ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a6fhc260
作成 2005.2
序章 |
独裁者アドルフ・ヒトラー |
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第1章 |
~「アウトバーン」の建設~ |
第2章 |
「国民車計画」の開始
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第3章 |
プロトタイプの製作
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第4章 |
試作車「VW3」と「VW30」の完成
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第5章 |
最終試作車「VW38」の完成
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第6章 |
「フォルクスワーゲン工場」の建設
~「KdFワーゲン市」の誕生~ |
第7章 |
第二次世界大戦の勃発
~軍用ワーゲンの生産~ |
第8章 |
独裁者と自動車レース
~ドイツの「シルバー軍団」の大活躍~ |
第9章 |
知られざるポルシェ博士の戦車開発計画
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第10章 |
戦後のフォルクスワーゲンの変貌と発展
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第11章 |
「ポルシェ社」とポルシェ356誕生秘話
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おまけ |
『ポルシェ博士とヒトラー』の紹介と
ポルシェ911誕生秘話 |
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おまけ |
ポルシェが開発した
世界初の「ハイブリッドカー」 |
おまけ |
フェラーリとポルシェの
エンブレムのルーツ |
おまけ |
フォルクスワーゲンの街
「ヴォルフスブルク」の紹介 |
おまけ |
「トヨタ博物館」の「VW38」
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■■序章:自動車が大好きだった独裁者アドルフ・ヒトラー
●ヒトラーは自動車が大好きだった。
国政で多忙をきわめていた彼は、ストレス発散のためにしょっちゅうドライブにも出かけている。
ちなみに愛車はメルセデス・ベンツ。
彼がベンツを好んだ理由は、一度交通事故に遭ったとき、頑丈につくられた車体のおかげで無傷ですんだからだった。それ以来、彼はどこへ行くときもベンツに乗り、1932年の大統領選挙の時には、特別につくらせた青いベンツのオープンカーで遊説した。
メルセデス・ベンツに乗るアドルフ・ヒトラー
ヒトラーはパワフルな車が大好きだったが、貴族的なマイバッハよりも
スーパーチャージャーつきメルセデスを大いに愛用した。当時、メルセデスの
スーパーチャージャーは独特な「メルセデスの悲鳴」と呼ぶ甲高い耳ざわりな
音を発生したが、それをワルキューレ(ワーグナーの楽劇)の悲鳴になぞらえる
人が多かった。ヒトラーは巨匠ワーグナーをこよなく愛していたので、この
甲高い音は、さぞかしお気に入りだったであろうと言われている。
※ ちなみに、このスーパーチャージャーの設計の主導的
人物は、あの有名な天才ポルシェ博士だった。
■■第1章:ナチス・ドイツの道路交通網の整備 ─「アウトバーン」の建設
●ヒトラーが権力を握る前のドイツの「道路行政」は、かなり遅れていた。
26の州のもと約600の市町村に属し管理されていたため、地域によって不統一な設計や技術的不釣り合いなどが生じていた。
さらに古い都市が多いため(歴史的ばかりでなく美術的な建築物も多いため)、それが障害となって他の国々と比較しても道路交通網の整備は遅れたものとなっていたのである。
●また、ドイツの自動車保有台数も他の国々と比較して少なかった。
1930年のアメリカとドイツの人口比は2対1だったが、アメリカには2300万台の自動車があった。ドイツには50万台しかなかった。この年のイギリスの自動車保有台数は100万台である(人口比はドイツ3、イギリス2)。
※ 1930年代に自動車保有台数はドイツで3倍、イギリスで2倍に増大したが、1938年のイギリスとドイツの保有率の比は依然ドイツが50%少なかった。
●1933年1月、ヒトラーが政権を獲得すると早速、「アウトバーン」の建設計画を発表した。
「アウトバーン」とは、正式には「ライヒス・アウトバーン(Reichs Autobahn)」といい、ドイツ語で「第三帝国自動車専用道路」を意味する。
アウトバーンの目的は陸上交通網の近代化だが、その裏には機甲部隊をすばやく国内移動させるという第二次世界大戦を想定した目的も含まれていた。さらに当時650万人にも及ぶといわれた失業者の救済としての公共事業的意味もあった。
※ 念のために書いておくと、ヒトラー政権発足前から「アウトバーン」の計画はあったが、ナチ党は雇用対策も兼ねた公共事業として整備を強力に推進したのである。
1933年1月30日に誕生したヒトラー政権
●計画はすぐに実行に移された。
1933年7月、ヒトラー政権は「自動車国道営団」を設立、道路行政を一本化する法律を制定する。
これ以降ヒトラーは、自動車税の撤廃、国有鉄道にトラック輸送部門の新設などの政策も打ち出し、ナチ党は党内に「国家社会主義自動車隊(NSKK)」を設け、運転技能者育成を始めた。
●ちなみに、「アウトバーン」の建設総監を務めたのはフリッツ・トート将軍だった。
非常に有能な土木技術者であった彼は、のちにノーベル賞に対抗するためにヒトラーが創設した「ドイツ芸術科学国家賞」を受賞する。
(左)フリッツ・トート将軍(軍需大臣)
(右)「ドイツ芸術科学国家賞」のペンダント
優秀な土木技術者だったフリッツ・トート将軍は
「トート機関」(建築や土木の技師団の政府組織)の
生みの親で、V1、V2、V3の基地などの軍事施設や
「アウトバーン」の設計・建設を担当した。1940年に
初代の軍需大臣に任命されたが、1942年2月に
飛行機の墜落事故によって死亡してしまう。
(後任はアルベルト・シュペーア)。
●1933年9月23日、フランクフルトとダルムシュタットを結ぶ第1期工事の起工式にはヒトラー自らが出向き、その事業に対する力の入れようがうかがえた。
建設計画では南北に2本、東西に4本を基本路線とし、全長1万4000kmであった。
第二次世界大戦のため、1942年に建設は中止されたが、スタートの1933年から1942年までの9年間で4800kmを着工し、3900kmを完成させるという歴史上類のないハイペースで進められていたのだった。
(左)1933年9月23日、フランクフルトとダルムシュタットを結ぶ第1期
工事の起工式にはヒトラー自らが出向いた (右)アウトバーン開通式の様子
(メルセデス・ベンツによるテープカットの瞬間=1935年5月19日)
完成したばかりのアウトバーン
アウトバーンは世界で初めての本格的な高速道路ネットワークであった。
ヒトラーは「戦争が終われば、アウトバーンのおかげでドイツ国内
の境界がなくなるのと同じように、ヨーロッパ諸国の国境も
なくなり、レジャーに不自由しない」と語っていた。
●世界に先駆けて高速道路の整備に取り組んだドイツを追いかけるように、アメリカでも1940年に全長257kmの「ペンシルベニア・ターンパイク」が建設された。
日本での最初の高速道路は、1963年7月16日に開通した「名神高速道路」(栗東IC~尼崎IC間71.1km)で、アウトバーンからおよそ30年遅れてのことであった。
■■第2章:「国民車計画」の開始
●ドイツ語で「国民車」を意味する「フォルクスワーゲン」の製造計画が発表されたのも、ヒトラーが政権に就いて間もなくであった。
※「フォルクスワーゲン(Volks-Wagen)」を、英語で表現すると「People's Car」である。
ベルリンで開かれた「モーターショー」を視察するヒトラー
※ ベルリン・モーターショーへの参加者は、年々増加し、1933年
35万人、1934年41万人、1935年59万人、1936年64万人、
1937年73万人、1938年77万人、1939年82万人だった。
●1933年2月11日、ベルリンで「モーターショー」が開催された。
その開幕式でヒトラーは「国民のための車を持つべきだ」と演説した。倹約を行っている人々に安価に車を提供することが目標であった。
ヒトラーは語る。
「これからの国家の評価は鉄道ではなく、高速道路の長さで決まる。自動車が金持ちの階級のものである限り、それは国民を貧富の二階級に分ける道具にしかならない。
国家を真に支えている多くの国民大衆のための自動車であってこそ、文明の利器であり、素晴らしい生活を約束してくれる。我々は今こそ『国民のための車』を持つべきである!」
沿道の観衆から歓声を浴びるヒトラー
当時ドイツの自動車メーカーは、裕福な顧客のために高級車を生産
していたが、このような状態が続くかぎり「自動車は国民を貧富の
二階級に分ける道具にしかならない」とヒトラーは考えていた。
※ ヒトラー政権下のドイツの自動車メーカーは
「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」という
単一団体に統合されていた。
●このように、ヒトラーはドイツの国力を世界にアピールするため、「一家に一台」をスローガンに大衆に自動車を普及させることを主張したのである。
そしてヒトラーは、「国民車」の設計を天才エンジニアのフェルディナント・ポルシェ博士に依頼した。
ポルシェ博士は快く応じ、1934年6月22日、「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」と正式に契約を交わした。この契約によりポルシェ博士は、10ヶ月以内に「国民車」のプロトタイプを完成させることとなった。
(左)フェルディナント・ポルシェ博士
(右)ヒトラーと親しく会話するポルシェ博士
ボヘミア出身の自動車工学者であるポルシェ博士は
フォルクスワーゲンを手がける前は、優秀な技師として
多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの
混合動力車、「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、
「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。
※ 1931年に彼は「ポルシェ社」の前身である
「ポルシェ設計事務所」をシュツットガルトに
設立していた(設立年については
1930年という説もある)。
●「国民車」の設計の条件として、座席は4、5人乗りで燃費が良く、持続してアウトバーンを走れ、修理費が安いこと。そして「空冷式エンジン」であることが提示された。
このとき提示された基本性能は、当時の車としては型破りの内容であった。
世界のモータリゼーションに革命的なインパクトを与えたアメリカのT型フォードは、安価をあくまでも追求した結果、機構的には極めて単純だった。だがフォルクスワーゲンは、安価が第一の目標だったのに、機構的には極めて高級だった。
例えば「全輪独立懸架」。そのころ「全輪独立懸架」の市販車などは、ほとんど見かけることはなかった。
※ このヒトラーの「国民車計画」は、大戦後のヨーロッパの車作りを一変させることになる。
↑ヒトラーが実際に描いたラフスケッチ
「このような車を作って欲しい」とポルシェ博士に依頼した。
フォルクスワーゲン(国民車)はヒトラーによる「国民車構想」と
ポルシェ博士のアイデアが融合して実現していくのである。
●ヒトラーはドイツの自動車工業のあり方や理想のエンジンについて独自の考えを持っていた。
参考までに、ヒトラーは側近に対してこう語っている。
「今までの我がドイツの自動車メーカーは、常にニューモデルを発表し、現在あるタイプを改装し改善を加えている。その結果、無数の数と種類のスペアパーツを作らねばならなかった。異なったモデルの部品の互換性がないからだ。〈中略〉
……(このような事態を避けるために)将来、我々はドイツ自動車工業が、1ダースほどのモデルしか生産しないよう制限を加えるべきだ。
そして、自動車工業の第一の目的は、エンジンの単純化に置くべきである。より高出力な各種の新しい気筒を導入することでなく、標準の気筒の数を増大させて行わなくてはならない。ダッシュボードもまた単純化すべきである。しかし、最も重要なやり方は、ある1つのエンジンが、病院車にも偵察車にも大砲の重牽引車にも使えるようにすることだ。〈中略〉
私の考えている理想的なエンジンは、2つの特性を持っていなくてはならない。1つは空冷式でなければならない。2つめは分解と交換が容易でなければならない。後者の特徴は特に重要である。〈中略〉また、標準化を高度に進め、この理想のエンジンの生産も単純化することが必要なことも明白である。」
■■第3章:プロトタイプの製作
●ヒトラーに「国民車」の設計を依頼されたポルシェ博士は、自分の別荘のガレージでプロトタイプの製作を開始した。
しかし、いかなる天才ポルシェといえども、カブトムシ(ビートル)の原型が出来上がるまでは、2年という歳月を必要としなければならなかった。
※ ここで手作りされた試作車は、のちに「VW3」と呼ばれる。
「VW3」は最終的に5台作られた。
ポルシェ博士を師とあおぐ有望な若手技術者が集まり、
シュツットガルトのポルシェ家のガレージで作業は始められた
●1935年に開かれたベルリン・モーターショーの開幕式で、ヒトラーは「国民車」の誕生を予告した。
「私は優れた技術者、ポルシェ博士とそのスタッフの努力により、ドイツの国民車が誕生の運びになったのを喜びたい。従来の中型オートバイより安く、しかも燃費の良い小型車をドイツ国民に贈ることが、将来必ず可能になるものと信じている」
●「国民車計画」でポルシェ博士に提示した条件のうち、ヒトラーが最も固執したのは「価格」だった。庶民の手の届く価格(1000マルク以下)であることに強くこだわったのである。
しかし、どう考えても、1台あたりの販売価格をこれほどまでに抑えることは不可能に思われた。何しろチッポケなもっとも安い車でさえ1500マルクはした時代のことである。(このヒトラーの目標価格は、ディーラーの利益を除外した上での単純計算においても、達成困難な価格だった)。
しかしそれでも、ポルシェ博士は熱心に仕事を続けた。自分がずっと胸に描き続けてきた理想の小型車に挑戦できる願ってもない機会だと考えたからだ。
空冷水平対向4気筒エンジンをリアに搭載して後輪を駆動
するレイアウトは、その後のポルシェのスポーツカー
「356」、「911」へと引き継がれていった。
●「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」の主要メンバーは、「この条件を鵜呑み(うのみ)にしたならば、予定通りには事が進まない」と公言してはばからず、またトゲのある冷たい言葉をポルシェ博士に投げかけたのだった。
しかしそれは結果として、ポルシェ博士の情熱に油を注ぐことになった。
※「RDA」の主要メンバーたちは、一設計者に過ぎないポルシェ博士に国民車の設計・製作のイニシアティブを握られるという事実を苦々しく感じていた。また、「RDA」に参加していた「オペル社」はポルシェ博士に対抗して、独自に大衆車の開発を進めていた。
しかし、この「オペル社」の策略は後にヒトラーを激怒させることになる(後述)。
■■第4章:試作車「VW3」と「VW30」の完成
●1936年春、ヒトラーのところへ電話がかかってきた。
「できました!」
ポルシェ博士の声である。
「総統のお望み通りの車が完成しました。どんなロード・テストにも耐えるでしょう。たとえ水のなか、吹雪のなか、炎熱の酷暑、どこへ持っていっても故障なし。そしてマス・プロ(大量生産)にすれば、値段もお望み通りのところまできます!」
この自信に満ちたポルシェ博士の言葉を聞いて、ヒトラーは笑みをこぼしたという。
●さっそく完成したばかりの試作車「VW3」の走行テストが入念に行われた。
「VW3」の成功を望んでいなかった「RDA」ではあったが、「RDA」のメンバーが「VW3」を徹底的にテストした結果、どこにも否定的な問題点を見い出すことができず、むしろ次の段階へと駒を進める必要が生じたのだった。
ポルシェ博士が作った試作車「VW3」
※ 5万kmにも及んだ厳しいテストをパスした結果、
フォルクスワーゲン誕生の機運は急速に高まっていった
●翌年、さらに改良を加えた試作車「VW30」が30台完成し、苛酷な走行テストがナチス親衛隊(SS)によって大規模に行われた。
※「VW30」は「VW60」としてさらに30台製作された。
「VW3」のテスト結果を元に作られた試作車「VW30」
※ 総計241万kmに及ぶ「VW30」の走行テストは、ナチス
親衛隊(SS)によって昼夜兼行で行われた。当時としては異例中
の異例とも言える苛酷なテストだった。この走行テストは国家的な
機密に属し、一般人が撮影することは厳しく禁じられたという。
(左)走行テスト中の「VW30」(右)「VW30」とポルシェ博士
●この苛酷な走行テストについて、日本航空学会会長の佐貫亦男氏は次のように語っている。
「VW30計画と称するフォルクスワーゲン実用走行試験の総費用は3000万マルク以上、すなわち価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。
自動車史上これほどテストに費用をかけた前例はなく、今後もありえないであろう。普通はこの10分の1以下である。フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、通常の新車開発費に相当したという」
(左)完成したばかりの「VW30」(中)ズラリと並んだ「VW30」(右)風洞実験の様子
●また、ある自動車評論家は次のように述べている。
「この走行テストの試乗者は、ナチス親衛隊(SS)から200名が選抜された。わざと素人のドライバーを選んだのは、素人が運転して起こりうべきミスやその他の誤ちにも耐えうるかの試験をするためであった。テスト本部をコルンウェストハイムのSS営舎におき、1937年から1938年の冬にかけて、30台の車が一斉にスタートしたのである。それはまことに壮観といってもいいテストであった。
1台の走破距離が8万470km、従って、このテストでは241万4100kmが試乗されたのである。またこれまでに消費された資金は3000万マルクであった。おそらくこれほど大がかりな自動車テストというものは、古今絶無といってもいいだろう。」
「VW30」と「VW3」のツーショット
※ ともにドアは後ろヒンジでリア・ウィンドウがない
■■第5章:最終試作車「VW38」の完成
●1937年に開かれたベルリン・モーターショーで、ヒトラーは恒例の大演説を行った。
この開幕式の演説の中でヒトラーは、「フォルクスワーゲン」の開発が順調に進んでいることを強くアピールした。
開発中のフォルクスワーゲンの試作モデルを
見ながら語り合うポルシェ博士とヒトラー
●開幕式が無事に終わると、ヒトラーは会場内を視察し、やがて「オペル社」のブースのそばに来た。
ヒトラーが来るのを待ち構えていたヴィルヘルム・フォン・オペル(「オペル社」の社長)は、満面に笑みを浮かべてヒトラーに近づき、「オペル社」が独自に開発した大衆車を示しながら、うやうやしくヒトラーに話しかけた。
「マイン・フューラー(わが指導者)、ご覧下さい。これこそ、わがドイツのフォルクスワーゲン(国民車)でございます!」
(左)「オペル社」のヴィルヘルム・フォン・オペル社長
(右)「オペル社」がライバルのポルシェ博士に
対抗して開発した大衆車「初代カデット」
この時代の「オペル社」は最廉価の大衆車「P4」を
1935年に開発していたが、ポルシェ博士が試作していた車と
比べるとあまりにも前時代的な車だった。そのためポルシェ博士に対抗
して新たに開発したのが「初代カデット」(1936年に発売)だった。
※「初代カデット」は古めかしいデザインの外観だったが、モノコック
ボディやボディと一体化したヘッドライト、独立懸架のフロント
サスペンションなど革新的な部分を持つ車だった。
●「オペル社」のブースに華々しく展示されていた車を目にしたヒトラーは、さっと顔面を紅潮させた。そして彼は唇を引き結んだまま、くるりと回れ右をすると、足早に立ち去ってしまった。
これはヴィルヘルム・フォン・オペルにとっては予想外の出来事であった。オペルはヒトラーがいかに自分のメンツにこだわる人間であるか知らなかったのである。
この「無言劇」は、間接的にポルシェ博士にとってプラス(追い風)となった。
「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」に参加していた
「オペル社」の親会社はアメリカの「GM」だった。オペルは
当時、ヒトラー構想の車を作り得る工場施設は、アメリカ資本
の「オペル社」と「ドイツ・フォード社」にしかないことを
よく心得ていた。そのためオペルの幹部たちは自分たちの
計画にヒトラーが快く応じるだろうと計算していた。
しかし、それはとんでもない「誤算」だった…。
●この件に関して、あるジャーナリストは次のように述べている。
「オペル社では、かねてからポルシェ博士が“国民車”を作るというので、なんとかして出し抜いてやろうと考えていた。これは親会社のアメリカのGMの意向でもあった。そのことで、GM副社長のムーニーがヴィルヘルム・フォン・オペルを激励にわざわざドイツまで来たくらいである。
オペル社は“オペル・フォルクスワーゲン”というのを試作して、ひそかにコストダウンを研究していたのだ。1000マルク以下の小型車は、ポルシェ博士の天才をもってしても到底出来っこないことを知っていたので、少しでも安い車を作ってポルシェ博士の鼻をあかせてやろうと、ひそかな努力を続けていたのである。
1937年に開かれたベルリン・モーターショーで起きた“小事件”は、ヒトラーの熱願であるフォルクスワーゲンの大量生産を急速に具体化させる契機となった」
●オペルの件で大いに自尊心を傷つけられたヒトラーは、既存のメーカーに頼ることなく、全く独立した組織でフォルクスワーゲンの生産に当たらせることを決心させた。
オペルとの「無言劇」の数日後、ヒトラーは「ドイツ労働戦線(DAF)」の指導者であったロベルト・ライと検討を重ね、その結果、この車の生産計画は「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」の手を離れ、「DAF」直属の組織に移管することが決定し、「フォルクスワーゲン準備会社」という国有組織(国策会社)が生まれたのである(1937年)。
※ 翌年に会社名は「フォルクスワーゲン製造会社」に変更された。
(左)「ドイツ労働戦線(DAF)」のシンボルマーク
(右)「ドイツ労働戦線(DAF)」の指導者ロベルト・ライ
「ドイツ労働戦線(DAF)」は、ドイツの労働者階級を組織
するための機関で、1933年に既存の労働組合組織を強制解散
して創設された。この機関の長は敗戦までロベルト・ライが務めた。
(彼は戦後、「ニュルンベルク裁判」を受ける前に自殺してしまう)。
●1938年、ついに最終生産型プロトタイプ「VW38」が完成。
1938年に作られた最終試作車「VW38」
「VW38」は1938年に44台作られ、「VW3」、「VW30」と
同じく985ccのエンジンが搭載されていた。この「VW38」はその
外観・内容ともにどこから見ても後のVWビートルそのものであった。
※「VW38」にはリムジーネ、ソフトトップ、カブリオレの
3タイプが用意された。また「VW38」は「VW39」
として1939年に50台製作されている。
■■第6章:「フォルクスワーゲン工場」の建設 ─「KdFワーゲン市」の誕生
●ヒトラーは世界一の(少なくともヨーロッパ一の)大工場を作れと号令した。
フォルクスワーゲンの工場建設の全責任者はボド・ラフェレンツ博士で、彼が総指揮をとることになった。
工場の敷地はニーダーザクセン州の「ミッテルラント運河」近くの広大な荒地(ファラースレーベン)が選出され、生産台数80~100万台を目標とする大工場の設計が始まった。
(左)工場建設の総指揮者、ボド・ラフェレンツ博士(ナチ党員)
(右)フォルクスワーゲンの工場の敷地は、ニーダーザクセン州の、
「ミッテルラント運河」近くの広大な荒地(地図の赤印)が選出された。
※ ニーダーザクセン州はドイツ北西部に位置し、北端はバルト海に
接している。ドイツで2番目に大きな州で、州都はハノーファーである。
中型航空機「ユンカースJu88」の窓から広々とした北ドイツの平野を
見おろしていたラフェレンツ博士が、「あそこに工場を建てよう!」
と指さした時から、ニーダーザクセン州の歴史には、新たな
ページが加えられることになったのである…。
●最初の計画によれば、生産工場よりも、そこに一大工業都市をつくることに重点がおかれ、野心的な建築家ペーター・コラーが主任設計士として任命された。
彼が設計した工業都市は、300m道路から、大アパート群、住宅街、ショッピング・センター、娯楽センター、公園、スタジアムと素晴らしい規模をもつものだった。
ウィーン生まれの天才建築家ペーター・コラー
ペーター・コラーが設計した「フォルクスワーゲン都市」の模型
※ 彼が設計した工業都市は古代ローマ帝国の都市計画にならったスケールの
大きなもので、「DAF」の指導者ロベルト・ライを驚嘆させた。完成の暁には
ヨーロッパ最大の近代的な「自動車工業都市」になるべく予定されていた。
●なおこの時期、生産責任者に任命されたポルシェ博士はマス・プロ(大量生産)を研究するために、アメリカに渡って「フォード社」の量産のノウハウを学んでいる。(このときポルシェ博士は小型フォードV8を購入したほかに、マス・プロ用の何種類かの工作機械を買い求めた)。
日本航空学会会長の佐貫亦男氏によれば、
「この時期にヒトラーが、アメリカの自動車王ヘンリー・フォードへ『ドイツ大鷲十字章』を贈ったのは、このときの助力に対する感謝であった」という。
(左)「フォード社」の創業者ヘンリー・フォード(1863~1947年)
(中)ナチスの「ドイツ大鷲十字章」(右)フォードが書いた
反ユダヤ主義の本『国際ユダヤ人』(1920年)
1938年、デトロイト駐在のドイツ領事がヘンリー・フォードに
「ドイツ大鷲十字章」を贈り、ヒトラーの謝辞を伝えた
ヘンリー・フォードは、熱烈な反ユダヤ主義者で、
ナチス・ドイツに資金援助をした。1938年の75歳
の誕生日に、非ドイツ人に与えられたものとしては最高の
「ドイツ大鷲十字章」を、ヒトラーから授与されている。
※ 1920年にフォードが書いた反ユダヤ主義の本
『国際ユダヤ人』は16ヶ国語に翻訳出版されたが、
ヒトラーはこの本に感銘(かんめい)を受けていた。
※ ヒトラーはミュンヘンの自宅の居間にフォード
の肖像画をかかげて、来訪者にドイツ語版の
『国際ユダヤ人』をプレゼントしていた。
●1938年5月26日に起工式が行われ、ここでの演説でヒトラーは、「国民車」を「KdF-Wagen」(KdFワーゲン)と命名した。
※「KdF」(カー・デー・エフ)とは「喜びを通じて力を(Kraft durch Freude)」という「ドイツ労働戦線(DAF)」のスローガンの頭文字を取ったもので、その販売カタログにも「総統の意志により実現したKdF」といううたい文句が刷り込まれていた。
※ ちなみに、ポルシェ博士はこの名前を気に入っていなかったらしい。
大量生産のための「フォルクスワーゲン工場」の起工式の様子(ヒトラーの演説風景)↑
※ ヒトラーによって生産工場が置かれた土地は「KdFワーゲン市」と名付けられた。
1938年にこの町が建てられたときには、わずか1144人しか人口がいなかった。
この町は1945年に連合軍に占領され、現在は近くにある城の名前にちなんで
「ヴォルフスブルク」と呼ぶ工業都市になっている(現VWの本社がある)。
「フォルクスワーゲン工場」の建設風景(起工式の翌日から急ピッチで開始された)
(左)1938年に開かれたベルリン・モーターショーで「国民車」の誕生を発表するヒトラー
(右)初期型量産モデルを前にして喜びをあらわにしながら語り合うポルシェ博士とヒトラー
ヒトラーは「国民車」に「KdF-Wagen」(KdFワーゲン)という名称を与え、
「ドイツ国民のための全く新しい小型乗用車は、ポルシェ博士ら優れた
技術者の英知と努力とによってここに完成した」と宣言した。
※ この国民車「KdFワーゲン」は、国威を誇示する意味から
外国のジャーナリストに披露されるなど、現在でいう
プロモーション活動が大々的に展開された。
出来たばかりのアウトバーンを試走する国民車「KdFワーゲン」
※「KdFワーゲン」のテスト走行は一般に公表され、宣伝された。
特に山岳地帯のホッホアルペン街道で行われたテスト走行は人々を驚かせた。
「KdFワーゲン」は高低差1232mもある約13kmの道を21分54秒で走破し、
このテスト結果を見たジャーナリスト達は「これよりもはるかに大きな車で走り、
エンジントラブルがなかったとしても、この行程は25~26分はかかる。
この強さはまさに芸術品と言えよう」と絶賛していたのであった。
●ドイツの国民たちは希望に胸をふくらませて「国民車」の販売カタログに見入った。
当時、この車の予約購入に33万人もの労働者が2億8000マルクを支払った。
※ この車の価格は990マルクで、毎週5マルクずつ払い込めば、4年後に車が手に入ることになっていた。
国民車「KdFワーゲン」は、販売のためのカタログやポスターが大量に作られ、両親と
子供3人を想定した5人家族のための車として、一般大衆に広くアピールされた。
「KdFワーゲン」の入手法は、「ドイツ労働戦線(DAF)」の組合員となり、毎週
5マルクを「DAF」に収めて「証紙」を受け取り「スタンプ・ブック」に貼り、
990マルク分の証紙がたまったら手渡される…というものだった。
■■第7章:第二次世界大戦の勃発 ─ 軍用ワーゲンの生産
●しかし、翌1939年9月、戦争に突入──。
(左)1939年9月1日、国会でポーランドへの侵攻を告げるヒトラー
(右)ポーランドの首都ワルシャワへ侵攻するナチス・ドイツ軍
※ これで第二次世界大戦の幕が切って落とされた
●「フォルクスワーゲン工場」では、当初の予定を変更して「KdFワーゲン」をベースとした「小型軍用車」(キューベルワーゲンやシュビムワーゲン)が製造されることになった。
フォルクスワーゲン用に開発された「空冷式エンジン」は、ラジエターと水のいらないことから、酷寒のロシア戦線や灼熱のアフリカ戦線でもその威力を発揮した。
※ 戦争中に生産された台数は、水陸両用含めて約7万台にものぼった。
(左)キューベルワーゲン(タイプ82)=直訳すると
「バケツの車」でポルシェ博士が設計した (右)1/16スケールモデル
空冷式エンジンは酷暑にも厳寒にも強く、兵士たちから信頼された
(左)シュビムワーゲン(タイプ166)=直訳すると「泳ぐ車(Swim car)」(右)1/35スケールモデル
これはポルシェ博士が設計した水陸両用のワーゲンで、車体後部に
3枚翼のスクリュー(着脱式)を備えており、時速10キロで水上走行が可能
というユニークな車両だった。1945年までに約1万5000台が生産された。
※ 第二次世界大戦の勃発とともに、国民に手渡されるべき「国民車」の生産は
中止となり、「国民車」をベースにした「小型軍用車」の生産が開始された。
小型軍用車となった「KdFワーゲン」の中で、最も一般的なモデルが
「キューベルワーゲン」で1945年までに約5万台生産された。
●なお、この時期、車の他にVW汎用エンジンも開発され、様々な産業用エンジンとして利用された。また、KdFセダンやセダン・ベースの4WD車(タイプ87)などが少数生産されていた。
(左)オフロード仕様の軍用ワーゲン(タイプ82E)(右)1/48スケールモデル
この車両はノーマルよりも75ミリ高い最低地上高や、タフな空冷式エンジン
などにより優れた路外走破性を発揮。ドイツ軍や政府機関などで「スタッフ・カー」
として使われ、1941年から1945年までの間に約500台が生産された。
この車両の運転席(右側にフォルクスワーゲンのマークが見える)
軍用ワーゲンの4WD車(タイプ87)
●いちおう戦争中、「フォルクスワーゲン工場」ではノーマルタイプの「KdFワーゲン」(タイプ60)が生産されてはいた。しかし、1940年から1944年までの間にわずか630台生産されたにすぎず、しかもこの車はナチスの党幹部たちがこぞって愛用したのである。
※ 結局のところ、ナチス時代の庶民たちは「国民車」を一台たりとも入手することはできなかったのである……。
「KdFワーゲン」の初期型量産モデル(タイプ60)
※ この「国民車」はナチス政権下のドイツ国民の手には渡らなかった
■■第8章:独裁者と自動車レース ─ ドイツの「シルバー軍団」の大活躍
●さて、この章では少し脱線して、ポルシェ博士とヒトラーが深く関与した戦前の自動車レースについて紹介しておきたい。
※ かなり長いので、自動車レースに興味のない方は読み飛ばしても構いません…m(_ _)m
「アルファ・ロメオ社」のエンブレム
「アルファ・ロメオ社」は、20世紀初頭に創業した
イタリアの高級老舗自動車メーカーで、社名はイタリア語の
「Anonima Lombarda Fabbrica Automobili」(ロンバルダ自動車
製造株式会社)の頭文字の「ALFA」と、1918年にこの会社を
買収した技術者ニコラ・ロメオの名前を組み合わせたものである。
●イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニは早くから自動車レースの宣伝のための重要性に注目し、1927年には、北イタリアのブレシアを起点に、イタリア半島の北半分を舞台にした「ミッレ・ミリア(千マイル)レース」を企画した。
さらにイタリアのレーシング活動の主役を務めていた「アルファ・ロメオ社」に国からの援助を与え(1930年)、1933年には完全に国営化した。名門「アルファ・ロメオ」は、モーターレースの檜舞台で、イタリアそのものとなった。
ムッソリーニは「イタリアのためにレースに勝て!」という激励のための電報を、チーム監督のエンツォ・フェラーリにたびたび打ったほどだった。
イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニ
(左)「アルファ・ロメオ社」のレーシングマシーン
(右)イタリアのモデナ市出身のエンツォ・フェラーリ
(晩年のフェラーリは黒いサングラスがトレードマークだった)
「フェラーリ社」の生みの親エンツォ・フェラーリは、20代の初めに
名門「アルファ・ロメオ」に所属し、レーシング・ドライバーとして活躍。
1924年には、「アルファ・ロメオ」の国際グランプリ・ドライバーにまで
登りつめた。1929年(31歳の時)に、自らのレーシング・チームである
「スクーデリア・フェラーリ」を結成することに成功。「アルファ・ロメオ」
との提携を実現させて、セミワークス・チームとしての地位を確立した。
彼はチームを監督して、数々のレースで好成績を収め、1930年代
半ばまで「アルファ・ロメオ」の黄金時代を築き上げたのである。
1947年には自分の自動車会社「フェラーリ社」を創業した。
後年、彼は自分の名を冠した車で「アルファ・ロメオ」
に勝利した際、「私は自分の母を殺してしまった」
という複雑な心境を周囲に漏らしたという。
●タツィオ・ヌヴォラーリ、アキレ・ヴァルツィ、ルイジ・ファジオーリといった名手をそろえたイタリアの「アルファ・ロメオ」チームは、少なくとも1930年代半ばまでヨーロッパのレース場を制覇し、ファシスト・イタリアの“国威発揚”に大いに貢献していた。
アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)
1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、
翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した
●「自動車マニア」で、もともと速い車が大好きなアドルフ・ヒトラーは、モーターレースにおけるイタリア勢の優位を羨(うらや)んでいた。
1933年にドイツの政権をとったヒトラーは、1934年から始まった750kgフォーミュラ(車体重量の上限が750kg)による世界最高峰のGPレースに注目。
ヒトラーは「ダイムラー・ベンツ社」と「アウトウニオン社」(現アウディの前身)に対して、新規にレーシングマシンを製作するよう打診し、ドイツの技術をフルに使った「世界最強・最速のレーシングマシン」を作るよう命令した。
※ ちなみに、現代の世界最高峰の「F1グランプリ」は、第二次世界大戦終結後の1950年にイギリスで初めて開催された自動車レースである、念のため。
1929年、リュッセルスハイムで撮影された
ドイツの「オペル社」の買収契約調印式の記念写真
(左から6人目が「GM」のアルフレッド・スローン社長)
※ 1929年、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、
「世界大恐慌」が始まった。この「世界大恐慌」による被害が
最も大きかったのはドイツだった。第一次世界大戦に敗れて以来、
アメリカの経済力に負うところの大きかったドイツ経済は、根底から
覆され、社会不安が増大。ストライキや暴動が各地で繰り広げられた。
自動車市場の状況は大変厳しいものとなり、弱小企業の淘汰が進行した。
ドイツ自動車市場には、アメリカの大手自動車メーカーが大挙して進出し、
既存の国内メーカーを脅かし始めた。ドイツ最大の自動車メーカーだった
「オペル社」は、1929年にアメリカの「GM」に買収されてしまった。
またこの時期、アメリカの「フォード社」はドイツ西部のケルンに
「ドイツ・フォード」の大規模な工場を開設していた。
「アメリカ資本」の猛威からドイツの「民族系資本」を守るために、「アウディ」「DKW」「ホルヒ」
「ヴァンダラー」の4社が大同団結して、1932年に「アウトウニオン(自動車連合)」を形成した。
(その結果「アウトウニオン社」は「オペル社」に次いで当時ドイツ第2位の自動車メーカーとなる)。
そして1933年に、ヒトラーが政権を獲得すると、ドイツの自動車工業は国家に保護される
事となり、突如として「モータースポーツ」までもが奨励される事になったのである。
「アウトウニオン社」のエンブレム
上の4社の協力体制を象徴する4つの輪は、
「フォー・シルバー・リングス」と呼ばれている。
(ちなみに社名は1985年に「アウディ」に変更され、
1964年以降は「VW社」の傘下に入っている)。
●「ダイムラー・ベンツ社」はM25型エンジンを搭載した「W25」、
「アウトウニオン社」はポルシェ博士が設計した「Pワーゲン」(ポルシェ「タイプ22」)を開発。
ともにレーシングマシンとしては史上初の全輪独立懸架で、機構の面でも性能の面でもライバルの「アルファ・ロメオ」を凌駕し、当時のGPマシンの最高峰と見られていた。
※ ヒトラーは「ダイムラー・ベンツ社」と「アウトウニオン社」2社のうち、より優れたマシンを開発したほうに多額の報奨金を約束したが、結局それは2社で仲良く分け合った。
「ベンツ社」は1886年に創業した
世界最古の自動車メーカーの1つである。
ベンツ車のボディに燦然と輝くエンブレムは、合併前の
「ダイムラー社」が使用していた「スリー・ポインテッド・スター」
と「ベンツ社」の円形「月桂冠」を組み合わせてデザインされたもので、
星が指し示す3ヶ所は、「陸」「海」「空」を示し、「ダイムラー・ベンツ社」
(1926年に合併)が「陸・海・空」の頂点に立つという願いが込められている。
ちなみに「メルセデス」という名称は「ダイムラー・ベンツ社」のブランド名である。
※ もっと詳しく説明すると「メルセデス」という名は「ダイムラー社」の車を売っていた
ユダヤ系大富豪のエミール・イエリネックが、レース出場時に本名を隠して用いた名であり、
彼の愛娘の名前だったのである。その後イエリネックは「ダイムラー社」の取締役に迎えられ、
「メルセデス」の名前は「ダイムラー社」の製造する全ての自動車に使用されることとなった。
そして1902年に、「メルセデス」という名称は「ダイムラー社」の自動車ブランドとして
「ドイツ特許庁」に正式登録され、現在も世界的に使用され続けているというわけである。
(なお「メルセデス」の名の付いた車は、日本では「ベンツ」と呼ばれることが多いが、
欧米では一般に「メルセデス」「メルセデス・ベンツ」と呼ばれることが多い)。
左は「ベンツ社」の創業者カール・ベンツで、中央は「ダイムラー社」の創業者
ゴットリープ・ダイムラー。「ベンツ社」と「ダイムラー社」は1926年に合併し
「ダイムラー・ベンツ社」が誕生した。右の若い女性はメルセデス・イエリネックで、
「メルセデス」というブランド名の由来となった人物(ウィーン生まれ)である。
(ちなみにこのメルセデス嬢は、裕福な環境で育ったが「男運」には恵まれず、
二度の離婚を経験した後、結核にかかって39歳の若さで亡くなった)。
※ 余談だが、彼女の父親は大変な金持ちで、無類の自動車好きだった。彼は
その巨大な資本力と領事というコネを活かしてダイムラーを支援した。しかし
彼女は父親とは異なり、自動車への関心は全く無かったという。ちなみに
彼女の父親はユダヤ系ドイツ人の家庭で生まれ育ったユダヤ教徒で、
彼女の母親はアルジェリア系フランス人のキリスト教徒だった。
(左)メルセデス嬢の父親エミール・イエリネック(ユダヤ人)
(右)「ダイムラー・ベンツ社」のレーシングマシン「W25」
「ダイムラー社」のビジネス・パートナーだった大富豪エミール・
イエリネックは「ダイムラー」という硬い響きを持つブランド名を
嫌がり、自分の愛娘の名前「メルセデス」を新しいブランド名
にすることに成功した。この時、彼はこう述べたという。
「好きになってもらい愛してもらうには、車の名は
女性の名前でなければならないのだ」
●ところで「ダイムラー・ベンツ社」は、1930年代初頭から「軍需企業」として戦車やトラックを生産し、戦闘機や潜水艦のエンジンの開発も手掛け、第二次世界大戦中は「軍の機械化」の中心的企業として活動した。
この時代の「ダイムラー・ベンツ社」とナチスの関係については、京都大学の西牟田祐二教授の著書『ナチズムとドイツ自動車工業』(有斐閣)が詳しい。
この本によれば、「ダイムラー・ベンツ社」はナチスに深く関与し、取締役にナチ党員を採用したり、社長がナチ党に入党したり、ユダヤ人経営者を追放するなど「自己ナチ化」していったという。また、ナチ党幹部に大型車を提供し、ナチ党の選挙運動を助け、ナチ党機関紙に継続的に広告を載せたりしていたという。(従業員として戦争捕虜や収容所のユダヤ人も投入されていたという……)。
この知られざるナチス政権下の「ダイムラー・ベンツ社」に興味のある方は一読を。
─ 京都大学経済学叢書 ─
↑「ナチズムの遺産」として常に言及される
「アウトバーン」と「フォルクスワーゲン」。これら
と密接に関係するドイツ自動車工業を考察の中心に据えて、
ナチズムの体制およびナチス経済について論述した文献である。
●さて話を戻すが、1934年以降、GPレースにおけるドイツ製レーシングマシンの活躍は、事実上国策に基づいたものであった(当時45万マルクもの国家的援助のもとに、レーシングマシンの開発が進められたのである)。
ドイツ製レーシングマシンは年ごとに改良され、1936年には、「ダイムラー・ベンツ社」の「W25」は4740cc(494馬力)、「アウトウニオン社」の「Pワーゲン」は6010cc(520馬力)と、いずれも「アルファ・ロメオ」の3160cc(265馬力)を大幅に上回り、
イタリア勢はドイツ勢と対等に戦うことは難しくなった。
「ダイムラー・ベンツ社」のレーシングマシン「W125」
●1937年に登場した「ダイムラー・ベンツ社」のレーシングマシン「W125」は、600馬力を超えるエンジンを持ち、最高速度は現代のF1と遜色ない時速340キロ以上に達していた。
※ この「W125」は、ターボ・マシン登場以前の1970年代後半まで史上最強・最速のレーシングマシンとしての栄誉を保ち続けることになる。
↑戦前のグランプリ界にセンセーションを巻き起こした「Pワーゲン」(タイプ22)
ポルシェ博士が設計したレーシングマシンで、「Pワーゲン」のPはポルシェ博士の
頭文字からきている。スーパーチャージされた「V型16気筒エンジン」をドライバーの
後ろに搭載する先進のボディレイアウトをもっていた。このポルシェ博士が手がけた
「V型16気筒エンジン」は当時の技術の粋を集めた驚くべきエンジンだった。
この「Pワーゲン」に盛られた多くの独創的なデザインは、以後のポルシェ
博士自身の車の設計だけでなく、世界中の自動車設計者に多大な影響を与えた。
※ 驚くべきことに、このレーシングマシンは、現代のF1マシンが持つ基本
レイアウトを、既に1930年代の半ばに確立していたのである。
●1938年にポルシェ博士は「Pワーゲン」の開発とそれまでの功績によって「ドイツ芸術科学国家賞」を受賞、同時に名誉教授の称号が贈られた。
(左)ヒトラーがノーベル賞に対抗するために
1937年に創設した「ドイツ芸術科学国家賞」のペンダント
(右)翌年の1938年、ヒトラーは軍需産業界を代表する技術者たちを
ベルリンの総統官邸に招待してペンダントを授与した。左から、エルンスト・
ハインケル博士、ウィリー・メッサーシュミッ卜博士、フェルディナント・
ポルシェ博士、フリッツ・トー卜将軍(後の初代軍需大臣)。
●このミッドシップ・エンジン方式を採用した画期的なレーシングマシンである「Pワーゲン」は、ハンス・シュトゥックとベルント・ローゼマイヤーによって、64レース中32レースを制覇、世界記録を樹立した。
この「Pワーゲン」の素晴らしさについて、ポルシェ博士の息子フェリー・ポルシェは次のように語っている。
「我々の努力の結果、何年間も他の追随を許さないほど実に画期的な、しかも時代を先取りした、斬新な自動車が誕生することになった。この車には独創的なアイデアが随所に見られたが、なんといっても、その圧巻はこれまでの“伝統”を根本的に打破したレース専用車だったことだ。
16気筒のスーパーチャージャー付きエンジン。ユニークな方式でバルブが作動する機構。トーションバー・サスペンション。その他多くの特徴ゆえに、多数の著者がいろいろな角度から研究したにもかかわらず、今なおこの車は名車としての話題がつきない。
一口でその名車ぶりを紹介するならば、ボディを小型に簡潔にまとめ、全体のシルエットを見事な流線型にし、巨大なパワーを産出するエンジンを搭載しているということになろうか。当時としてはもちろん、未曾有の車種だったし、それ以後も何十年にわたって他の追従を許さなかった」
ポルシェ博士と息子のフェリー
※ 博士の息子も優秀な技術者だった(後述)
●「アルファ・ロメオ」はイタリアのメンツを保とうと、マシンの改良に努めたが、どう工夫をこらしても360馬力ぐらいしか絞り出せず、最高時速300キロを超えるドイツ勢のパワーの前に屈するほかなかった。
ドイツ製レーシングマシンのボディシェルは、航空機並みの高品質アルミニウムで作られ、銀色に輝くベンツのマシンは「シルバー・アロー」、同じく銀色に輝くアウトウニオンのマシンは「シルバー・フィッシュ」と呼ばれて恐れられた。
※ このドイツの「シルバー軍団」の活躍により、当時のドイツのナショナルカラーは銀色に変更された(それ以前のナショナルカラーは白色だった)。
あまりの強さに、ドイツ勢の敵は、ドイツ勢しかいなくなってしまった…
※ 圧倒的なパフォーマンスで、GPレースを制圧しようとするドイツの「シルバー軍団」に、
イタリアの期待を一身に担い立ち向かうべく、イタリアン・レッドのニュー・マシン開発に専念する
「アルファ・ロメオ」とエンツォ・フェラーリ率いる「スクーデリア・フェラーリ」だったが、開発は難航。
レースでは上位入賞も難しくなり、様々な対立から両者の関係は悪化、「アルファ・ロメオ」はレース活動の
運営を本社へ移行する事を決定してしまう。1938年には、「アルファ・ロメオ」はレース活動を行う新会社
「アルファ・コルセ」の設立に踏みきり、「スクーデリア・フェラーリ」は解散へ追い込まれてしまったのである。
エンツォ・フェラーリはその新会社のマネージャーに任命され、かろうじて面目を保ったが、両者に深い溝が残った
のは事実で、短期間のうちに解雇されてしまうのだった。これはモータースポーツ界にとって大きな事件だったが、
世界を飲み込もうとしていた巨大な波の前には、些細な事件でしかなかった。1939年9月にヒトラー率いる
ドイツ軍はポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのである。(ちなみに、エンツォ・フェラーリが
自分の自動車会社「フェラーリ社」を創業するのは戦後間もない1947年になってからである)。
●しかし、ヨーロッパのレース場を制覇したドイツの「シルバー軍団」の活躍は、1939年9月の大戦の勃発とともにほぼ完全に停止した。
※ 結局、ヒトラー自身は、一度もレース場に姿を見せたことはなかったが、1937年7月26日に、一度だけその年のドイツGPの勝者をバイロイトに招いたことがあったという。
◆
●なお1938年、ポルシェ博士は「KdFワーゲン」をもとに小型レーシング・クーペを開発した。「タイプ64」(別名「ベルリンローマ速度記録車」)である。
「ドイツ労働戦線(DAF)」の発注によるもので、ベルリン~ローマ間の長距離ラリーに参加し、「KdFワーゲン」の高性能を大いにPRする意図であった。が、ラリーは戦争のため中止されてしまった。
※ 結局、日の目を見ることのなかったこの「タイプ64」は、ポルシェ博士の日常の足として大戦中を通じて使用され、その膨大な走行実績から得られた各種のデータは、後のポルシェ356の開発の際に活用された。
「KdFワーゲン」をベースとした「タイプ64」
ベルリン~ローマ間(1300km)を走破するラリー用に製作された
小型レーシング・クーペで、ボディはアルミ製だった。チューンアップされた
「KdFワーゲン」のエンジンを搭載し、当時の1.1リッター車としては驚異的な
時速140キロをマークしたという(この「タイプ64」は合計3台製作された)。
ちなみにポルシェ博士はこのスポーツカーを「KdFワーゲン」(タイプ60)を
ベースとした10番目の試作ボディ(K10)と書類申請し、ヒトラーから
製作許可と開発資金を得ている。そのため「タイプ64」は書類上の
名称である「タイプ60K10」と呼ばれることもある。
●同じく戦争のため中止されてしまったプロジェクトに、ポルシェ博士が「ダイムラー・ベンツ社」のために設計した巨大な6輪車があった。
このモンスターマシンの使用目的は、地上最高速度の世界新記録樹立を狙ったものであった。
※ 残念ながらこのモンスターマシンは、第二次世界大戦の激化により、一度もテストが行われないままお蔵入りとなってしまった。
「ダイムラー・ベンツ社」のためにポルシェ博士が設計した世界最高速度記録車「T80」
※ このモンスターマシンは44リッター(3000馬力)の航空機用エンジンを搭載し、
全部で6個の車輪が付いており、時速700キロのトップスピードが出るように設計
されていた。しかし、第二次世界大戦のために開発は中止されてしまった…。
■■第9章:知られざるポルシェ博士の戦車開発計画
●戦争中のポルシェ博士は、もはやワーゲンの設計者というにとどまらなかった。戦車製造の指導者としてヒトラーを喜ばせたりする。
(左)ポルシェ博士 (右)シュツットガルトの「ポルシェ設計事務所」
戦時中、ポルシェ博士は軍需大臣直属の「戦車製造委員会」の
委員長に任命された。「ポルシェ設計事務所」は多忙をきわめ、
事務所からは各種兵器の設計図が続々と生まれていった。
(左)ポルシェ博士が開発したポルシェティーガー(設計ナンバー「タイプ101」)
(右)ドイツ軍の幹部とともに、試作戦車のテストに立ち会うポルシェ博士(中央の私服の人物)
開発中のポルシェティーガーとポルシェ博士(黒帽子の人物)
●この話の続きは非常に長くなってしまうのでバッサリ割愛します。m(_ _)m
ポルシェ博士が開発した戦車(ドイツ戦車)に興味のある方は、当館作成の
ファイル「ナチス・ドイツの戦車開発史〈後編〉」をご覧下さい。
■■第10章:戦後のフォルクスワーゲンの変貌と発展
●ドイツは戦いに敗れた。
幾度かの空襲でやられ、ほとんど廃墟と化した「KdFワーゲン市」に米英軍が進駐してきた。
協定の結果、「フォルクスワーゲン工場」のある地区はイギリス軍の占領地区となった。
再三にわたる空襲のために 「KdFワーゲン市」
(地図の赤印)は廃墟に近い状態にまで破壊された
●イギリスのアイヴァン・ハースト陸軍少佐が、工場再開の任をおびて占領中の工場管理にあたることになり、彼は半ば無秩序状態にあった工場を平静に立て直し始めた。
イギリス軍政府によって市議会が召集され、町の恒久的な名前を、近くにある城の名前にちなんで「ヴォルフスブルク」と決定した。
●また、「フォルクスワーゲン(国民車)」の車名は、ヒトラーが命名した「KdF」から「タイプ1(Type-1)」に変更され、小規模ながら生産が開始された。
イギリスのアイヴァン・ハースト陸軍少佐
※ 彼自身はフォルクスワーゲンの性能を高く評価していたが…
●しばらくしてから、イギリス本国の自動車専門家の一団が「フォルクスワーゲン工場」にやってきた。
何日もかかって、この一団はフォルクスワーゲンを乗り回し、あらゆる角度からつぶさに点検した。
そして次のような結論を下した。
「この車には、技術的にも工業的にもイギリスの専門家が驚くべき点はなにもない。第一に、ボディのスタイルはむしろ醜く、世界のモーターファンの前に出したら、1、2年で飽きられてしまうだろう。
リア・エンジンも空冷方式も、むしろ騒音を立てるだけでマイナスである」
●このように、イギリス本国はフォルクスワーゲンの将来性をあまり評価していなかったのである。
そのため、フォルクスワーゲンはイギリスに吸収されずに済んだのだが、もしイギリスに吸収されていたら、フォルクスワーゲンの戦後の道は、大きく変わっていただろう。
●敗戦から3年後の1948年、工場の管理運営はイギリス軍からドイツ人の手に戻され、ハインリッヒ・ノルトホフ博士が最高責任者として迎えられた。
彼はもともと「オペル社」の取締役だった。そして「オペルの側」からポルシェ博士のフォルクスワーゲンに激しい対抗意識を持っていた。
その彼にイギリス軍が(皮肉な話だが)「フォルクスワーゲン工場」の再建を命じたのである……。
※ このノルトホフ博士はオペル幹部だった時代、試作段階だったフォルクスワーゲンの「軽合金製OHVエンジン」を見た際に、大衆車にしては贅沢すぎるとし「これは航空機用エンジンだ」とポルシェ博士を厳しく批判していたことで知られている。
元オペル幹部のハインリッヒ・ノルトホフ博士
1899年、ドイツのヒルデスハイムに生まれる。
戦前は「BMW」で航空機用エンジンの設計に携わり、
さらに「オペル社」とアメリカの「GM」で生産管理や販売
に携わり、その能力の高さはすでに知られていた人物であった。
ドイツの敗戦後に「フォルクスワーゲン(VW)社」の社長に就任。
●ノルトホフ博士が社長に就任した時、イギリス占領軍の一部の技師と、復帰した元工員たちによって、ほそぼそと生産活動を続けていた「フォルクスワーゲン工場」には、山積みの問題があり、工場すらまだ骨組みだけの部分が多かった。
そこでノルトホフ社長はまず、フォルクスワーゲンを念入りに点検してみた。
(この時彼は、この車がただものではないことに気がついたという)。
次に彼は技術者に命じて、フォルクスワーゲンを徹底的に分解させ、2800種におよぶ部品を1つ1つ検査にかけた。すり減った部品は取り替え、改良し、そして再び組み立てると、その車で猛烈なロード・テストを行った。
その結果、彼はだまって天才ポルシェ博士の設計した車に頭を下げたのだった……。
↑フォルクスワーゲン(タイプ1)の透視図
※ 基本的な構造(空冷リア・エンジン方式)と
滑らかな流線型ボディは後々のモデルまで変わらない
●ノルトホフ社長はまた、常に生産ラインや現場に出向き、現場の様子を知ることで改善すべき点を見つけ出し、生産効率を上げる方法を様々な角度から研究し尽くしたのだった。
さらに彼は、早くから「輸出志向」を持っており、輸出によって得た利益を新しい生産設備の導入に充てるなど、積極的な復興政策を推進させ、「VW社」が大きく発展するための決定的なカギを握っていた。
(左)新生フォルクスワーゲン工場 (右)海外に輸出されるフォルクスワーゲン
※ 1946年3月には1000台目の、そして同年10月には1万台目の
ワーゲンが完成した。翌1947年には、56台のワーゲンが初めて海外に
輸出された。オランダに始まった輸出は、デンマーク、ルクセンブルク、
ベルギー、スウェーデン、そしてスイスにまで及び、1948年の輸出
台数は4464台を数えた。この数字は、1948年の生産台数の
23%に相当し、この年のワーゲンの年間生産台数は
ドイツ製乗用車生産の64%を占めるに至った。
●1949年に2台のフォルクスワーゲンがアメリカに輸出された。
ヒトラーの恐怖が記憶の底に生々しい人々の目に、この「ドイツの車」は幾分の嫌悪を持って迎えられた。
ヘンリー・フォード2世をはじめとするデトロイトのボスたちにしても同じだった。
かつて、占領中にヴォルフスブルクにやってきたイギリスの専門家たちのように、保守的な頭の持ち主だった彼らもまた、フォルクスワーゲンの進歩性・合理性を理解できず、「およそ問題にもならぬ車だ」と、一蹴した。
戦後、デトロイトのトップに君臨したヘンリー・フォード2世
※ 自動車王フォード(フォード1世)は1947年に亡くなる前に
最年長の孫であるフォード2世を「フォード社」の社長に据えていた。
※ このフォード2世は、戦後の「ドイツ賠償査定委員会」の一員であり、
連合軍管理下にあった「VW社」の命運を握っていた。その彼が検討会議で
「フォルクスワーゲンは一文の価値もない(無価値だ)」と結論づけたことにより
「VW社」は賠償の対象から除外され、ドイツ国民の手に戻されたのだった。
(この結果、イギリスとデトロイトのメーカーは、自国も含め、後年の
国際的な小型車市場においてその失策の対価を払う羽目になる)。
●ちなみに、デトロイトは米国ミシガン州にある都市で、1903年にヘンリー・フォードが自動車工場を建設したことから発展した「モーターシティ」である。
後に「GM(ゼネラル・モーターズ)」、「クライスラー社」が誕生し、「フォード社」と共にビッグ3と呼ばれた。全盛期には180万の人口を数え、その半数が自動車産業に関わっていた。
「VW社」のノルトホフ社長は、最初からフォルクスワーゲンを、
アメリカで成功させようと考えていた。彼はフォルクスワーゲンを
アメリカに輸出すると同時に、まず一銭にもならない「サービス網」を
全土に張りめぐらし、本社で訓練を受けた技術者を派遣した。
フォルクスワーゲンのオーナーたちは、どこへ行っても
そのサービスを受けることができ、どんな小さな
部品をも即座に取り替えることができた。
●1950年、157台のフォルクスワーゲンが、アメリカで売れた。
1951年、390台が売れた。1952年、601台、1953年、980台、1954年には一挙に6343台のフォルクスワーゲンがアメリカで売れた。
●1955年には急カーブを描いて、2万8907台となり、1956年には、実に5万457台のフォルクスワーゲンが売れたのである。
1955年8月5日、フォルクスワーゲンの累計生産台数が100万台突破した
※ 西ドイツ政府はホイス大統領の名でノルトホフ社長に「星十字大勲章」を贈った。
またヴォルフスブルク市は、市会の決議で社長を同市の“名誉市民”に推薦した。
●1949年から1958年の10年間に、23万1678人のアメリカ人がフォルクスワーゲンを争って買ったことになる。殺到する注文に、アメリカ・フォルクスワーゲン会社は悲鳴をあげた。
各地のディーラーから送られてきた購入希望者のリストによって、配給の順序を決めていくのだが、だいたい1年先の申込者まで順番が決まっているようなありさまであった。
戦後、世界中で販売され驚異的な人気を誇った
フォルクスワーゲン(タイプ1)=VWビートル
累計生産台数が100万台を突破したのは1955年で、
1967年には1000万台を突破、1972年にはアメリカの
「T型フォード」が持っていた世界記録=1500万7033台を
突破した。1992年には累計生産台数が2100万台を超えた。
1972年にドイツの工場で1500万7034台目のビートルが生産
されて、「T型フォード」が持っていた世界記録を抜き、喜ぶ従業員たち。
(右の男性従業員が手に持っているのは「T型フォード」の模型である)。
※ ちなみに「T型フォード」は、1908年にアメリカで発売され、
以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま生産され、
その廉価さからアメリカをはじめとする世界各国に広く普及した
自動車である(一時期、アメリカで生産される自動車台数の
半分以上が「T型フォード」だったといわれている)。
●ある自動車評論家はこう述べている。
「驚くべきことに、アメリカへの輸出が始まった1949年から1958年の10年間、フォルクスワーゲンはアメリカで一行の広告もしていないのである。日本の現状とだけ比較しても、これがかなり“異常”であることがおわかりであろう。まして広告の王国アメリカにおいて、一片の広告もせず、これだけの『熱狂』をつくりだしたカブトムシは、妖怪そのものである。
『あの車はすごいぞ!』という噂がどんどん広がり、人から人への『クチコミ』だけで、なじみの薄いフォルクスワーゲンは地道に浸透していったのである。〈中略〉
10年の沈黙であった。1959年後半になって、フォルクスワーゲンの広告の第一弾が米誌『ライフ』に出るまで、ノルトホフ社長は、どんな新聞にも雑誌にも広告しなかったのである。『カブトムシ』(=ビートル)というニックネームは、最初は嘲笑のタネにつかわれ、次第に『親愛』の情をこめた言葉に変わっていったのである」
「VW社」のノルトホフ社長と従業員たち
※「VW社」は西ドイツ政府の国営であったが、1960年
に民営化され、株式の60%が一般公開となった
●1960年10月24日号のアメリカの雑誌はこう書いている。
「フォルクスワーゲンは世界中どこへ行っても見られる車となってしまった。大都会の大通りだけでなく、小国の小路にもフォルクスワーゲンの姿が見られる。その売り上げを追い越しているのは、フォードとシボレーだけである。
フォルクスワーゲンのデザインを見て、デトロイトの巨人たちはその信念を変えなければならなかった。
アメリカの自動車メーカーたちは、海外からやってきたこの小さいカブトムシに多年、軽蔑(けいべつ)の念を抱いていたが、しかし、このカブトムシを打ち負かすことのできる小型で経済的な車を製造せざるをえなくなった。彼らの作り出した“アメリカのコンパクト・カー”は、アメリカのハイウェイに侵入してくる欧州車の一部を食い止めえたが、フォルクスワーゲンだけはダメだった。
この車は1年たった中古車でさえ、新車同様な価格でヤミ商人の手から買われている。」
●フォルクスワーゲンはアメリカを征したが、同時に世界を征しつつあった。
1962年に輸出の第一等国となった西ドイツは、2位のイギリスに40万台の大差をつけてトップに立った。西ドイツが輸出のトップに立ったのは、いうまでもなくフォルクスワーゲンの活躍に支えられてのものだった。
フォルクスワーゲン(タイプ1)の生産台数と輸出台数
|
||||
|
生産台数
|
累計生産台数
|
輸出台数
|
アメリカでの
登録台数 |
1945年
|
1,785
|
1,785
|
|
|
1946年
|
10,020
|
11,805
|
|
|
1947年
|
8,987
|
20,792
|
56
|
|
1948年
|
19,244
|
40,036
|
4,464
|
|
1949年
|
46,146
|
86,182
|
7,128
|
2
|
1950年
|
81,979
|
168,161
|
27,816
|
157
|
1951年
|
93,709
|
261,870
|
32,185
|
390
|
1952年
|
114,348
|
376,218
|
38,829
|
601
|
1953年
|
151,323
|
527,541
|
55,449
|
980
|
1954年
|
202,174
|
729,715
|
86,635
|
6,343
|
1955年
|
279,986
|
1,009,701
|
147,319
|
28,907
|
1956年
|
333,190
|
1,342,891
|
180,153
|
50,457
|
1957年
|
380,561
|
1,723,452
|
210,544
|
64,803
|
1958年
|
451,526
|
2,174,978
|
248,777
|
79,038
|
1959年
|
575,406
|
2,750,384
|
324,183
|
120,442
|
1960年
|
739,443
|
3,489,827
|
397,046
|
159,995
|
1961年
|
827,850
|
4,317,677
|
438,487
|
177,308
|
1962年
|
877,014
|
5,194,691
|
582,769
|
222,740
|
合計
|
5,194,691
|
|
2,781,840
|
1,047,811
|
●ある人はいう、
「数々の悪行を重ねたヒトラーも、ただ1つだけ善行をやった。それはフォルクスワーゲンを残したことだ。ドイツは敗戦でさんざん叩かれたところを、フォルクスワーゲンで復活したのだ……」と。
(左)VWタイプ1(ビートル)1967年型 (右)1960年代の
アメリカのヒッピー文化の象徴であったVWタイプ2(ワーゲンバス)
↓1968年当時の「フォルクスワーゲン(VW)社」のオールラインナップ
「タイプ1」(ビートル)をベースとした「タイプ2」(ワーゲンバス)は、1950年にVWファミリーに
加わり、「タイプ1」と共に「VW社」の基幹モデルとして成長を続けた。VW1500=「タイプ3」は
1961年に誕生した。「タイプ3」を発展させたVW411=「タイプ4」は1968年に誕生した。
しかし「タイプ3」と「タイプ4」は、いずれも「VW社」の“救世主”にはならなかった。そこで
「VW社」はビートルの「改良版」を市場へと送り出し、命脈をつなぐという措置に出た。
※ さすがに1970年代に入ると、ビートルの旧態化が隠せなくなった。そこで
1960年代に傘下に収めた「アウディ」や「NSU」などのノウハウを利用
して「空冷リア・エンジン」から「水冷エンジン」による前輪駆動
(FF)方式へと180度の転換を図ることになる。
●伝説的大衆車であるフォルクスワーゲン(タイプ1)=VWビートル──。
この車はVWゴルフをはじめとする1970年代の前輪駆動車(FF車)へのシフトで、本国ドイツのエムデン工場では1978年を最後に生産が終了したが、その後も南米ブラジルやメキシコ、ペルーで生産が続けられた。
↑VWビートルの後継車種として
1974年に発売された初代VWゴルフ
デザインはイタリアの工業デザイナーである
ジョルジェット・ジウジアーロが担当した。車名は
メキシコ湾に吹く風=ゴルフシュトロームを意味する
言葉から名付けられた。この自動車は“ビッグ・ヒット”
となり、以後、「VW社」の基幹モデルとして育っていく。
※ 生産開始から22ヶ月目にあたる1976年3月には、
累計生産台数50万台を記録。1976年末に100万台、
1978年に200万台の大台に達している。1979年
に年産66万台を記録し、「トヨタ社」の代表的大衆車
「カローラ」を抜いて量産車世界一の座についた。
●最後のVWビートルは、2003年7月にメキシコのプエブラ工場からラインオフされたが、VWビートルの累計生産台数は約2153万台に達し、四輪自動車における「世界最多の量産記録」を打ち立てている。
「1938年の発表以来、65年間にわたる製品寿命を保った四輪自動車は、歴史上、他に存在しない。半世紀以上も作られ続けてきたVWビートルは、ポルシェ博士による原設計がいかに優れていたかの証明に他ならない。おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないであろう」
と言われている。
■■第11章:「ポルシェ社」とポルシェ356誕生秘話
●ところで、ポルシェ博士は国民車や戦車の設計などでナチスに協力したために、戦後、戦犯に近い扱いを受けて、フランスの収容所に2年間幽閉された。
●既に70歳を超えていたポルシェ博士の健康は、獄中生活のために衰え、1947年8月に100万フランの保釈金を支払って、ようやく釈放されたときには、半ば病人の状態であったという……。
フェルディナント・ポルシェ博士
(1875~1951年)
博士はやや短気だったが、親しみやすく、
また誰でも気楽に話しかけられる、実に話好きの
人間だったという。また根っからの「技術屋」
で政治には全く興味を持たなかったという。
●その後、ポルシェ博士は息子のフェリーとともに「ポルシェ社」を創業(1948年)。
「ポルシェ設計事務所」は自動車専門メーカーに生まれ変わることになったのである。
※ もっと詳しく説明すると、第二次世界大戦後に誕生した「ポルシェ社」(正式名称は「Dr. Ing. h.c. F. Porsche AG」)は、戦前に設立されたデザイン・コンサルタント会社である「ポルシェ設計事務所」(正式名称は「Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH」)を母体にして誕生した後継会社なのである。
「ポルシェ社」のエンブレム
※ 1953年に生産された市販車から
このエンブレムが装着されるようになった
●それまでポルシェは他社の車両の開発を主業務としてきたが、自社で小型スポーツカーを生産することとなり、父親と同じく優秀な技術者だったフェリー・ポルシェが中心となって「タイプ356プロジェクト」と命名された小型スポーツカーの開発計画が進められた。
この開発計画自体は前の年の1947年6月からスタートしており、早いペースでプロトタイプ(試作車)が作られたが、当時のフェリー・ポルシェは情熱を込めてこう語っていたという↓
「私が理想とする小型で軽量、そして高性能なスポーツカーを探したが、どこにも見つからなかった。だから自分で作ろうと決めたのだ」
※ ちなみに「356」の名称はポルシェ社内の開発コード(設計ナンバー)から来たものである。
↑ベルリンローマ速度記録車(タイプ64)のメカニズムを参考にして
1948年6月に完成したポルシェ356の試作1号車(左端はポルシェ親子)
※ ミッドシップの2シーターで、実用性に欠けていたため市販化には至らなかった
(ポルシェの名を冠する初めての車であることから後に「ポルシェNo.1」と呼ばれる)
●ポルシェ356の初期の市販モデルは本拠地のシュツットガルトではなく戦時中の疎開先だったグミュント(オーストリアの小さな田舎町)で生産されたが、生産設備がまだ貧弱でほとんど手作りの状態だったため、わずか47台が送り出されただけに留まった。
しかし1950年に生産拠点がドイツのシュツットガルトに戻ると生産数は飛躍的に向上し、「ポルシェ社」は本格的な自動車専門メーカーとしてのスタートを切ることになった。
↑世界に先駆けて登場した小型スポーツカーで
ポルシェ初の市販車であるポルシェ356(初期モデル)
※ 今でも高い人気を誇っているポルシェ356(タイプ356)は
VWビートルの車体を基にして作られたスポーツカーで、ポルシェ博士の
息子であるフェリーが中心となって開発した。1950年にVWビートル用の
エンジンをモディファイしたRR駆動方式の市販モデルの本格的量産が始まり、
その卓越した性能でポルシェ自身の予想を超えるヒットとなり、発売直後から
早くもアメリカへの輸出も開始された。この356シリーズの成功で規模を
拡大した「ポルシェ社」は、1964年に「356」の後継車種となる
「911」を発売。ポルシェ356は1965年までの17年間に
わたって作り続けられ、総計約7万台生産された。
(左)ポルシェ博士の息子フェリー(本名はフェルディナント・アントン・
エルンスト・ポルシェ)は監査役会長、名誉会長などを歴任し、
80歳にいたるまで「ポルシェ社」のトップであり続けた。
(1989年に現役を引退して1998年に逝去した)。
(右)滑らかな流線型ボディをもつポルシェ356
●1949年9月、「ポルシェ社」のフェリー・ポルシェと「VW社」のノルトホフ社長の間で、きわめて重要な「契約」が取り交わされた。それは以下のような内容だった。
【1】「ポルシェ社」は今後「VW社」と競合する車種を、他のメーカーのために設計することができない。
【2】「VW社」は「ポルシェ社」の保有するパテントを自由に使うことができる。
その代わり、生産されたVW1台につき一定額のロイヤリティーを「ポルシェ社」に支払う。
【3】「ポルシェ社」は、VWのパーツを自由に利用してスポーツカーを製作できる。
また「VW社」のサービス網を「ポルシェ社」は利用できる。
●この契約によって、誕生間もない「ポルシェ社」が、安定した収入源とともに、ヨーロッパ全土に張りめぐらされたVWサービス網を得たことは、実に幸運であった。
※ この契約は25年間(1974年まで)効力をもった。
↑1948年夏に発行されたポルシェ356の最初のカタログ
ポルシェ356はフォルクスワーゲン(ビートル)と同じRR(リアエンジン・
リアドライブ)の駆動方式がとられ、コストダウンの観点や部品調達の容易さから、
エンジンやサスペンションなどの部品もフォルクスワーゲンの物をベースとしている
●1950年9月3日はポルシェ博士の75回目の誕生日であった。
シュツットガルトの自宅で盛大なパーティーが開かれ、たくさんのポルシェのオーナーたちが参集した。彼らは、自分たちだけがポルシェの作った自動車の良さを知っているという誇りを持ち、みんなすぐ仲良くなったという。
この日、「全ドイツ・スポーツカー委員会」の会長だったハンス・バーネッツも出席した。
(左)1950年に75歳の誕生日プレゼントとしてポルシェ博士に贈られた
特別仕様のポルシェ356クーペ (右)祝杯をあげるポルシェ博士
※ この黒い356は後に「フェルディナント」と名付けられて
現在もポルシェ・ミュージアムに大切に保管されている
ポルシェ博士の誕生日を祝って全欧から集まった
50台のポルシェ356とそのオーナーたち
●同じ年の10月、ポルシェ博士は因縁の国フランスの「パリ自動車ショー」に出かけた。
そのパリで「ル・マン24時間レース」の主催者チャールズ・ファローと面会した(彼は戦前からのポルシェ博士の友人だった)。彼はポルシェ博士にこう言った。
「あなたの名前のついた例のすごい奴、ポルシェ356を来年の『ル・マン24時間レース』に出してみないかね?」
この提案に対してポルシェ博士は笑って答えた。
「あのような苛酷な試練に耐えることができるかどうか、まだ自信がないんでね。でも、なんとか考えてみますよ……」
「ル・マン24時間レース」はフランス中部のル・マン
近郊で毎年6月(1年の内で最も昼の長い夏至の頃)に開催
される耐久レースで、F1のモナコグランプリとアメリカの
インディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれている
●消極的な反応を示すポルシェ博士に対して、チャールズ・ファローはここぞとばかり強調するのだった。
「それにだよ、すごい宣伝になるんじゃないかね。それだけでも試す価値があると思うがね!」
このときポルシェ博士はちょっと考え込んだようだったが、「よーし、やってみましょう!」と参戦を約束。
帰国後、息子のフェリーと一緒にレースの準備を始めた。
ポルシェ356とVWビートルの間に立つフェリー・ポルシェ
●翌11月、ポルシェ親子はフォルクスワーゲンの街、ヴォルフスブルクに旅した。
戦後、ノルトホフVW社長の努力によって復興を遂げつつあった「フォルクスワーゲン工場」と車の出来栄えを初めて見て、博士は大満足で帰路についた。
※ たくさんのフォルクスワーゲン(タイプ1)=VWビートルが走り回っているのを目の当たりにした時、驚きと感激の涙を流したといわれている。
フォルクスワーゲンの街「ヴォルフスブルク」
●しかし、シュツットガルトの自宅に帰り着いたあくる日の夜、突然激しい卒中の発作に襲われ、重体に陥ってしまった。半身付随の身は再び回復することはなく、ベッドに伏したままの生活となった。
「車だって部品を交換すれば故障は治る。なぜ医者はわしを治せないのだ!」
と老博士は悲しみを訴えたと伝えられている。その言葉の裏には「フランスでの獄中生活で受けた耐え難いほどの屈辱に対する精神的苦痛がうかがわれ、その苦しみが発作として現れた感じがする」と息子のフェリーは語っている。
●その年のクリスマスを家族と共に過ごしたポルシェ博士は、翌1951年1月、病状が悪化し、30日に帰らぬ人となった。
博士の遺体は300年も前に作られた古いチャペルの中に葬られた。
ポルシェ博士の胸像のそばに立つノルトホフVW社長
※ ポルシェ博士の葬式には多くの旧友や産業界の
知人たちが出席した。ノルトホフVW社長や
シュツットガルト都知事も出席した。
●ポルシェ博士が亡くなって5ヶ月後、フランスの「ル・マン24時間レース」で、初めて博士の名前を付けた自動車ポルシェ356SL(スーパーライトの意)が1100ccクラスで優勝を遂げた。
ゴールの瞬間、ポルシェ博士の息子フェリーは大粒の涙を流した。
「父がもう少し生きながらえていれば、我々のこの最初のイベントでの大成功を知りえたのにと思うと、無念の涙をどうすることもできなかった。父は必ず、『よくやったぞ!』と言ったはずだから」と、彼は述懐している。
1951年の「ル・マン24時間レース」にまだ試作車レベルだった「356SL」が
2台参戦して、フランス人のヴュイレ/ムーシュ組が1100ccクラスで初優勝を果たした。
このSLの名が付いた356は、わずか1086ccの水平対向4気筒で最高出力は46馬力にも
満たなかったが、優れた空力特性と軽量性能によって最高速度は時速160キロに達した。
●さて最後になるが、この自動車レースでポルシェは名声を確立し、以降「ル・マン」を何度も制することになる。
また、車名にポルシェの名を冠した初の市販車であり、現在の911シリーズのルーツであるポルシェ356は、その後、生産が終了する1965年まで細かい改良を重ねて進化しながら製造販売され、「最新のポルシェが最良のポルシェ」といわれる礎を築いたのだった。
↑ボンネットフード上の開閉ハンドルがエンブレム付きに変更
されたポルシェ356(右はエンブレム周辺を拡大した画像)
※ 先述したように1953年に生産された市販モデルから
ポルシェのエンブレムが装着されるようになった
─ 完 ─
■■おまけ情報:『ポルシェ博士とヒトラー』の紹介とポルシェ911誕生秘話
●ポルシェ博士とヒトラーの関係については、1988年に出版された『ポルシェ博士とヒトラー ~ハプスブルク家の遺産~』(グランプリ出版)という本の中で詳しく紹介されている。
この本の著者である折口透氏(自動車ジャーナリスト、『モーター・マガジン』元編集長)は、ヒトラーの「国民車計画」について次のように述べている。
参考までに紹介しておきたい。
「ヒトラーは20世紀の歴史の中で、ユニークな地位をしめる人物である。いや、世界史を通じてもヒトラーほど特異な存在はまたとないといってよい。
第一に彼は、自分の意志の力で(いわば独力で)ナチ党をつくり上げ、自分を独裁者の地位に押し上げた。例えばスターリンのように既存の政治組織を背景にすることはなく、自らの力だけでドイツの一党独裁をなしとげた。しかもそれは、ミュンヘン一揆後に刑務所から釈放されてわずか10年後のことであり、さらにその12年後には自らの生命を絶った。彼の決意と意志が、ナチス・ドイツの建設を可能にし、同時にそれがドイツを破滅の運命に押しやったのである。」
「ポルシェ博士が、ヒトラーの独裁者としての強大な権力を意識したかどうかは疑わしい。
人々はヒトラーをうやうやしく“マイン・フューラー”(総統閣下)と呼びかけた。だがポルシェ博士だけは、そのような配慮はどこ吹く風と、1925年に初めて紹介された時と同じく、“ヘル・ヒトラー”(ヒトラーさん)と話しかけた。それはおそらく最後まで変わらなかったらしい。
ヒトラーの怒りっぽい気性に手を焼いていた側近たちははらはらしていたが、ヒトラーはいっこうに気にかけなかった。自分自身“芸術家”を志した(そしてみじめに失敗した)ヒトラーは、そうした“ボヘミアン”の態度に寛容さを示すことができたのだろうし、第一ポルシェ博士が、政治的に全くの“無色透明”な人物であることをもよくわきまえていたからだろう。」
「ところで、『ヒトラーの遺産』という言葉がある。
冒険小説あたりの格好なテーマとしてとり上げられるこの遺産なるものの中にはかなり怪しげなものもあるが、2つだけはその名に値するものがある。それがアウトバーンとフォルクスワーゲンである。
ただし、アウトバーンの立案者はヒトラーではない(ドイツ皇太子フリードリッヒ・ヴィルヘルム、1904年)。ただヒトラーは、経済恐慌のため中止となっていたワイマール時代のアウトバーン計画を経済活動の活性化、失業救済と、さらには機械化兵団の急速な展開の目的のために(VWのヴォルフスブルク工場の建設をも行った)フリッツ・トート博士に命じて強力に推進させた(1933年)。
そして、『フォルクスワーゲン(国民車)計画』こそは、ヒトラーの最大にして、彼が最も気に入っていた国家的事業だった。
ヒトラー自身、自動車が大好きであったし、何よりも国民大衆に与える夢としての自動車は、独裁者にとって不可欠であった。ヒトラーはその計画の実現に、またとない適任者であるポルシェ博士を得ることができた。同じ旧オーストリア=ハンガリー帝国生まれのヒトラーとポルシェ博士が、この計画の立役者になったことは興味深い。
フォルクスワーゲンは、かつてヒトラーが予言したように、第二次世界大戦後のヨーロッパにおいて、陸上交通の主役の一つとなった。さらに戦後の大衆車は、VWにならった『リアエンジン・タイプ』を定石として採用した。フランスのルノー4CV(これは日本でも組み立てられた)、イタリアのフィアット600、そして日本のスバル360もその流れをくむものである。
ヒトラーが年間100万台の生産を予想したとき、周囲の人々は眉につばをつけたことだろうが、敗戦の11年後の1956年、フォルクスワーゲンは遂にそのレベルを突破した(109万台)。
フォルクスワーゲンは、西ドイツの経済の牽引車として“奇跡の経済復興”を実現させたのである。」
(左)ポルシェ博士の2人の子供(フェリーとルイーゼ)
(右)女性実業家として活躍したポルシェ博士の娘ルイーゼ
※ フェリーの5歳年上の姉ルイーゼは、ポルシェ博士のビジネス・
パートナーであった弁護士アントン・ピエヒと結婚し、4児をもうけた。
その内の次男は「VW社」会長を長年務めたフェルディナント・ピエヒ
である。彼女自身は自動車一族であるポルシェ家と、自身を介して
同家の女系傍流となったピエヒ家の事業に長く携わった。
●ちなみにポルシェ博士の息子フェリーは、実際に見たヒトラーの印象を自伝の中に書き記している。興味深い内容なので、ついでに紹介しておきたい↓
「ヒトラーは一旦、興味を持ち始めると、基本的にもまた、細部についても、彼の理解力は驚嘆に値するほど速かった。
ナチズムそのものは、私の考え方とは真っ向から対立するものだった。けれども、人間の行動という点から公平に言うならば、ヒトラーの“ビヘイビア”(ふるまい)は正確そのものといわざるを得ない。特に、父に対する態度でみるかぎり、そう認めざるを得ないような気がする。
金ピカのにわか将官の側近連中とは違ってヒトラーは決して傲慢な態度をとらなかった。側近の多くはホウロウ材質で表面を幾分似せていたようだが、頭脳の中身はまったく異質のもののようだった。
ヒトラーは、決して、愚問を発したり、的外れの質問をしない。まったく逆だ。勉強には苦労を厭(いと)わないのだった。
だから、一生懸命になって父のフォルクスワーゲンを理解しようと努力していた。技術的に細部にわたって多種多様な質問をしてくるのだった。その質問は全て的を射ていた。ヒトラーは、ある箇所を変更させるつもりだったらしいが、それにもかかわらずメジャー・チェンジを提案しなかった。確かに質問の内容から判断して、技術的に細部にわたって相当研究しているように見えた。
さらに驚くべき点は、彼の記憶力の良さだった。ヒトラーの記憶力は抜群だった。彼の記憶力の良さには父も驚いてしまったほどだ。」
(左)ポルシェ博士と息子のフェリー (右)孫と語り合うポルシェ博士(1949年)
※ 左の少年はフェリーの長男ブッツィー・ポルシェ(本名はフェルディナント・アレクサンダー・
ポルシェ)、右の少年はポルシェ博士の娘ルイーゼの次男フェルディナント・ピエヒである
(この2人の少年は後にポルシェ911の開発に大きく貢献することになる↓)
(左)ポルシェ911(1988年型)(右)1/24スケールモデル
※ ポルシェのフラグシップモデルである「911」はポルシェ
356の後継車種として1964年に発売された高級スポーツカーである。
当初は開発コードの「901」をそのまま車名にしていたが、既にこの数字を商標
登録していた「プジョー社」から抗議を受け、やむなく「911」と名乗るようになった。
※ 初代ポルシェ911のスタイリングはフェリーの長男ブッツィー・ポルシェが担当、
エンジンの開発主任はルイーゼの次男フェルディナント・ピエヒが担当した。
■■おまけ情報 2:ポルシェが開発した世界初の「ハイブリッドカー」
●1875年、オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミア地方の小さな村に生まれたポルシェ博士は、もともとは「電気自動車」に大きな関心を持っていた。
10代の頃は、当時としては最新の科学である電気工学に興味を持ち、独学で様々な実験を屋根裏部屋で行っていたのである。
それを知った父親は、初めは頑なな態度をとっていた。父親は金属細工の職人だったので、息子にも金属細工の仕事を継いで欲しいと考えていたからだ。
しかしその後、自宅の仕事場に当時としては珍しかった電灯を自ら取り付けてしまった息子を見て、その才能に驚いた父親は首都ウィーンに出ることを承諾するようになる。
オーストリア=ハンガリー帝国の国旗
オーストリア=ハンガリー帝国(1867~1918年)は
「ハプスブルク家」が統治した中東欧の多民族連邦国家である
(ボヘミア地方は、現在のチェコの西部・中央部を指す)
●首都ウィーンに出たポルシェ青年(当時18歳)は、電機会社の「デラ・ベッカー社」(現在の「ブラウン社」の前身)に入社した。ポルシェ青年は大学を出ていなかったが、持ち前の努力により、すぐに重要なポストを与えられた。
※ ポルシェ青年は夜間は「ウィーン工科大学」の聴講生として勉強を続けた。
オーストリア=ハンガリー
帝国の首都ウィーン
●数年後の1898年、彼の素晴らしい才能に目を留めた「ローナー社」のルートヴィヒ・ローナー社長は、ポルシェ青年を若き主任設計士として迎え入れた。
↑オーストリア=ハンガリー帝国の国章
※「ローナー社」は歴史の古い王室御用達の
馬車製造会社だったが、19世紀末にルートヴィヒ・
ローナー社長は「騒音と悪臭」が酷いガソリン・エンジン
を見限り、電気で静かに走る自動車を作ろうとしていた。
しかし困難の連続だったため、断念しかけていたところ、
偶然に出会ったのがポルシェ青年だった。社長はこの
青年の才能をすぐに見抜き、自社の自動車部門の
主任設計士として採用したのだった。
●「ローナー社」時代のポルシェ青年は、喜々として「電気自動車」の開発に没頭した。
ポルシェ青年が開発した「電気自動車」は、1900年の「パリ万博」に出品され、世界の注目を浴びた。この「電気自動車」は「ローナー・ポルシェ」と呼ばれ、「パリ万博」では見事グランプリを獲得したのである。
※ この電気自動車「ローナー・ポルシェ」は、一般顧客に300台以上売れたと言われている。
↑オーストリアのカロッツェリア「ローナー社」の若き主任設計士だった
フェルディナント・ポルシェ青年が開発した電気自動車「ローナー・ポルシェ」
※ 前輪のハブ内にモーターを組み込むなど斬新なアイデアを採用していた(右の画像)
(前輪のハブ・モーターは80ボルトの電池44個で駆動し、2.5馬力を出したという)
※ この電気自動車は1900年の「パリ万博」に出品されてセンセーションを起こした
●ちなみに1900年の秋、ポルシェ青年はこの「ローナー・ポルシェ」に乗って、ウィーン郊外のゼメリングのレースに初出場し、従来の電気自動車部門のベストタイムを大幅に破る新記録を打ち立てて、見事に優勝している。
※ この記録は平均時速40キロほどであるが、「電気自動車」としては1900年の時点では、極めてセンセーショナルな記録であったという。
◆
●「電気自動車」の開発で華々しい成功を収めたポルシェ青年は、その後、「電気自動車」の弱点である蓄電池の非力さや航続性能の弱さを補うため、エンジンで発電し、その電気でモーターを回して走る世界初のハイブリッドカーである「ミクステ」(混合の意)を開発した(1902年)。
この時、ポルシェ青年はまだ26歳だった。
以来、“天才エンジニア”として数々の自動車会社を渡り歩くことになる。
↑「ローナー社」時代のポルシェ青年が開発した世界初のハイブリッドカー「ミクステ」
※ 助手席に座っている人物(右の画像)が、若き日のポルシェ青年である
●フェルディナント・ポルシェは1917年に「ウィーン工科大学」から、1924年には「シュツットガルト工科大学」から、それぞれ「名誉博士号」を受けている。
叩き上げの技術者で大学を卒業していないポルシェが、「博士」の敬称で呼ばれるのは、純粋な業績によって受けたこれらの「名誉博士号」による。
(左)フェルディナント・ポルシェ
(右)彼が作ったフォルクスワーゲン
ポルシェ博士(1875~1951年)は
ナチス・ドイツの時代、ヒトラーの支援のもと、
理想の小型大衆車「フォルクスワーゲン」の開発を
実現させ、同時にミッドシップ方式を採用した画期的な
レーシングマシンである「Pワーゲン」の開発にも成功。
1900年代から30年代にかけて自動車史に残る傑作車を
多数生み出した(第二次大戦中は戦車の開発にも従事した)。
※ ボヘミア地方出身の自動車工学者であるポルシェ博士は
フォルクスワーゲンを手がける前は、優秀な技師として
多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの
混合動力車、「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、
「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。
※ 1931年に彼は「ポルシェ社」の前身である
「ポルシェ設計事務所」をシュツットガルトに
設立していた(設立年については
1930年という説もある)。
●ところで余談になるが、アメリカのアポロ計画の「月面車」は「ポルシェ社」が設計したらしい。(※ あくまでも「設計」であり、製造したのはアメリカの「ボーイング社」である、念のため)。
斉藤憐著『ポルシェ ~自動車を愛しすぎた男~』(ブロンズ新社)の「あとがき」には次のような文章がある。
今までの話と関連しているので、参考までに紹介しておきたい↓
(左)『ポルシェ ~自動車を愛しすぎた男~』斉藤憐著(ブロンズ新社)
(右)アポロ計画の「月面車」=乗員2名の4輪バッテリー駆動車
「ポルシェが初めて自動車を設計してから70年後、人類は初めて地球以外の大地に自動車を走らせました。1971年7月26日に打ち上げられたアポロ15号で月に行き、月の上の成分を集めた『月面車』です。
その『月面車』を設計するとき、アメリカの航空宇宙局(NASA)は、空気の無い月の上を走る自動車はどんなものがいいかと考え、ふと、70年前のパリ万博のポルシェの電気自動車のことを思い出しました。
『ローナー・ポルシェ』──車輪にモーターを取り付けた電気自動車──ポルシェが24歳のとき設計した原理がそのまま使われたのです。ポルシェは当時、ローナー社の安い給料でこの自動車を設計したのですが、今回の設計料は当時のお金で5000万ドル、日本円にして100億円でした。
ポルシェが最初に夢見た、音が静かで空気を汚さない電気自動車が、私たちの町に走る日も遠いことではないのかもしれません。」
■■おまけ情報 3:フェラーリとポルシェのエンブレムのルーツ
●これは「おまけ情報」というか、知っている人は知っている有名な「雑学」(豆知識)である。
(ご存じの方は読み飛ばして下さい)。
(左)エンツォ・フェラーリ(1898~1988年)
(右)「フェラーリ社」の有名なエンブレム=「跳ね馬」
●「フェラーリ社」の創業者エンツォ・フェラーリについては第8章の自動車レースで詳しく触れたが、「フェラーリ社」も「ポルシェ社」も共に第二次世界大戦後の敗戦国で誕生した会社である。
※ イタリアの「フェラーリ社」は1947年、ドイツの「ポルシェ社」は1948年に誕生した。
(左)「フェラーリ社」が2002年に創業55周年を記念して発表した
スーパーカー「エンツォ フェラーリ」(右)この車をデザインした奥山清行氏
※ 創業者の名を冠したこのフェラーリの製作台数はわずか399台で、発売時の価格は
日本円で約8000万という超プレミアムカーである。日本人カーデザイナーの奥山氏は
「イタリア人以外で初めてフェラーリのデザインを手がけた男」として話題になった。
●この「フェラーリ社」のエンブレムに描かれている有名な「跳ね馬」は、そもそもイタリア空軍の撃墜王フランチェスコ・バラッカが愛機に付けていたマークで、それを基にエンツォ・フェラーリが考案したと言われているが、このマークのルーツには諸説ある。
最も有名な説(主流の説)は、「実は、この『跳ね馬』のマークは、フランチェスコ・バラッカが撃墜した敵機に付いていたのを戦利品として拝借した(パクった)もので、撃墜されたパイロットは『跳ね馬』を市の紋章とするシュツットガルト出身のドイツ人だった!」
というものである。
戦闘機「スパッドS.XIII」の前に立つフランチェスコ・バラッカ
フランチェスコ・バラッカは、第一次世界大戦にてイタリア空軍
トップとなる34機を撃墜したエースパイロット(撃墜王)で、
彼の最後の愛機には、目立つように大きな黒色の「跳ね馬」の
シンボルマーク(紋章)が描かれていた(右の拡大画像参照)
(彼は、最後は自分が撃ち落とされて若くして戦死した)。
※ 同じイタリア出身であったエンツォ・フェラーリは、
このマークを基に「フェラーリ社」のエンブレムを
考案したと言われているが、この「跳ね馬」
のルーツ(由来)には諸説ある。
●シュツットガルトといえば、現在、「ポルシェ社」が本社を置く本拠地(ポルシェ発祥の地)であり、「ポルシェ社」もこの都市の市章である「跳ね馬」を基にエンブレムを考案したことで知られる。
上記の主流の説に従えば、永遠のライバルである「ポルシェ社」と「フェラーリ社」のエンブレムのルーツは同じだったことになり、不思議な因縁(というか一種のロマン?)を感じてしまう……。
(左)シュツットガルトの市章
(右)「ポルシェ社」のエンブレム
1953年に生産されたポルシェ356から
この有名なエンブレムが装着されるようになった。
※ シュツットガルトは、ドイツを代表する工業都市で、
バーデン=ビュルテンベルク州の州都である。この都市には
「ポルシェ社」以外にも、「ダイムラー社」や「ボッシュ社」
など、ドイツを代表する世界的な企業の本社が置かれている。
シュツットガルト(Stuttgart)の「シュツット」は「馬」、
「ガルト」は「庭(ガーデン)」という意味を持つという。
※「ポルシェ社」のエンブレムを見ると、中央に
シュツットガルトの市章である「跳ね馬」が
アレンジされていることが分かる。
※ 参考までに、「フェラーリ社」のエンブレムに描かれている「跳ね馬」の「シュツットガルト起源説」は現在、下のような幾つものサイトで紹介されている↓
『ポルシェ博士とヒトラー』
折口透著(グランプリ出版)
『ポルシェ博士とヒトラー』を読んだ感想(書評)
http://www.k3.dion.ne.jp/~micha/book_Porsche.htm
知って得する豆知識:フェラーリのエンブレム
http://blog.livedoor.jp/gaturi776/archives/51358432.html
フェラーリの紋章のルーツ - アフターパーツ.co.jp
http://www.afterparts.co.jp/ferrari.html
覚書:PORSCHEのエンブレム
http://tk0120.exblog.jp/3299747/
●最新の研究によると、「イタリアの撃墜王フランチェスコ・バラッカが愛機に描いていた『跳ね馬』は、彼が『イタリア空軍スクーデリア91a部隊』に所属する以前、騎兵将校時代に所属していた『イタリア陸軍龍騎兵連隊』の紋章であり、ドイツのシュツットガルトの市章とは何の関係もない」
という事が判明してきており、残念ながら(?)これが正しい結論のようであるが
はてさて真相はいかに?
イタリアの撃墜王フランチェスコ・バラッカの
最後の愛機「スパッドS.XIII」の側面図
※ 追記:
●どうでもいい話だが、エンブレムに詳しい人の話によると、
「フェラーリ社」のエンブレムに描かれている「跳ね馬」はオス馬であり、シュツットガルトの市章である「跳ね馬」はメス馬だそうだ(笑)
■■おまけ情報 4:フォルクスワーゲンの街「ヴォルフスブルク」の紹介
●ドイツのニーダーザクセン州に属するヴォルフスブルクの土地に、フォルクスワーゲンの工場が建設される前の人口は、わずか1144人だった。
今では華やかな店々が軒を連ねる「ポルシェ・シュトラーセ(ポルシェ通り)」のあたりは、ただローラーでならされただけの細い道が通り、牛の群れが草を食べるといった光景が展開されるだけの「荒地」だったのである。
「ヴォルフスブルク(Wolfsburg)」はフォルクスワーゲンの企業城下町として発展した
※ 最近は自動車に関する博物館やアトラクションが増えて、多くの観光客を集めるように
なっている。その中でも特に有名なものが、フォルクスワーゲン工場も見学できる自動車の
テーマパーク「アウトシュタット」であり、ヴォルフスブルクの観光名所となっている。
●現在のヴォルフスブルクは、人口は周辺部を含めて約12万人で、市の7割が美しい森や緑地で占められている。
スポーツ施設や文化施設が多く存在し、人工の湖では、週末ともなると多くのヨットが帆を張る。
「VW社」は、こうしたスポーツ施設や文化施設をはじめとして、学校、教会、公園、道路など、あらゆる部分で市に協力し、理想の「フォルクスワーゲンの街」を造り上げてきた。文化事業にも力を注ぎ、各種コンサートや演劇、あるいは絵画展、彫刻展などがしじゅう「VW社」の協力によって開催されている。
「VW社」のエンブレム
※「フォルクスワーゲン(Volks-Wagen)」の
「V」と「W」が上手くアレンジされている
●ちなみにJリーグの長谷部誠選手が「浦和レッズ」から移籍した海外のサッカークラブは、この地に本拠地を置く「VfLヴォルフスブルク」(戦後1945年に創設)であり、メインスポンサーは「VW社」である。(2002年に完成した新スタジアムの建設は「VW社」が全面的に協力し、「フォルクスワーゲン・アレーナ」と名付けられている)。
(左)ヴォルフスブルクで活躍する長谷部誠選手
(右)彼が着用していたユニフォーム(2008年)
「VfLヴォルフスブルク」の新しいホームスタジアムである
「フォルクスワーゲン・アレーナ」(命名権は「VW社」が取得)
●冒頭で触れたこの街のメインストリートである「ポルシェ・シュトラーセ(ポルシェ通り)」は、ポルシェ博士の名にちなんだものだが、大型のデパートや各種の店が軒を連ね、大きな都市のメインストリートにも負けない華やかな雰囲気を醸し出している。
もちろん、街を走る自動車のほとんどはVW車で、市に登録されている自動車の85%がVW車だという。ちなみに「VW社」の従業員の95%はVW車のユーザーだともいわれている。
現在、「VW社」の本社はヴォルフスブルクにある
※「VW社」とヴォルフスブルク(Wolfsburg)は強い連帯感を持ち、
ヴォルフスブルクの住民は自分たちの街を、「VW社」の主力車種である
「ゴルフ(Golf)」をもじって「ゴルフスブルク(Golfsburg)」の愛称で呼ぶという
●「VW社」の巨大な工場で消費する膨大な電力は、全て自らの「火力発電所」でまかなわれている。この発電所の電力供給能力は、工場の全てを動かすと同時に、ヴォルフスブルクの街の灯(あかり)と暖房をもカバーしている。
工場で生産された自動車は、そのほとんどが工場内に引き込まれた列車で送り出されるが、工場の敷地内を縦横に走るレールの総延長は72キロに達しており、「まるで大都市の貨物駅のようだ」と驚きの声をあげる人もいる。
●とにかく、何もかもが巨大であり、初めて見る人はその全てに圧倒されてしまう街である。
◆VWのテーマパーク「アウトシュタット」公式サイト(英語)
http://www.autostadt.de/en/explore-the-autostadt/
■■おまけ情報 5:「トヨタ博物館」の「VW38」
●愛知県の名古屋市近郊にある「トヨタ博物館」は、1989年(平成元年)にオープンした。
名前からしてトヨタ車に関する博物館と思いがちであるが、実際はそうではなく、19世紀末から20世紀にかけての世界の歴史的な名車を100台以上も集めて展示しており、自動車博物館としては日本最大の規模を誇っている。
しかも、全ての展示車両が美しくレストアされており、実走行可能な状態に仕上げられているというから、驚きである。
↑「トヨタ博物館」は名古屋市近郊(愛知県長久手市)に存在する
※ 赤色の巨大な「Tの字」の看板はトヨタの「T」を表現しているという
●面白いことに、この「トヨタ博物館」にはフォルクスワーゲン38プロトタイプ(VW38)のレプリカが展示されている。
(左)「トヨタ博物館」の「VW38」は1階のエスカレーター付近に展示されている(2008年)
(右)「VW38」の説明プレート(日本語だけでなく多国籍の言語でも説明されている)
●この「トヨタ博物館」はトヨタ車だけでなく世界各国、各メーカーの自動車が体系的に展示されており、車の歴史を大人から子供まで学ぶことができるので、まだ訪れたことのない方は、ぜひ訪れてみて下さい。車ファンの方なら、満足できるはず。
◆「トヨタ博物館」公式サイト
http://www.toyota.co.jp/Museum/
◆「トヨタ博物館」で展示中のフォルクスワーゲン38プロトタイプ(VW38)
http://www.toyota.co.jp/Museum/collections/list/data/0054_Volkswagen38PrototypeReplica.html
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