No.b1fha506

作成 2003.6

 

ヒトラーの日本観

 

 

●第二次世界大戦中、日本はイタリアとともにドイツと同盟を結んでいた。1940年9月27日にベルリンで結ばれた「日独伊三国軍事同盟」によって、三国の枢軸体制を強化し、イギリスとアメリカを抑制しようとしたのだ。

が、ヒトラー自身は日本をどのように考えていたのだろうか?

 

 
(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。 (右)三国軍事同盟祝賀会の様子。

 

●ヒトラーは『我が闘争』の中で、世界には「3つの人種」がいると書いている。

1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う「文化追従種」。そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」。彼の定義によると、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、日本人や他の民族は二等種(文化追従種)に過ぎない、と書いている。そして、3番目の文化破壊種はユダヤ人だと書いている。

またヒトラーは『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた「黄禍論(反日感情)」はユダヤ人が扇動したものであると書いている。ヒトラーは同じ敵を持つ仲間として、日本との同盟を考えていたのである。

 

 

『我が闘争』は1925年に第1巻、翌年12月に
第2巻が出版され、1943年までに984万部も出て、
印税は550万マルクに上った。当時のドイツ文芸学の大御所から、
ゲーテの『詩と真実』と並べてドイツの全著作の最高峰と称えられもした。

ちなみに、「我が闘争」という題名は、ダーウィンの言葉
「生存闘争」をなぞったものであった。

 

●しかしヒトラーは、東方のこの同盟国の実力があなどりがたいものだ、とも考えていた。

ナチス・ドイツの軍需大臣を務めた建築家、アルベルト・シュペーアは次のように書いている。

「人種的観点からむろん問題の多い同盟を彼は拒否しなかったが、『日本との対決』を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーはイタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本は列強国の同盟国とみていた。」

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)には、次のようなヒトラーの言葉が記されている。

「『ユダヤ菌』の発見は世界の一大革命だ。今日我々が戦っている戦争は、実は前世紀のパスツールやコッホの闘いと同種のものなのだ。いったいどれほどの病気が『ユダヤ菌』によって引き起こされていることやら。日本はユダヤ人を受け入れなかったので、菌に汚染されずにすんだのだ。ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。すべての病気には原因がある。偶然などない。」

「1925年、『我が闘争』(それに他の未発表の論文)に書いたのだが、ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない敵だと見ている。日本人には鋭い直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということは分かっているのだ。となると外から叩くしかない。本来、イギリスとアメリカにとっては日本との和解は多大な利益を意味する。その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人なのだ。私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった。」

 

 
(左)ナチス時代に作られた反ユダヤ主義のポスター。
(右)はこのポスターの一部を拡大したものである。ドイツ人の
血の中にユダヤの「ダビデの星」や共産主義や金の亡者の
病原菌がいっぱいいることが図案化されている。

 

●ヒトラーは日本についてかなり詳しい知識を持っていたが、その情報源のひとつがドイツの代表的な地政学者、カール・ハウスホーファー教授である。 (ミュンヘン大学での助手がルドルフ・ヘスだった)。

ヒトラーに『我が闘争』の執筆をすすめ、ヒトラーの政治顧問を務めたハウスホーファー教授は、また滞日経験のある日本研究家でもあった。彼は流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残している。

彼はアジアの神秘主義を深く研究し、チベットの地底王国アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じていた。(※ しかし1941年に独ソ戦争が始まると、彼はヒトラーと政策面での意見が合わなくなり、冷遇されるようになる)。

 


ドイツの代表的な地政学者
カール・ハウスホーファー教授

1908年から2年間、ドイツ大使館付き武官
として日本に滞在。1934年に「ドイツ学士院」の総裁に就任。
この間、駐ドイツ大使館付き武官であった大島浩と接触してドイツと
日本の政治的連携の確立に関与した。1939年にはSSが運営する
「ドイツ民族対策本部」に所属し、ナチス・ドイツの対外侵略
(生存圏の拡大)構想の理論的支柱になった。

 

●1939年にベルリンで「日本古美術展覧会」が開かれたが、このとき、ヒトラーも訪れている。

ヒトラーは多くの日本の古美術を熱心に見てまわった。特に平清盛像に異常な関心を寄せ、いつまでものぞきこんでいたという。平清盛といえば一代にして栄華をきわめた男。ヒトラーは平清盛に自分の姿を重ねあわせていたのであろうか。

 


1939年にベルリンの「日本古美術展覧会」を訪れたヒトラー

ヒトラーと一緒に、ヒムラー、ゲッベルス、ゲーリング、
リッベントロップなどのナチ党幹部も訪れた

 
(左)ヒトラーと平清盛像 (右)『読売新聞』 1939年3月1日

 この展覧会は1939年2月28日から3月31日まで、
ベルリンの「ドイツ博物館」で開催され、7万人が訪れたという

 

●山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には、面白い逸話が紹介されている。

かつて満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、ドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。

「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツのような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴方の国の万世一系の皇統である。

これはドイツが100年試みても、500年間頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ……」

 

 
(左)昭和天皇 (右)鮎川義介。大正・昭和期に
活躍した実業家。「日産自動車」の実質的な
創立者。満州重工業開発総裁。

 

●これはヒトラーが、日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承している日本に対して、率直に敬意の気持ちを表わしたものであろう。

「君主政治」を完全に近い形で実現している国は、当時では日本だけであった。外国、とくにヨーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王は往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという、欧米人にとっては甚だうらやましい関係が、ごく自然な形で成り立っていたのである。

※ この「君主政治」と対極をなすものが、主権在民を置く民主主義であるが、ヒトラーは民主主義の欺瞞性を鋭く見抜いて批判していた。


●1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まると、ヒトラーはその直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。我々には3000年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ!」と日本を賞賛し、アメリカに宣戦を布告した。



●ところで、念のために書いておくが、第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」だった。

日中戦争以前の数年間は、日独関係はそれほど良好ではなかったし、ドイツの元将軍たちは反日的で、彼らは上海付近の中国人の防衛陣地の建設に協力していた。この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用した「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた。

しかし、1936年に「日独防共協定」が結ばれ、1940年に「日独伊三国軍事同盟」が成立すると、日本とドイツの友好関係は緊密になったのである。

 


アドルフ・ヒトラー

ドイツの中国に対する軍事援助はヒトラー政権が誕生する
6年前(1927年頃)から始まっていた。「日独防共協定」の精神に
違反するとの日本からの度重なる抗議にかかわらず、ドイツは中国への
軍事援助(軍事顧問団の派遣)を続けていたが、日本との関係を
選択するに至ったヒトラーの意向により、1938年7月に
全面的に中国から引き揚げることになる。

 

●1943年にナチスは、ドイツ潜水艦を2隻日本海軍に贈った。

これはドイツ海軍部内の人々、あるいは専門家の強い反対を押し切ったヒトラーの英断によって実現したといわれる。

日本海軍に寄贈された艦は、当時最優秀を誇ったドイツの戦闘潜水艦で、日本の大型潜水艦とは比較にならない小型のものであったが、その性能や装備は、日本の技術者たちに、これをモデルとしての建造を遂に断念させたほど高度のものであった。

例えば、鋼板の堅さからして、日本で使われていたものの2倍もの硬度を持っていたため、爆雷攻撃に対しても絶対に強いものであった。しかしながら、鋼鉄は硬度が高くなると溶接技術が極めて難しくなる。この技術が日本では不十分だった。

そこで、これもヒトラーからの好意として、この方面の優秀な専門技師3人が、寄贈される潜水艦に搭乗して日本にやって来た(1943年7月)。

この3人の技師は、その全知識を傾けて、日本海軍との協力を誓ったのであったが、精密機械を載せた後続の潜水艦がインド洋上で不幸にも撃沈されてしまったので、せっかくの彼らも残念なことに、十二分の指導ができなかったのである……。

 

 

 

●ところで、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーは、大戦中、日本軍の強さに感銘し、御用科学者に日本人がアーリア民族であることを立証させようとしていたことで知られている。

彼は、日本人から日本刀を贈られたとき、日本人とゲルマン人の祭式の共通性を発見。学者の協力を得て、どうしたらこの共通性を種族的に解決できるか、の研究を進めたという。

これは、ヒトラーがつねづね、「なぜ我々は日本人のように、祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか? 間違った宗教を持ってしまったのが、そもそも我々の不幸なのだ」と語っているのを聞いていたからという(ヒトラーは日本の神道を高く評価していた)。

 


SS長官ハインリッヒ・ヒムラー

 

●また、戦局がドイツに次第に不利なものに傾いていった1944年夏、ヒトラーは高校(ギムナジウム)に日本語を必須科目として取り入れることを命令している。最初はとりあえず一校だけをモデル校に選んで試験的に授業を始めることになったが、最終的には全ギムナジウムで英語のかわりに日本語を必須科目にする計画だったという。

そのほか、菜食主義者(同時に禁酒・禁煙)だったヒトラーが、日本の豆腐に注目。“ローマ軍は菜食であれほど強かった”のだから、ドイツ軍にも豆腐を食べさせようという計画を立てていたとも言われている。


●ちなみに、ヒムラーも生野菜の大ファンで、酒もタバコもほとんどやらなかった。

彼は「自然療法」の信奉者で、「あらゆる医師は自然治癒医師でなければならない」と言い、「東方の諸民族」は菜食の結果、健康な身体(と長い大腸)を有すると信じていた。

ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や強制収容所の多くで薬草の栽培が行われた。「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所でもあった。ヒムラーの夢はドイツ国民のすべてが菜食主義者になることで、そうして初めてドイツは彼の思い描く古代アーリア人に戻り、本来の、世界に冠たる国家となるのであった。

 


ダッハウのハーブ園で薬草を摘み取るヒムラーと
SS隊員たち。「ダッハウ収容所」は世界有数の
ハーブとスパイスの栽培所でもあった。

 

●ところで、ヒトラーは最後まで忠実だったマルチン・ボルマンに、公式の「遺言」を残しているが、そこにはヒトラーの好意的な日本観が表明されている。

このヒトラーの「遺言」は、原書房から出版されている『ヒトラーの遺言』(記録者マルチン・ボルマン)で読むことができる。

 


『ヒトラーの遺言』(原書房)

 

例えば、次のような記述がある。

「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固なものとなるであろう。日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。

他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命がまず我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとは、私にはまず考えられない。」(1945年2月18日)

 

 


 

■■おまけ情報 1: 日本国内を旅行した「ヒトラー・ユーゲント」


●「日独防共協定」の成立から約1年半が経過した1938年8月、

ナチス・ドイツの青少年組織である「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日している。

 


「ヒトラー・ユーゲント」の隊旗

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の代表団はドイツの汽船「グナイゼナウ」号に乗船して、約1ヶ月の船旅の後、1938年8月16日に横浜港に到着。

この時、ドイツの若者たちを一目見ようと、数千人の群衆で埋め尽くされた。彼らは11月12日までの約3ヶ月間、日本各地(北は北海道から南は九州まで)を訪問して熱烈な大歓迎を受けたのである。

 


1938年8月17日、横浜に上陸した「ヒトラー・ユーゲント」一行は
横須賀線で東京に入った。そして東京駅に降り立った彼らは、
ブラスバンドの吹奏など、熱烈な歓迎を受けた。

 
(左)東京入りした「ヒトラー・ユーゲント」は明治神宮と靖国神社を参拝した。
(右)日本の青少年団代表100名あまりと共に富士山頂まで登った
「ヒトラー・ユーゲント」は、浅間神社で朝日を仰いだ。

  
(左)伊勢神宮参拝の様子。一行の参拝態度は
外国人としては珍しく敬虔な態度で人々を驚かせた。
(中央)ドイツ大使館でティータイムを過ごす「ヒトラー・ユーゲント」。
(右)京都から大阪入りした「ヒトラー・ユーゲント」。一行はこの後、瀬戸
内海を抜けて九州を歴訪し、最後の訪問先である神戸を訪れた。
規律正しく統制された彼らの姿は、日本の青少年の
指標として大きな影響を与えた。

 

●「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本のホテルの清潔さ、和製の自動車、日本建築、鉄橋・トンネルなどを見て、日本の急速な近代化に驚嘆した。また、忘れ物を届けてもらったり、傷のある商品を値引きしてもらったり、時間通り迎えに来たタクシーを見て、日本人の正直さに感心していた。

また、日本の各村に必ず小学校があること、また、その設備もよく、若い熱心な教師が多く、小学生も行儀がよく従順であることに好印象を抱いていた。さらに、「人の数からだけで判断すれば、100年の長期戦をしても平気だろう」と思わせるほど、平均5人という子供の多さに驚き、子供の愛らしさと子供への母性愛の強さに感動し、二毛作のできる日本の土地の肥沃さを羨望していた。

 



↑「ヒトラー・ユーゲント」の主な訪問先

北は北海道から南は九州まで日本各地を
訪問して熱烈な大歓迎を受けた

 

●彼ら「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本国内を巡歴中、行く先々で日本の印象を聞かれ、そのつどコメントを残しているが、団長であるシュルツェは「日本の印象」について次のように語っている。

「現在まで多くの外国人たちはすべて大都会のある一面のみを見て日本のすべてを観察した如くに考えていたが、我らは真の日本の姿を見るには日本の片田舎をも回って親しく日本の青少年達と起居を共にしてこそ、その独特の精神に触れることができると信じた。そしてそれは我らの期待を外らせなかった。防空演習に際しての青年団の活動、岩手県六原道場での厳格なる動作、これらすべては十分日本青少年たちの優れた長所を認識せしむることができた」

「日本の神社や自然を見て、日本国民の魂は自然美より形成されていると実感した。日本の将来は、南西方に向かって一大民族的飛躍が約束されており、東亜の王冠を頂くことになる。……我が国では、民族意識の高揚によって国民の団結を図ってきた。しかし、日本では血の純血と神聖は自然に備わっている。幸福な国だと思う」

「最も我らの印象を引いたのは会津若松の『白虎隊』の墓だった。なぜならば、1920年から1933年までヒトラー総統の困苦時代に、忠勇なるヒトラー・ユーゲントの同志22名は、いずれも18歳の若さで共産党と戦い、壮烈な戦死をした追憶を持っているからである」

 


来日した「ヒトラー・ユーゲント」の
シュルツェ団長

 

●上のシュルツェ団長のコメントで触れられているように、「ヒトラー・ユーゲント」は「白虎隊」を見学するため、1938年8月31日に福島県の会津若松市を訪れ、約1万もの群衆の大歓迎を受けている。

歓迎式の後、「ヒトラー・ユーゲント」は東山温泉の旅館へ向かったが、来日以来初めて宿舎が純日本式だったので、彼らは温泉の浴槽に飛び込んだり、鯛の刺身やお吸い物などをパクついたり、浴衣姿で、日の丸行進曲や会津盆踊りに拍手を送ったり、獅子舞に興味を示したりと、楽しい夜を過ごした。

翌日、天気が悪く、飯盛山の白虎隊士墓の参詣を中止しようとの意見も出された。

しかし、ユーゲント側の強い希望もあって、激しい風雨の中、白虎隊士墓を参詣したのであった。

 

 
(左)福島県会津若松市にある鶴ヶ城 (右)悲劇の少年部隊である「白虎隊」の墓

自刃した少年たちの遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられ、約3ヶ月間も放置された。
その後、村人により密かに近くの寺に運ばれ仮埋葬され、後にこの自刃地に改葬されたという。

 

●この時、「ヒトラー・ユーゲント」は、白虎隊墓地広場にあるドイツの「記念碑」も拝観している。

この「記念碑」は、駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフが、3年前の1935年に飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受け、個人的に寄贈したものである。

そこにはドイツ語で次のような碑文が刻まれている。

「ひとりのドイツ人が 会津の若き騎士たちへ 1935年」

 

  
(左)駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフ。滞日中、飯盛山を訪れ、白虎隊の
少年たちの心に深い感銘を受ける。 (中央)1935年に彼が寄贈した記念碑。
(この記念碑は、現在、復元され、飯盛山の白虎隊墓地広場にある)

 

●この「記念碑」は、戦後、GHQの手によって碑面が削られ撤去されたが、フォン・エッツドルフの強い希望により、1953年に再刻のうえ復元された。

ちなみに、この「記念碑」のそばには、1928年に、イタリアのムッソリーニが元老院とローマ市民の名で贈った「記念碑」=大きな石柱が建っている。この石柱は、ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。ムッソリーニは、白虎隊の話に感動し、日本の武士道を尊んでいたという。

(このローマの「記念碑」の裏面には、「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが、戦後、GHQが削り取ってしまったという)。

 

 
白虎隊墓地広場にある「ローマ市寄贈の碑」

白虎隊の話に感動したイタリアのムッソリーニが、
1928年に元老院とローマ市民の名で寄贈 したもの。
ポンペイ遺跡から発掘された古代宮殿の柱である。

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の副団長であるレデッカーは、「日本の印象」について次のように語っている。

「日本の印象は余りに大きいので適当な言葉を見出せないほどである。たとえば、富士登山を行ったとき、御来迎が日本の同志諸君の顔に映るのを見て、日本精神のいかに美しいかを体得した。会津若松の『白虎隊』の勇士の墓に詣でたとき、『白虎隊』の精神が身にしみて感ぜられた。今まで多数の外国人が参詣し、有名な人が詣でたにしろ、ヒトラー・ユーゲントの如く心からその『白虎隊』の精神を理解し習得した者はかつてあるまいと確信する」

「また、各地で神社仏閣を参拝したが、日本人が敬神の念が強いのには感心した。戦傷兵士を慰問した時、日本の軍人の強さを知り、かくの如き立派な軍人を持てば日本は永久に勝利者として残ることを我々は確信した。我々は偉大なる国民の叫びを聞いている。それは『日本のため』『日本のため』というリズムである。日本国民の忠誠を国民道徳的な教訓として受け取り、ドイツ魂と日本精神が一致することを知った……」

 


来日した「ヒトラー・ユーゲント」の
シュルツェ団長とレデッカー副団長

 

●このように、「ヒトラー・ユーゲント」たちは、日本に対して強い好印象を抱いていたのである。

が、もちろん、彼らに不満がなかったわけではなかった。

彼らの不満としては、まず、「写真撮影禁止区域」が余りにも多いこと、軍部の意向で八幡製鉄所など機械工場・製作工場を見学できなかったこと、武器など軍務関係のものを見学できなかったこと、林業・牧畜や日本茶の採取・製造を見学できなかったこと、また、取材に来る新聞記者の厚顔、礼儀知らず、服装のだらしなさ、愚問の多いこと、慰安旅行のつもりで付いてくる役人など旅行随行者の多いこと、日本精神を体得させるという目的で、スケジュールに神社参拝が多く組まれていること、大臣・知事・青年指導者と農村の青年は立派であるが「健全な中間層がいない」こと、大学や高校にトーマス・マンなどナチに追われた作家やユダヤ人作家の書いたものをテキストに使用する自由主義教授が多いこと、日独文化協会やドイツ文化研究所がナチス的になっていないこと、などが挙げられている。

また、茶、香、華道の真髄は理解できなかったという。

 


近衛内閣総理大臣と「ヒトラー・ユーゲント」

招待晩餐会の食後に、共に円陣を作って歌ったり、
馬とびや駆け足などして、うちとけた中で時を過ごしたという

 

●「ヒトラー・ユーゲント」は、日本に約3ヶ月間滞在したが、彼らの行進を見るために、多くの人々が街路に溢れ出し、内外の集会場を埋め尽くし、興奮と熱狂の中で、「ヒトラー・ユーゲント」の規律のとれた動きと制服に「美的感動」を覚えた。

童心主義の詩人、北原白秋は「独逸青年団歓迎の歌」を作って、ともに歓迎することを子どもたちに訴えた。



── 作詞:北原白秋/作曲:高階哲夫 ──


 燦たり輝く、ハーケン・クロイツ

 ようこそ遥々、西なる盟友

 いざ今見えん、朝日に迎へて

 我等ぞ東亜の青年日本

 万歳、ヒットラー・ユーゲント

 万歳、ナチス


日本を代表する詩人
北原白秋(1885〜1942年)

 

●「ヒトラー・ユーゲント」に同行した政府関係者たちは、「ヒトラー・ユーゲント」の「鉄のような規律とメカニカルな動き」に感銘を受けて、彼らを今後の日本の青少年団運動のモデルにすべきであると考えるようになった。

例えば、来日当初から関東各地の旅に同行した文部省社会教官、宮本金七氏は次のように述べている。

「すくすく伸びた四肢、グッと張った胸、実に見事な体格で、登山の際の強行軍から見ても体力の点では到底わが青年の比ではないと思った。それに30人のうち眼鏡をかけた者は一人もない。偉大な体格が大戦の疲弊した環境の中に育てられたということを考える時、長期戦体制の我々が考えなければならぬ多くのものがあると思う」


●さらに別の関係者も次のように述べている。

「ヒトラー・ユーゲント代表一行に会って特に目を惹かれるのは、その集団訓練からくる整然たる姿である。指導者の命令で行われる見事なる行動、若々しさ、そしてあの元気、そこに我々は強く惹きつけられるものがある。今まで行われてきた諸々の良き青年団の事業の他に、ヒトラー・ユーゲントのような権威ある組織制度の設けられる事がこの際望ましき大きな事柄の1つであると思った」

 


神戸オリエンタルホテルにて

 

●しかし、「ヒトラー・ユーゲント」を厳しい目で観察して、日本青年のほうが精神的に優れていると分析する関係者もいた。

代表的な一人である、外務省調査部第二課の真鍋氏はこう述べている。

「……確かに彼らは体躯も大きいし、眼鏡もかけていない。しかし彼らの体力というか肉体的抵抗力というか、この点は我が日本青年は断じて負けていないと思った。

……彼らは日本の養子制度・見合結婚が理解できないという。ドイツ人は良い血と良い血の結合からドイツ精神・道徳が生まれると信じているが、日本人は良い精神と良い精神の結合から良い血が生まれると信じている。国家を強力にするのは血ではなく道徳と国民精神である」

「ヒトラー・ユーゲントは良い組織を持っている、鉄の如き規律がある、これをぜひ日本も学ぶべきであるという声が多く聞かれるが、私はこの意見に反対である。ドイツ人は、悪く言えば融通の利かない鈍重な国民である。だから、組織は、規律が崩れたときのドイツは目茶苦茶である。……だからドイツ人は自分たちに適した組織を作ったのである。彼らの指導者養成方法は、ドイツの文化・伝統に基づくものであり、そのまま日本が受け入れることは危険である」

「来訪ヒトラー・ユーゲントは良い青年たちだが、ナチス的考え方しか知らない。自分というものがない。ナチスは人間から人間らしきものを、言い換えれば、ゼーレ(魂)を奪ってしまう

日本は個人のゼーレが全体のゼーレになりうる。ナチスは全体のゼーレのために、個人のゼーレを犠牲にしなければならなかった。そこに今日、中堅のドイツ人の苦しさがある。しかし、ヒトラー・ユーゲントはその苦しさを知らずにナチスに育て上げられている。この点、ナチスの努力は凄まじいものがあった、と考えさせられた」



●ところで、「ヒトラー・ユーゲント」が来日する1ヶ月前に、日本からも「大日本連合青年団」の代表29名がドイツを訪れていた。

彼らは1938年7月2日にパリからケルンに入った。

到着後、戦闘帽と団服、巻脚半にリュックサックという服装が「ヒトラー・ユーゲント」に比べてあまりにも貧弱であると判断されて、在ドイツ邦人から「ヒトラー・ユーゲント」を真似た制服を新調されるというハプニングもあった。

しかしながら彼らもドイツ各地で熱狂的な歓迎を受けた。(この日本の青少年団は1938年9月25日にドイツを離れた)。


●このように、「ヒトラー・ユーゲント」の来日は、防共(反共産主義)の盟約を結んだ両国の若者たちが、互いに締盟国を訪れて、親善、交流するという意味合いがあったのである。

 



 

 
「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは1939年末には800万人に達した

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の実態(誕生から崩壊までの歴史)については、別ファイル「ドイツの少年・少女たちとヒトラー・ユーゲント」をご覧下さい。

 



 

■■おまけ情報 2: 第二次世界大戦期の日本とユダヤの関係


●ところで、大戦中、ナチス・ドイツと同盟を結んでいた日本政府は、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか?

日本人はユダヤ人を迫害したのだろうか?

 


極東アジア地域へのユダヤ人の亡命(〜1945年)

1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、
シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた

 

●この問題に興味のある方は、別ファイル「上海と満州のユダヤ難民 〜ユダヤ難民を保護した日本〜」をご覧下さい。

 



 

★ おまけリンク ★

白虎隊記念館へようこそ
http://www.h3.dion.ne.jp/~byakko/

 



 


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