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No.b1fha888
作成 2012.8
数あるドイツ戦車の中でも、かの有名なポルシェ博士が
手がけた戦車を中心にざっくりとまとめてみました
序章 |
ヒトラーの親密な関係 |
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第1章 |
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第2章 |
重戦車の開発計画〈1〉
~6号戦車E型「ティーガーI」の誕生~ |
第3章 |
重戦車の開発計画〈2〉
~6号戦車B型「ティーガーII」の誕生~ |
第4章 |
重戦車の開発計画〈3〉
~幻の7号戦車「レーヴェ」~ |
第5章 |
超重戦車の開発計画
~8号戦車「マウス」の誕生~ |
第6章 |
開発が中止となった
ポルシェ博士の試作戦車 |
第7章 |
「Eシリーズ計画」の始動と
戦車王国ドイツの終焉 |
おまけ |
「ティーガーI」と「ティーガーII」の比較
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■■序章:ポルシェ博士とヒトラーの親密な関係
●「ポルシェ社」の創業者フェルディナント・ポルシェ博士は、世界的に有名なフォルクスワーゲンの設計で知られている。
しかし、その博士が戦車の設計にも並々ならぬ興味を示し、第二次世界大戦中に戦車を作っていた事実はあまり知られていない。
(左)フェルディナント・ポルシェ博士(1875~1951年)
(右)シュツットガルトの「ポルシェ設計事務所」
戦時中、ポルシェ博士は軍需大臣直属の
「戦車製造委員会」の委員長に任命された。
「ポルシェ設計事務所」は多忙をきわめ、事務所
からは各種兵器の設計図が続々と生まれていった。
※ ボヘミア出身の自動車工学者であるポルシェ博士は
フォルクスワーゲンを手がける前は、優秀な技師として
多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの
混合動力車、「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、
「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。
※ 1931年に彼は「ポルシェ社」の前身である
「ポルシェ設計事務所」をシュツットガルトに
設立していた。(設立年については
1930年という説もある)。
●当時、自動車設計者が戦車にも興味を示すことは、それほど珍しいことではなかった。
アメリカの有名な戦車設計者ジョン・ W・クリスティーも、むしろ自動車設計者としての方が、世間には知られていたのである。
(左)ジョン・ W・クリスティー (右)ソ連軍の快速戦車「BT-7」
もともと自動車設計者であり、第一次世界大戦中に半装軌車(ハーフトラック)を設計
したジョン・ W・クリスティーは、大戦間期のアメリカでほとんど唯一の戦車設計者であった。
彼が設計した「クリスティー式戦車」はアメリカでは採用されなかったが、イギリスやソ連で大きな
注目を浴びた。第二次世界大戦前にソ連が開発した快速戦車(BT戦車)は、クリスティーが開発
した「M1940」という戦車に由来しており、クリスティーは後に、「ソ連に強力な戦車を
作らせるきっかけとなった技術を売却してしまったことを後悔している」と語っていた。
●ポルシェ博士が楽しく戦車の設計をできたのには、じつは特殊な事情があった。彼はヒトラーの個人的なお気に入りだったのである。
ヒトラーは一種の「兵器オタク」で、ポルシェ博士のアイデアに次々と飛びついたのであった。
同じアイデアマンであったジョン・W・クリスティーが、アメリカ軍から相手にされず、自分の才能をほとんど発揮させることができなかったのに対して、ポルシェ博士は独裁者ヒトラーの後ろ盾で、数々の新奇な車両の開発が可能となったのである。
(左)ヒトラーがノーベル賞に対抗するために
1937年に創設した「ドイツ芸術科学国家賞」のペンダント
(右)翌年の1938年、ヒトラーは軍需産業界を代表する技術者たちを
ベルリンの総統官邸に招待してペンダントを授与した。左から、エルンスト・
ハインケル博士、ウィリー・メッサーシュミッ卜博士、フェルディナント・
ポルシェ博士、フリッツ・トー卜将軍(後の初代軍需大臣)。
●なお、現在の「ポルシェ社」(正式名称は「Dr. Ing. h.c. F. Porsche AG」)は、第二次世界大戦後の1948年にポルシェ博士が息子と共同で創業した自動車専門メーカーであり、1931年設立の「ポルシェ設計事務所」(正式名称は「Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH」)を母体にして誕生した後継会社である。参考までに。
※ ここら辺の詳しい解説は、当館作成のファイル「ポルシェ博士とヒトラーの国民車計画」をご覧下さい。
(左)ポルシェ博士が設計したフォルクスワーゲン(国民車)
(右)開発中のフォルクスワーゲンの試作モデルを
見ながら語り合うポルシェ博士とヒトラー
ポルシェ博士がドイツ軍のために設計した
「キューベルワーゲン」と「シュビムワーゲン」
■■第1章:戦車開発に参入したポルシェ博士
●膨大な軍事予算と広大な研究設備を持っていた当時のナチス・ドイツの軍事研究組織は、陸海空の三軍それぞれ独立した機関で成り立っていて、陸軍は「陸軍兵器局」のもと、兵器実験部と調達部の二大部門に分かれていた。
最も大きな予算を与えられていた空軍は、空軍省の下に「空軍技術局」などがあった。海軍にも「兵器開発局」があり、科学物理研のもとに研究開発が行われていた。
そしてこれら三軍すべての軍需生産は、1940年3月に発足した「軍需省」のコントロール下にあり、さらに実質的な決定権は総統であるアドルフ・ヒトラーにあった。
軍需大臣のフリッツ・トート将軍(左)と「陸軍兵器局」の
局長リープ将軍(右)。中央の小柄な人物はV2ロケット
の開発で知られるワルター・ドルンベルガー将軍。
※ 優秀な土木技術者だったフリッツ・トート将軍は
「トート機関」(建築や土木の技師団の政府組織)の
生みの親で、V1、V2、V3の基地などの軍事施設や
「アウトバーン」の設計・建設を担当した。1940年に
初代の軍需大臣に任命されたが、1942年2月に
飛行機の墜落事故によって死亡してしまう。
(後任はアルベルト・シュペーア)。
●このヒトラーを頂点とするナチス・ドイツには多くの軍需企業がひしめいており、軍需生産の先進国だった。
戦車の開発と生産も戦前から「ラインメタル社」、「ダイムラー・ベンツ社」、「クルップ社」などの有名メーカーが手がけており、本来ポルシェ博士の会社「ポルシェ設計事務所」が参入する余地はなかった。
(左)1889年創業の「ラインメタル社」の工場(1938年)
(右)「ダイムラー・ベンツ社」の工場で製造中の「3号戦車」
「ダイムラー・ベンツ社」は1930年代初頭から「軍需企業」
として戦車やトラックを生産し、戦闘機や潜水艦のエンジンの開発も
手掛けていた。第二次世界大戦中は「軍の機械化」の中心的企業として
活動し、「3号戦車」の開発と生産の中心的役割を果たしていた。
(3号戦車は大戦初期の主力戦車で、大戦中期に生産終了)。
●「ポルシェ設計事務所」が戦車開発に参入できたのには、「陸軍兵器局」の意向が反映している。彼らは、戦争勃発によって軍需生産の必要が増したことで、新興メーカーが参入することを奨励し、手助けをしたのである。
こうして、ポルシェ博士の最初の戦車開発が開始された。
ナチス・ドイツ軍の中戦車「4号戦車」
「4号戦車」の開発を請け負ったのは「クルップ社」である。
「4号戦車」はドイツ軍戦車の中で最も多く生産され、第二次大戦
全期間を通じてあらゆる戦線で活躍した実質的な「主力戦車」であった。
戦況に合わせた様々な改良が可能であり、その信頼性の高さから前線の兵士
たちには「軍馬」の愛称で親しまれた。その信頼性は終戦まで揺らぐことはなく、
5号戦車「パンター」と並び、ドイツ装甲部隊の中核となって最後まで戦い抜いた。
この後継車両となる新型戦車の開発が1939年末にポルシェ博士に対して依頼
された。そこで考えられたのは、75ミリ戦車砲、できれば105ミリ戦車砲を
搭載することも可能であるような25~30トンクラスの車両であった。
ポルシェ博士の設計による最初の試作車
である「1号特殊車両」の側面図
●この試作車は、「ポルシェ設計事務所」内では「1号特殊車両」および「レオパルト」と呼ばれていた。
陸軍公式名称は「VK-3001(P)」であり、「ポルシェ設計事務所」内での型式名称は「タイプ100」(これは現在までつながるポルシェの設計ナンバーである)であった。
「ニーベルンゲン工場」近くで走行テスト中の
「1号特殊車両」(設計ナンバー「タイプ100」)
「縦置きトーションバー」という新機軸が採用されていた。
試作車は2両製作され、1941年に完成した。ただし砲塔は
載せられず(結局、計画放棄時までに完成せず)、代わりに
ダミーのウエイトを搭載されて試験が行われた。
●ちなみに、陸軍公式名称のVK(Versuchskonstruktionの略)とは「実験試作型」を意味し、続く数字は最初の2桁が計画重量を、下2桁が計画番号を示している。したがって上で紹介した「VK-3001(P)」は「重量30トン級実験試作型1号」ということになる。末尾の(P)は開発メーカー名の頭文字である。
■■第2章:重戦車の開発計画〈1〉─ 6号戦車E型「ティーガーI」の誕生
●ポルシェ博士は重戦車ティーガー(タイガー)の設計を、「ヘンシェル社」と競作の形で行った。
ポルシェ博士の設計は、「ローナー社」時代からお得意のハイブリッド駆動方式だった。しかし、この駆動方式は信頼性に問題があるのと、戦略資源の銅を大量に使用するという難点があり、ポルシェ博士の設計は採用されなかった。
ドイツ軍の幹部とともに、試作戦車のテストに
立ち会うポルシェ博士(中央の私服の人物)
●「ヘンシェル社」が設計した試作車の陸軍公式名称は「VK-3601(H)」で、この車体は「VK-4501(H)」に発展し、その後、制式採用されて6号戦車E型「ティーガーI」として量産されたのである。
ちなみに「ティーガー(虎)」の愛称はポルシェ博士による命名である。
※「ティーガーI」の開発時期はソ連の「T-34」の影響を受ける前だったため、車体全面が垂直の装甲板で構成されていた。
6号戦車E型「ティーガーI」
この“虎”の名を冠した重戦車は2社の競作という形で開発が
進められ、「ヘンシェル社」の駆動方式に問題点が少ないことから
「ヘンシェル社」の試作車が採用された。1942年8月から量産開始。
この戦車は88ミリ砲を主砲に搭載し、装甲の厚さが100ミリもあり、
各地の戦線で敵戦車を次々と撃破して、ドイツ装甲部隊の名声に
貢献した。だが、重量が57トンもあるために速度が遅く、
航続距離が短いという欠点があった。
(左)「ティーガーI」の側面図 (右)1/35スケールモデル
●ポルシェ博士が設計し、不採用となった重戦車は一般にはポルシェティーガーという名称(俗称)で知られているが、陸軍公式名称は「VK-4501(P)」である。
「ポルシェ設計事務所」内では「2号特殊車両」(タイプ101)と呼ばれ、「1号特殊車両」(タイプ100)を大急ぎで拡大発展させたものだったため、その設計は「1号特殊車両」によく似ていた。ただし車体幅が広がり、装甲も強化され、全体としては洗練が進んでいた。
VK-4501(P) ポルシェティーガー
この重戦車の最大の特徴は、2基の「空冷ガソリンエンジン」で
発電した電力によって「電気モーター」を駆動して動力を得るという
ハイブリッド駆動方式だった点である。制式採用はされなかった
ものの数両が改修の後に指揮戦車として実戦配備された。
(左)ポルシェティーガーの側面図 (右)1/35スケールモデル
開発中のポルシェティーガーとポルシェ博士(黒帽子の人物)
●このとき(採用を見越して先行納入されていた)ポルシェティーガーの車台や装甲板を流用する形で重駆逐戦車が開発され(合計90両)、「フェルディナント」の名が付けられた。
重駆逐戦車「フェルディナント」
名称はフェルディナント・ポルシェ博士の名に由来するものだが、
1944年には「エレファント(象)」と改称されている。この
戦車の「ハイブリッド駆動装置」はポルシェティーガーと
同様に機械故障が多いという欠点があった。
(左)「フェルディナント(エレファント)」の側面図 (右)1/35スケールモデル
■■第3章:重戦車の開発計画〈2〉─ 6号戦車B型「ティーガーII」の誕生
●ところで「ティーガーI」は優れた重戦車であったが、ヒトラーはこれに満足することはなかった。彼はより強力な火力と装甲を備えた戦車を要求した。
そこで立案されたのが「ティーガーI」の後継となる次期重戦車の開発計画である。
重厚長大な兵器が大好きだったアドルフ・ヒトラー
第二次世界大戦が始まる数年前、兵器試験場で演習中の戦車を
目にしたヒトラーは「私が必要としていたのはこれだ」と口にした。
戦車を中心とする装甲部隊こそが国防軍強化の道だと看破したヒトラー
により、ドイツの戦車開発は強力に推し進められることになった。
また「より強力な火力、より強靭な装甲」を要求するヒトラー
により、ドイツの戦車は巨大化の道を進むようになった。
●この次期重戦車の開発計画を受けて、ポルシェ博士が新たに設計したポルシェティーガーIIは、1942年2月に「陸軍兵器局」より「VK-4502(P)」の公式名称が与えられ、試作を待たずに100両の生産が決定した。
計画では1943年3月には5両が完成し、その後に量産が行われることになっていた。
VK-4502(P) ポルシェティーガーII
エンジンと足回りは前設計のVK-4501(P) ポルシェティーガーの発展型
とされ、ハイブリッド駆動方式と縦置きトーションバーが踏襲されていた
(左)ポルシェティーガーII(前部砲塔型)の側面図 (右)1/72スケールモデル
●このポルシェティーガーIIは「ポルシェ設計事務所」内では「3号特殊車両」(タイプ180/181)と呼ばれ、前部砲塔型(上の画像)と後部砲塔型(下の画像)の2種類の設計案が存在していた。
しかし、前設計のVK-4501(P) ポルシェティーガーの場合と同様、駆動系などのトラブルで開発は難航し、それにうんざりした「陸軍兵器局」は大量生産の発注をキャンセルし、わずか3両のプロトタイプの製作に切り替えてしまった。だが結局、それさえも完成せず、計画そのものが宙に浮いてしまう事態となってしまった。
(左)ポルシェティーガーII(後部砲塔型)の側面図 (右)1/72スケールモデル
本来ならば車体後部にある機械室と車体前部にある戦闘室の
位置を入れ替え、回転式砲塔を車体後部に搭載した後部砲塔型である
●結局、次期重戦車の開発は「ポルシェ設計事務所」と「ヘンシェル社」の2社が競作する形となり、前回に続いて今回もヘンシェル社案が採用され、「ヘンシェル社」が設計した試作車「VK-4503(H)」は6号戦車B型「ティーガーII」として量産されたのである。
「陸軍兵器局」は「ヘンシェル社」と「ポルシェ設計事務所」の両社が提出した
設計案を比較検討した結果、「ヘンシェル社」の設計案の方が堅実で有望と判断し、
1942年10月に制式採用して試作車製作と量産準備を「ヘンシェル社」に発令した。
しかし、「ティーガーII」の開発計画はいきなり遅延を余儀なくされる。1943年2月に
「陸軍兵器局」は生産性の向上を目指して、当時「MAN社」で開発されていた「パンターII」
(5号戦車「パンター」の改良型)との機構やパーツの共通化を可能な限り行うという方針を
決定したからである。このため「ティーガーII」の開発は「ヘンシェル社」と「MAN社」の
協力の下に進められることになり、「パンターII」の計画が進行するまで「ティーガーII」の
開発は足止めを食うことになってしまった。しかし結局「パンターII計画」は中止となり、
「ティーガーII」の開発作業は数ヶ月のタイムロスのあと再開された。(「ティーガーII」
の試作1号車が完成したのは1943年11月のことである)。翌1944年1月に
さらに2両の試作車と量産型3両が完成し、漸く生産が始められたのである。
●ちなみに、ポルシェ案(ポルシェティーガーIIの設計案)は不採用となったものの、ポルシェ砲塔(クルップ社が設計)がすでに50基完成していたため初期生産車両に流用された。
↑実験用架台に載せられた「ポルシェ砲塔」
元々ポルシェティーガーIIに搭載するために「クルップ社」が
設計したものだが、ポルシェ案が不採用となってしまったため、
ヘンシェル社案の初期生産車両に流用されることとなった。
↑6号戦車B型「ティーガーII」(ポルシェ砲塔型)
「ケーニヒス・ティーガー(キング・タイガー)」とも呼ばれ、
枢軸・連合両軍を通じて最強の重戦車であった。しかしその登場は
あまりにも遅く、戦局に大きな影響を与えるには至らなかった。最初の
50両には、曲線的なフォルムの「ポルシェ砲塔」が搭載されていた。
※ この「ポルシェ砲塔」は、避弾経始という点では有利であったが、
生産工数が余計にかかることが問題であった。また、前面下部が
ショットトラップとなって跳弾を招くことも問題であった。
結局、問題解決のために「クルップ社」にて新型砲塔が
再設計され、これが標準の量産型砲塔となった。
(いわゆる「ヘンシェル砲塔」ともいう)。
(左)「ティーガーII」(ポルシェ砲塔型)の側面図 (右)1/35スケールモデル
●「ティーガーII」の重量は「ティーガーI」よりも10トン以上も重い68トンもあった。当時の戦車の主流が30トンだったことを考えると、2倍以上の重さだった。また主砲は「ティーガーI」と同じ88ミリ砲だが、「ティーガーI」の56口径に対して71口径となり攻撃力がさらに強化されていた。
※ この「ティーガーII」の主砲の有効射程はソ連軍の主力戦車「T-34」の3倍近くもあり、連合軍の戦車砲ではその側面や後部の装甲ですら貫通が困難で、いかなる戦車もこの重戦車と正面から撃ち合って生き延びることはできなかったと言われている。
↑6号戦車B型「ティーガーII」(ヘンシェル砲塔型)
「ヘンシェル砲塔」を搭載した標準型の「ティーガーII」である。
この新型の砲塔は「ポルシェ砲塔」に比べるとシンプルなラインで構成
されており、このおかげで生産工数はかなり減少した。また装甲厚が全体的に
増しており、前面下部のショットトラップも改善されていて性能的にも優れていた。
(左)「ティーガーII」(ヘンシェル砲塔型)の側面図 (右)1/35スケールモデル
■■第4章:重戦車の開発計画〈3〉─ 幻の7号戦車「レーヴェ」
●1941年の独ソ戦の始まりとともに、ドイツ装甲部隊は強力なソ連軍戦車に苦戦を強いられるようになり、前線からは一刻も早く強力な新型戦車の投入を望む声が寄せられていた。
ドイツ軍の切り札として期待されていた6号戦車「ティーガーI」がまだ開発途中の段階で、ヒトラーは「いずれソ連軍はティーガーIを凌ぐ重武装・重装甲の戦車を投入してくるだろう」と予測し、それに対抗すべくさらに強力な重戦車群の開発と実戦配備が急務である、との見解を示した。
そこで立案されたのが70~90トン級の新型重戦車の開発計画である。
独ソ戦でソ連軍の新鋭戦車「T-34」「KV-1」と対峙した
ドイツ軍は将来を見越して6号戦車よりも強力な重戦車の開発に着手した
●1941年11月に新型重戦車の開発仕様が「陸軍兵器局」より提示され、翌1942年1月には「クルップ社」が開発仕様に沿って自社の設計案を提出した。
車体は傾斜装甲で構成されたデザインとし、ダイムラー・ベンツ製の魚雷艇用エンジンの改良型を搭載し、重量は90トンだった。
「陸軍兵器局」は「クルップ社」に対して新型重戦車の開発を正式に指示したが、その際、早期の量産化のために「VK-4501(H)」(後のティーガーI)の機関系コンポーネントの流用とエンジンの変更、ならびに装甲厚を減らして72トン級にするよう要請した。
●この新型重戦車は1942年4月には「VK-7001」の開発名から7号戦車「レーヴェ(ライオン)」という制式名称が与えられ、試作車による試験無しで1943年1月から生産を開始する予定で作業が進められた。
※ この戦車の砲塔は鋳造製で丸みの強いデザインとなっており、主砲は70口径105ミリ砲を搭載する予定だった。
●しかし技術的な諸問題により、7号戦車「レーヴェ」の開発計画は1942年7月20日に中止となり、試作車も作られることはなかった。
※ 以後の重戦車開発計画は、より大型の超重戦車「マウス」や「E-100」などに移行していく(後述)。
↑7号戦車「レーヴェ」の模型とその側面図(想像図)
※ この戦車は様々な基本形が検討され、通常形式に加えて砲塔を
車体後部に搭載した後部砲塔型や、異なる機関系と武装、異なる装甲厚と
重量など、判明しているだけで5種類の設計案が存在している。結局、この
7号戦車の開発は計画のみで終わってしまい、正確な図面というものは存在
しておらず、上の姿はラフな図から作り起こされたものとなっている。
●ところでソ連軍の戦車・火砲開発陣も、敵国ドイツの新型戦車に対抗するため、戦車火力の強化に躍起になっていた。
彼らはそれまでの火力の優劣差をなくすため、ドイツの88ミリ戦車砲と同じく高射砲を転用して85ミリ戦車砲の開発に着手した。またこれを搭載する「T-34」の新型砲塔も開発された。
(左)ソ連軍の主力戦車「T-34」(右)1/35スケールモデル
(左)85ミリ砲を搭載した新型の「T-34/85」(右)1/35スケールモデル
●この新型砲塔(85ミリ砲搭載型)の「T-34」は1943年末までに完成し、翌年から生産が開始された。
この「T-34」は砲塔の更新のみで強力な火力をもつ新型戦車に生まれ変わったため、従来の「T-34」からの生産移行がスムーズに進み、あわせて撃破された「T-34」を戦場から回収して新型に再生することも可能であった。
※ この新型砲塔の登場後、区別するために従来の「T-34」は「T-34/76」、新型は「T-34/85」と呼称されるようになった。
■■第5章:超重戦車の開発計画 ─ 8号戦車「マウス」の誕生
●1941年初頭、ソ連で100トン級重戦車が開発されているという情報を得たドイツ軍は、これに対抗しうる超重戦車の開発を企画した。
これを知ったヒトラーは1942年3月、ポルシェ博士に対して超重戦車「マウス」(ドイツ語でハツカネズミの意)の開発を命じた。
フェルディナント・ポルシェ博士
●1943年12月にテスト走行を開始した「マウス」は、重量188トン、ダイムラー・ベンツ製の(本来は航空機用の)V型12気筒、1080馬力エンジンを搭載していた。127ミリの主砲と75ミリの副砲を備えていたが、主砲は当時の駆逐艦のそれと同じ口径だった。最高時速は20キロだったが、この重量では行動できる場所は限られていた。
※ この超重戦車「マウス」は「ポルシェ設計事務所」内では「4号特殊車両」(タイプ205)と呼ばれていた。
ポルシェ博士が設計した超重戦車=8号戦車「マウス」
設計はポルシェ博士が担当し、その他の部品の生産と組み立ては
「クルップ社」、砲を含む最終組み立ては「アルケット社」が担当した。
駆動方式はポルシェ博士お得意のハイブリッド駆動方式で、第二次大戦が
終わったとき、試作タイプが2両完成しており、さらに9両の「マウス」が
製作中だった。最終的には全部で100両作られるはずだったという。
超重戦車「マウス」とソ連の主力戦車「T-34/85」の比較図
●この超重戦車「マウス」の開発計画について、ナチスの軍需大臣アルベルト・シュペーアはこう証言している。
「ヒトラーを喜ばせ、その意見が正しいことを証明しようとして、ポルシェ博士は重量100トンを超える超重戦車の設計をも企てた。この場合ごくわずかの台数を一両ずつ手造りするほかない。秘密保持の立場から、この新しい怪物のコードネームを『マウス』と呼んだ(当初のコードは「マムート」、ドイツ語でマンモスの意味)。
いずれにせよ、ポルシェ博士はヒトラーの重装甲であればあるほどよい、という考えに自分も加担したわけで、敵側でも同じような戦車の開発が行われているという報告を時折りヒトラーに提出していた」
ナチスの軍需大臣アルベルト・シュペーア
建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。
●また、ドイツ装甲部隊の創始者ハインツ・グデーリアン上級大将は、超重戦車「マウス」について「ヒトラーとその顧問の幻想から生まれ出た怪物」と叙述している。
ドイツ装甲部隊の創始者
ハインツ・グデーリアン上級大将
青年時代に通信将校として第一次世界大戦に
従軍した彼は、大戦後に「交通兵監部」で革新的な
無線通信との統合による自動車化・装甲部隊を構想して
後の「電撃戦」の原形を作る。その後、ヒトラーの登場に
よって「装甲部隊による進撃理論」が支持され、大将に昇進
した後には「ドイツ装甲部隊」を率いて疾風怒濤の活躍を実践
してその理論を証明。第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った。
その後の東西両戦線では、ヨーロッパの地図を塗り替える戦果と
なり、「ドイツ装甲部隊」は無敵と言えた。これを称して「疾風
ハインツ」との異名を冠せられる。その後、解任と復職を経て、
1944年7月に陸軍参謀総長に任命される。しかしヒトラー
との対立は頂点に達し、ドイツ敗北直前に再び解任される。
戦後は短期にわたって連合国に身柄を拘束されたが、
戦争犯罪人として起訴されることはなかった。
その後は、名誉教授としてアメリカ陸軍の
機甲学校で講義をしたり回想録を
執筆して余生を送った。
■■第6章:開発が中止となったポルシェ博士の試作戦車
●ところで戦争中、原材料が次第に不足していく中で、ポルシェ博士は「軽戦車」シリーズの興味深い設計を行っていた。
この戦車は「ポルシェ設計事務所」内では「5号特殊車両」(タイプ245)と呼ばれていた。
この軽戦車は3タイプが設計されていた↓
【1】車両重量18トンの軽戦車(車高は2.5m)
【2】偵察および歩兵随伴用の多目的戦車(車高はなんと1.5m)
【3】対地・対空目標の両方が攻撃可能な多目的戦車(車高は2m)
●しかし、この軽戦車の開発計画は1943年末か1944年初めに「車種統合計画」(「Eシリーズ」計画)により破棄されたといわれる。
「5号特殊車両」(タイプ245)の側面図とモックアップ(模型)
なによりも軽戦車であることが分かるが、その主兵装として、
対地・対空目標の両方が攻撃可能な「5.5センチ速射砲」が搭載
されていた(この砲は仰角が90度までとれるようになっていた)。
●この「5号特殊車両」の開発が中止になっても、ポルシェ博士は戦車の製作をあきらめなかった。
1944年になって新たに設計されたのが「6号特殊車両」(タイプ250/255)と呼ばれる戦車である。この車体は「5号特殊車両」より大型で、一ランク上の中戦車クラスの「多用途戦車」であった。
※ この戦車には2種類の名称が用意されていたが、車両は基本的に同一設計で、「タイプ250」が流体変速機を搭載する予定であったのに対して、「タイプ255」においては機械式変速機が搭載される予定になっていた。
「6号特殊車両」(タイプ255)
半自動式の10.5センチ砲(主砲)と3センチ砲(副砲)の2つ
の機関砲を搭載したために、総車体重量が27トンに増加していた。
車体は「タイプ245」とよく似た傾斜面で構成されたデザインだが、
完全に新設計のものである。全体に装甲が強化されており、
避弾経始もこれまで以上に考慮されていた。
●「ポルシェ設計事務所」における装甲車両に関する一連の開発車両の最後のものとしては、「7号特殊車両」(タイプ305)が挙げられるが、残念ながら詳しいことは分かっていない。
フェルディナント・ポルシェ博士
※ 博士はやや短気だったが、親しみやすく、
また誰でも気楽に話しかけられる、実に話好きの
人間だったという。また根っからの「技術屋」
で政治には全く興味を持たなかったという。
●各国の兵器について多くの本を出している軍事評論家の斎木伸生氏は、著書『ドイツ戦車発達史』(光人社)の中で、この一連のポルシェ博士の試作戦車についてこう述べている。
参考までに紹介しておきたい。
「ポルシェ設計事務所の試作車を見ると、そこにはポルシェ博士個人の強烈な個性が見てとれる。彼にとっては戦車は戦争の道具ではなく、技術者として腕を発揮できる作品のひとつに過ぎなかったのだろう。
しかし、その作品はあまりにも着想と技巧に走り過ぎていた。ヒトラーの個人的後援もあり、いくつかは形になったものの、それはほとんど使いものにならなかった。ましてや兵器として必ず考えなければならない、生産面については全く考慮されていなかった。
残念ながらポルシェ博士の試作戦車群は、ドイツの戦車生産を阻害し、資源を無駄使いさせる余計な試みでしかなかった。しかし、戦車ファンにとっては、いくつもの魅力的なバリエーションを作ってくれた大きな功績があったといえるだろう。」
■■第7章:「Eシリーズ計画」の始動と戦車王国ドイツの終焉
●第二次世界大戦が開始された当初、ドイツは戦争が長期化することを予想しておらず、戦車の生産は非常にのんびりしたものであった。
しかし、その予想に反して戦争は長期化し、さらに独ソ戦の開始によって短期決戦の電撃戦は、泥沼の長期消耗戦に変貌してしまった。
※ 前出の「電撃戦」の生みの親として知られるハインツ・グデーリアン上級大将は、「電撃戦」は短期決戦理論だから、長期消耗戦はドイツの負けと考えていた。
ソ連西部の都市「スターリングラード」(現在のヴォルゴグラード)での攻防戦で、
フリードリヒ・パウルス元帥率いるドイツ軍が降伏(1943年1月31日)。
9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後、シベリアの強制収容所から
生きて祖国ドイツに帰った者は、わずか6000人だった…。
※ この戦いは第二次世界大戦の決定的な転機となった。
(独ソ戦は泥沼の長期消耗戦に変貌していった)。
●そこで、ドイツの「陸軍兵器局」は1943年4月、第6課チーフエンジニアのH・E・クニープカンプ博士を長とする研究グループを組織し、次世代の新型装甲戦闘車両の開発を開始した。
これがいわゆる「Eシリーズ」と呼ばれる軍事プロジェクトである。
※ Eシリーズの「E」とはドイツ語の「開発=Entwicklung」の頭文字である。
●この「Eシリーズ計画」の意図するところは、
まず、軍需生産の潜在力を全て利用しようというもので、まだ装甲戦闘車両の生産に関係していない自動車産業を生産に参加させようとするものであった。
そして、車両の設計に際しては、規格の統一化を進めて生産の簡略化と生産時間の短縮化を図り、コストを削減し、同時に多用途に使用可能なものとするというものであった。
●この開発計画における6種の装甲戦闘車両は以下の通りである。
◆「E-5」……5トン(軽装甲偵察車、軽装甲兵員輸送車)
◆「E-10」……10~15トン(多目的型軽装甲車両、軽駆逐戦車)
◆「E-25」……25~30トン(回転砲塔を持たない駆逐戦車)
◆「E-50」……50トン(中戦車=5号戦車「パンター」の後継車種)
◆「E-75」……75~80トン(重戦車=6号戦車「ティーガーII」の後継車種)
◆「E-100」……130~140トン(超重戦車)
「E-25」の側面図
※「Eシリーズ」は全てエンジンを後部に搭載する
予定で、完成していればこの車体重量にもかかわらず、
最大時速40キロの走行が可能であったという。
●この開発計画で最も進行していたのは、最も大型の車両である超重戦車「E-100」であった。
「E-100」の開発は、1943年6月に開始された。開発契約は「ヘンシェル社」の傘下にある「アドラー社」に与えられ、ヤェンシェック博士を中心に製作が行われた。
しかし1944年、ヒトラーによって開発中止命令が出されたため、生産を目標とした開発作業は取りやめられ、試作車だけがわずか3人の「アドラー社」の技師によって細々と続けられた。だが結局、完成にはいたらず、敗戦まぎわに連合軍の手に落ち、戦後(1945年6月)にイギリスに移送されてしまった。
超重戦車「E-100」の原型モデル
アーチ型の「装甲スカート」が特徴である。車体形状は
「ティーガーII」と類似したものであったが、前面装甲板は
耐弾性を強めるために30度の傾斜となっていた。装甲厚は
「マウス」よりは若干劣るものの充分すぎるほどのものであった。
砲塔は結局製作されず、試験時には同重量のダミー砲塔を搭載
することとされていた。「マウス」と同一の砲塔を搭載する計画
だったと言われるが、最初はその予定ではなかったという。
超重戦車「マウス」と超重戦車「E-100」の比較画像
●この「E-100」は、同じ超重戦車である「マウス」と連携して開発が進められたが、「マウス」はヒトラーの直接命令であり、「E-100」は「陸軍兵器局」主導の開発だった。
よく「E-100」は、ポルシェ博士の「マウス」に対する当て馬として作られたと言われるが、「Eシリーズを一体として考えれば、決してそれだけとは思えず、やはりある程度の戦力バランスを考えた上での計画だった」という意見も存在する。
連合軍に接収された超重戦車「E-100」の車体
※ エンジンやサスペンションは未装着だったものの車体はほぼ完成していた
●参考までに、前出の軍事評論家の斎木伸生氏は著書『ドイツ戦車発達史』(光人社)の中で、「Eシリーズ計画」についてこう述べている。
「結局、Eシリーズはどれとして生産はおろか、完成車体になったものもなかった。Eシリーズとは一体何だったのだろうか? 一言でいえばそれは戦車王国ドイツの見た最後の夢であった。技術者はあまりにも多くの新機軸を盛り込もうとしたため、迷いの森に入り込んでしまったのだ。
大戦時、ドイツが実用化した新技術には次のようなものがある。ロケット、ジェット機、水中高速潜水艦などである。有名なのがジェット機だが、最近の説によると実用化が遅れたのはヒトラーの干渉よりも、技術者の研究熱心ゆえの改修にあったという。悪く言えばひとりよがりの自己満足である。
それは潜水艦(Uボート)のときにも共通する。ありとあらゆる装備を油圧駆動とするため、結局実戦には間に合わなかったのだ。
もし、Eシリーズが戦前に計画されていたらどうなっただろうか。完成しただろうか、それともやはり迷いの森に落ちてしまったのだろうか。それは神のみが知りえる問題である。しかし結局、それを戦前に計画できなかったことこそが、その答えではなかろうか。」
─ 完 ─
■■おまけ情報:「ティーガーI」と「ティーガーII」の比較
●第3章でも触れたが、「ティーガーII」の重量は「ティーガーI」よりも10トン以上も重い68トンもあった。当時の戦車の主流が30トンだったことを考えると、2倍以上の重さだった。また主砲は「ティーガーI」と同じ88ミリ砲だが、「ティーガーI」の56口径に対して71口径となり攻撃力がさらに強化されていた。
※ この「ティーガーII」の主砲の有効射程はソ連の主力戦車「T-34」の3倍近くもあり、連合軍の戦車砲ではその側面や後部の装甲ですら貫通が困難で、いかなる戦車もこの重戦車と正面から撃ち合って生き延びることはできなかったと言われている。
6号戦車E型「ティーガーI」
6号戦車B型「ティーガーII」ポルシェ砲塔型(左)とヘンシェル砲塔型(右)
●「ティーガーII」の基本設計は「ティーガーI」を発展させたものだが、傾斜装甲の車体や内部の配置など5号戦車「パンター」と多くの共通点が見られる形になっていた。
それゆえに「ティーガーII」は「ティーガーI」の後継というより「パンター」の拡大発展型といえるものだった。
↑左の戦車は上面から見た「ティーガーI」(上)と「ティーガーII」(下)
※『MILITARY CLASSICS VOL.15 2006 AUTUMN』(イカロス出版)より
●「ティーガーII」は大戦後期の戦車戦において無敵の重戦車として奮闘した。しかし、圧倒的な物量で迫る連合軍の前には、生産台数489両ではあまりにもその数は少なすぎた。
また、大重量とエンジンのパワー不足から機動力が低く、マシン・トラブルや燃料不足にも悩まされ、威力を十分に発揮することはできなかった。そのため敵戦車との戦闘で撃破された数よりも、故障や燃料切れによって行動不能となり、自爆処理して放置された数のほうが多かったと言われている。
※「ティーガーII」の燃費はかなり悪く、1リットルの燃料で162mしか進めなかった。また「ティーガーII」の生産コストは1台当たり32万1500ライヒスマルク(現在の価値にして約4憶5000万円)で、これは5号戦車「パンター」(武装抜きの初期型)と比べると倍以上もした。
●参考までに、前出の軍事評論家である斎木伸生氏は「ティーガーII」についてこう述べている。
「ティーガーIIはティーガーIを凌駕する、世界最強の重戦車であった。その活躍ぶりは凄まじく、多くのドイツ兵士とドイツ人の命を救った。しかし、防勢一方のドイツ軍にとってその生産数はあまりにも少なく、戦局を変えることはできなかった。
実際、ティーガーIIを少数生産するより、その努力をパンター生産につぎ込むべきだったという意見もある。戦争の合理性ではその意見に軍配が上がるかもしれないが、ドイツ戦車発達史の中でのティーガーIIの地位は大きなものがあったといえるだろう」
●また別の軍事評論家も「ティーガーII」についてこう評価している。
少し長くなるが、参考までに紹介しておきたい。m(_ _)m
「ティーガーIIを位置づけるとすれば、第二次大戦最強の戦車であったということになろう。中にはスターリン戦車のように、火力はティーガーIIより優れ、装甲もまた劣らないものも現われたが、戦車戦闘を目的とした、現代風にいえばMBT(主力戦車)の範囲に入るべき諸性能のバランスにおいて、ティーガーIIにはかなわない。また大戦末期に一部が戦闘に参加したアメリカのM26およびイギリスのセンチュリオンとは、火力と防御力でやはりティーガーIIに一日の長があった。
そして何よりも重要なのは、ティーガーIの場合と同じく、従来、実用性に乏しいと言われ、成功例の少ない重戦車でありながら、その大重量をよく克服して一応の機動力を発揮させていることである。そこには優秀なエンジンや伝達機構をはじめ、用兵上の多くの要素をうまく取り入れて行く設計上のセンスやポリシー等に注目すべき技術がひそんでいる。このあたりにドイツの優れた戦車工学の一端を見ることができる。
ひるがえって、当時のドイツ戦車の中におけるティーガーIIを位置づけるとすれば、独ソ戦が始まって間もなくドイツ装甲部隊を襲った『T-34ショック』に対する最終的な回答だったと言うことができよう。それは同時にT-34の出現を機に、戦車開発の路線を大きく変更させられたドイツ戦車史の流れの中での、最後にして最大の戦車だったのである」
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