒトラーの遺言』(記録者マルチン・ボルマン)で読むことができる。

 


(左)ヒトラーに忠実な側近中の
側近だったマルチン・ボルマン大将
(右)『ヒトラーの遺言』(原書房)

 

●例えば、次のような記述がある。

「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固なものとなるであろう。

日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。

他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。

さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命がまず我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとは、私にはまず考えられない。」(1945年2月18日)

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:「ベルリン・オリンピック」と幻の「東京オリンピック」


●1936年8月、ベルリンで「第11回オリンピック大会」が開催され、前大会を大きく上回る49ヶ国4066人の選手が参加した。このオリンピックはナチスの力を世界に誇示する場となり、「ヒトラーの大会」とさえいわれた。

 


1936年8月に開催された「第11回オリンピック大会」



スタジアムを訪れたヒトラーとナチス式敬礼をする観客たち

 

●このオリンピック大会に参加した日本は、合計18個のメダル(金6、銀4、銅8個)を獲得し、「前畑がんばれ」のラジオ放送は日本中を熱狂させた。

ベルリン・オリンピックの閉会の言葉は、「また4年後に東京で再会しよう」だった。

 


(左)ベルリン・オリンピックの開幕前日(1936年7月31日)に
4年後の夏季オリンピック開催地が東京に決定した瞬間の模様
(右)1936年8月1日『朝日新聞』号外の記事

 

●このベルリン・オリンピック直前の「IOCベルリン総会」で、対抗候補地ヘルシンキ(フィンランドの首都)を破って東京開催が決まった背景には、ヒトラーの根回しがあったといわれている。

日本から派遣されていた招致使節団の一行は、この後、ヒトラーに直接面会し、ドイツ人の好意に謝意を表して和服や額をプレゼントしている。

この時の様子は新聞でも大きく取り上げられている↓

 


(左)招致使節団がヒトラーに贈呈した和服と額は、それぞれ東京市長、市会議長
からの寄贈で、和服はナチスのマーク(カギ十字)と東京市の紋章を配した
デザインになっていたという (右)『朝日新聞』に掲載された記事

※ ちなみに下の非常に珍しい和服姿のヒトラーは、同年11月25日に調印された
「日独防共協定」成立1年を祝福して制作された等身大の肖像画であるという↓



(左)ヒトラーの和服姿をリアルに描いた等身大の肖像画
(右)1937年11月24日『京都日日新聞』の記事

 

※ この話の続きに興味がある方は、当館作成のファイル
「ナチスのベルリン・オリンピックと幻の東京オリンピックの舞台裏」をご覧下さい。

 

 


 

■■おまけ情報 2:ヒトラーの反ユダヤ主義に同調しなかった日本政府


●ところで大戦中、ナチス・ドイツと同盟を結んでいた日本政府は、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか? 日本人はユダヤ人を迫害したのだろうか?

 


(左)6000人のユダヤ人を救った杉原千畝(すぎはら ちうね)
(右)ビザを求めて日本領事館の前に並ぶユダヤ難民(1940年)



極東アジア地域へのユダヤ人の亡命(~1945年)

1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、
シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた

 

※ この問題に興味のある方は、当館作成のファイル
「上海と満州のユダヤ難民を保護した日本」をご覧下さい。

 




── 当館作成の関連ファイル ──

日本国内を旅行したドイツの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」 

アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔 

 


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