No.b1fha650

作成 2001.5

 

ナチスの「超兵器」

〜 幻に終わった「アメリカ本土爆撃計画」など 〜

 


報復兵器V1号・V2号・V3号、
ミサイル兵器、宇宙往還機、殺人光線、
幻に終わった「アメリカ本土爆撃計画」など
様々な情報を集めてみました。

 

第1章
報復兵器「Vシリーズ」 
V1号・V2号・V3号
第2章
ナチスのロケット兵器(誘導弾)
第3章
幻に終わった
「アメリカ本土爆撃計画」
第4章
ナチスの風変わりな兵器
第5章
「殺人光線」の謎

追加1
ナチスの「巨大戦車」
追加2
米軍、1946年にV2ロケットを
宇宙へ発射していた(映像を公開)
追加3
動画(リンク集)

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 

 


 

■■第1章:報復兵器「Vシリーズ」─ V1号・V2号・V3号


●大戦中、ナチス・ドイツの科学技術力は圧倒的だった。

当時、軍需大臣に昇進していたアルベルト・シュペーアは次のように書いている。

「1944年の段階では、ジェット戦闘機『Me262』だけが奇跡の兵器ではなかった。リモコンで飛ぶ爆弾、ジェット機よりも速いロケット弾、熱線により敵機に命中するロケット弾、ジグザグコースで逃げていく船の音を探知し追跡・命中させる魚雷を我々は持っていた。地対空ロケットの開発も終わっていた。リピッシュ博士は、無尾翼の原理によって設計された戦闘機を開発した。それは当時の飛行機製造の標準を遥かに超えたものであった。」

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●アメリカもイギリスも、通信とレーダーを除くほとんどすべての戦争関連技術においてドイツの技術が連合国のそれを上回っているという認識を持っていた。

武器技術におけるドイツ側の優越は、V2ロケットがイギリスに落とされるようになっていよいよ明らかになっていった。

イギリス人をどん底に叩き込んだV2ロケットは、約1トンの爆薬を弾頭につけ、マッハ4の超音速で飛び、自動制御装置で誘導されるミサイル兵器で、当時の世界にはこれに対する防御手段は全くなかった。

※ このV2の本来の名称は「A4」であったが、ナチの幹部は「A4」を勝手にV2と命名した。「V」はドイツ語の「報復兵器=Vergeltungswaffe」の頭文字である。

 

 
ナチス・ドイツが開発したV2ロケット(別名「A4」)

敗戦までに約6000発が生産され、3000発以上が実戦で発射された


  
(左)V2ロケットは野戦兵器として開発され、
「移動用トレーラー」から発射することも可能だった。
(右)射程を延ばすため後退翼を付けた「A4」=「A4b(A9)」

 

●このV2号より先にイギリス(ロンドン)を襲ったのは、同じ報復兵器であるV1号だった。

V1号は小型機の背中後部に筒状のエンジンを乗せたもので、パルス・ジェットという特殊なエンジンだった。非誘導の単なる簡易飛行弾(半木製)で、安価で量産可能だった。

V1号は凄まじい騒音を発して飛ぶので、「バズ・ボム」とも呼ばれたが、落下する際は騒音は停止し、誘導装置も外れて、地上のどこに落ちてくるか分からず、市民に与える恐怖感を増大させた。しかし、スピードが時速600キロと遅く、対空砲や戦闘機でも迎撃可能だったため、多数のV1号は撃墜されたり機能不全で墜落が続出した。

V2号の開発は陸軍が担当したが、V1号空軍が開発した。V1号は現在の「巡航ミサイル」の先駆である。

 

 

 
報復兵器V1号は簡素な無人機で、当時は「飛行爆弾」と呼ばれたが、現在の
巡航ミサイルの元祖である。凄まじい騒音を発して飛ぶので「バズ・ボム」とも呼ばれた。
機体は「フィーゼラー社」で製作され、ドイツ空軍の制式名は「フィーゼラーFi103」だった。

 

●ところで、第一次世界大戦でのドイツの「パリ砲」は有名だが、第二次世界大戦でも、ドイツ軍はパリ砲を超える列車砲を開発した。

史上最大の火砲「ドーラ砲」である。

この「ドーラ砲」は超巨大な列車砲で、ドラム缶大の砲弾をぶっ放したが、この超巨大砲を使うには、少将以下、1420名の兵士が必要だった。

※ 防衛・整備などの支援には、さらに4000名以上の兵士と技術者が必要とされ、砲の移動は専用のディーゼル機関車2両を使用し、長距離の移動の際には分解されて運ばれた。その巨大さゆえに運用には多大な時間がかかり、実際の砲撃に先立つ整地、レールの敷設、砲の移動、組み立てなどに数週間を要したという。

 

 
1000トン以上の重さの超巨大な列車砲「ドーラ砲」。口径80センチの巨砲で、
連合軍は「ビッグ・ベルタ」と呼んだ。砲身の長さは27mもあり、
最大射程距離は約50キロに達した。

  
「ドーラ砲」の砲弾は他と比較しても圧倒的にでかい

 

●この怪物のような列車砲は、1942年6月、クリミア半島のセバストポリ要塞攻撃に用いられ、直径80センチの巨弾は、地下30mに設けられていた弾火薬庫まで貫徹して大爆発を起こし、ソ連軍を降伏させた。

※ ちなみに、「ドーラ」という名称は2台造られた80センチ重列車砲の2号機の名称であり、1号機は「クルップ社」の会長グスタフ・クルップの名を取って「グスタフ」と呼ばれていた。2号機の名称は主任設計者エーリヒ・ミューラーの妻の名ドーラから取られたが、なぜ妻の名前なのかというと、主任設計者曰く「うちの女房の怒鳴り声と同じくらいの轟音が出るから」とのこと……(諸説あり)。


●ドイツ軍は「ドーラ砲」の他にも、

28センチ列車砲、60センチ自走臼砲「カール」など、ケタ外れの巨砲を揃え、第二次世界大戦を戦ったのである。

 

 
60センチ自走臼砲(じそうきゅうほう)「カール」

 

自重が120トンを越えるため、時速10キロ程度でしか移動ができず、
運用と操作がかなり厄介な兵器であったが、独ソ戦の「セバストポリの戦い」
においてその威力を発揮した。「カール」は6台が生産され、「アダム」 「エバ」
「ロキ」 「ツィウ」 「トール」 「オーディン」という神話などに基づく名が付けられた。

 

●これらの巨砲の他に、連続発火で砲弾を加速させる「ムカデ砲」(高圧ポンプ砲)もあったが、

この長距離ロケット砲は報復兵器V3号と呼ばれていた。

このV3号は、全長150mという非常に長い砲身に数mごとに枝が付いていて、ちょうど魚の骨のような格好をしていた。これらの枝のパイプ(薬室)には、それぞれ爆薬が詰めてあり、ロケット弾が発射されると、次々に爆発して弾丸のスピードをつけていくという仕掛けであった。この増速装置により、発射初速は毎秒1500mというものすごいスピードが出た。

まさに“スーパーガン”である。

 

  
V3号の名で知られる長距離ロケット砲「ホッホドルックプンペ」(別名「タウゼントフスラー(ムカデ)砲」)



↑ロケット弾が通過していく直後に、個々の
薬室(2個1組)に電気点火されるよう設計されていた。

ロケット弾には小さな翼が装着してあり、弾道の安定性が考慮
されていた。ヒトラーはこの射程150キロに達する高圧砲に大きな
期待を寄せ、ドイツ軍の占領下のフランスに「秘密基地」を築き、
ロンドン砲撃による“報復”を果たそうとしたのである。



「ヒラースレーベン実験場」に設置されたV3号の実験高圧砲

※ 「ヒラースレーベン実験場」はドイツ国内に作られた陸軍の広大な
兵器実験場である(敷地の全長=32キロ)。ここでV3号の考案者である
「シュタールベルケ社」のコンダー博士の指導のもと、極秘にV3号の射撃テスト
が行われた。ちなみにV3号の側部薬室の取り付け角度は、砲身と垂直
になったものもあり、いくつかのバリエーションが存在した。

 

V3号実戦配備場所については、1943年夏、ヒトラーの特別命令により極秘調査が行われた結果、占領下のフランスの英仏海峡沿いのブローニュとカレーの中間地点にある「ミモイエークの丘」一帯が選ばれた。

同地はロンドンの中心部まで152キロの地点である。

そして西基地・東基地の2つからなる巨大な地下発射場の建設が「プラン51」という秘匿名のもと、軍事施設建設を専門とする「トート機関」の手により開始された。

 


V3号の
「地下秘密基地」の位置(+V3号の射程範囲)

占領下のフランス北西部の「ミモイエークの丘」に建設された
V3号の発射基地は、ロンドンまでを射程に収めていたのである


V3号の「地下秘密基地」の見取り図

V3号の高圧砲は傾斜角55度で斜面(砲床にあたる)に固定
されており、5門を1セットとして10基、計50門の建設が行われた。

丘の頂上の開口部周囲には厚さ5.5mもあるコンクリートの巨大な掩蓋
(えんがい)が設置された。砲口部は開閉式の扉で巧妙に隠されていた。
基地内には通路(トンネル)が縦横に走り、弾火薬運搬用の軽便鉄道線
が敷かれるなど、非常に大規模な秘密の「地下発射場」だったのである。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはここに5000名以上の技術者と、
430名の熟練鉱夫を含む鉱業専門家に加えて多数の労働者と、
数千トンの鋼鉄および特殊資材を投入していたのであった。

 

●この「地下秘密基地」の完成度は、あと3ヶ月ほどで稼働可能となる状態だった。

しかし、この大規模工事はフランスのレジスタンス組織からイギリスへ通報され、イギリス空軍によって爆撃・破壊されてしまった。

結局、V3号はロンドンに向けて火を噴くことなく、工事部隊は全ての記録を焼却してドイツ本国撤退していったのである。

 

   
V3号の「地下秘密基地」の砲口部

この基地の砲口部は「開閉式の扉」で隠され、
発射時以外は露出しないように巧妙に設計されていた

 

●当時、イギリス軍の調査委員会によって作成されたV3号に関する報告書を読んだチャーチル首相は、

V1号V2号に気を取られ、このようなロンドンに対する未知の攻撃計画があったことは危険極まりないことである」と述べて、V3号の発射場の徹底的な破壊を命令した。こうして「ミモイエークの丘」にあった「地下秘密基地」はイギリス工兵隊の手により二度にわたって爆破されたのである。

 

 
イギリスのウィンストン・チャーチル首相

ヒトラーの報復兵器V3号の存在は、チャーチル首相の胆を冷やした

 

●もしV3号が爆撃・破壊されず、フルに稼働していたら、ロンドン手痛い打撃を受けていたといわれている。

戦後、イギリスではV3号の攻撃力について次のように分析されている。

「理論上、V3号の高圧砲は10分ごとに一斉射撃を行うが、1500発を発射するのに10時間もかかり、1万5000発では100時間を必要とする。V3号一発の威力V2ロケットに劣っており、V3号の破壊力では、ヒトラーが期待したロンドンの大規模破壊はできなかったと推定される。

しかし、V3号砲撃照準精度高く、ロンドンのバッキンガム宮殿、議会、官邸など重要施設を個別に狙うことが可能であり、それを考慮すればV2ロケットよりも厄介で危険な兵器になったであろう」

 

 


 

■■第2章:ナチスのロケット兵器(誘導弾)


●ナチス・ドイツでは、V2ロケットをもとに、多数のロケット兵器(“ミサイル”は戦後の英米の呼称)が設計された。

これらのロケット兵器のために各種の誘導装置が研究され、その中には進歩した音響誘導とか、赤外線反応装置なども含まれていた。

 

 
(左)ナチスが開発した弾道追跡用のパラボラアンテナ
(右)無線を利用したナチスのミサイル・システムの図

 

「ヘンシェルHs293」は、空対地(艦)の誘導弾(グライダー爆弾)で、遠隔操縦によって、1943年8月、イギリス海軍のスループ艦「イーグレット」を一瞬にして撃沈して最初の戦果をあげた。

※ ちなみに翌月(1943年9月)、イタリア海軍の誇る最新鋭艦「ローマ」をたった一発で沈めたのは、対艦船用誘導弾「フリッツX」である。念のため。

 

  
空対地(艦)の誘導弾「ヘンシェルHs293」

無線操縦装置が装備され、母機の誘導員が尾翼の炎を見ながら
目視で無線操縦によりターゲットへ突入するように誘導した。
「フリッツX」とともに最も使用された誘導弾だった。

 

●この「ヘンシェルHs293」の設計から発展したのが、「ヘンシェルHs117シュメッターリンク」という飛行機型の地対空ロケット誘導弾(ミサイル)である。

発射速度増加のため、4つのブースター・ロケットがついていたが、この兵器は実戦には使用されなかった。

 

 
地対空ミサイル「ヘンシェルHs117シュメッターリンク」

4つのブースター・ロケットがついており、約150発が製造された。
全長約4m。時速828キロで飛翔し、目標までは無線誘導された。
実戦には使用されなかったが、各種の実験に供された。

 

「ライントホターR1」は、2段式の地対空ミサイルで、方向のコントロールは、レーダー・ステーションから無線で遠隔操縦された。

 

 
2段式の地対空ミサイル「ライントホターR1」

「ラインメタル社」が1942年末から開発を行った固体燃料のミサイル。
全長10.3mの胴体に100キロの炸薬を搭載し、2段階のブースターの
燃焼によってマッハ5まで加速。広く使用された88ミリ高射砲の
砲架を利用して発射台が作られ、無線で遠隔操縦された。

 

●また、「ヘンシェルHs298」というミサイルは、空対空ミサイルで、戦闘機のコントロール・システムによって無線誘導されるミサイルだったが、実戦で使用される前に、戦争が終わってしまった。

 

 
無線誘導の空対空ミサイル「ヘンシェルHs298」

このミサイルは母機から発射された後、目標まで無線誘導された。
飛行中の姿勢制御は「ジャイロ」によって行われ、目標に接近
すると「Kakadu」と呼ばれる電磁波式の接近信管が作動
して、搭載した炸薬が爆発するようになっていた。

 

「ヴァッサーファル」あるいは「C2」と呼ばれたミサイルは、地対空ミサイルで、あらゆる点でV2ロケットを小型にしたものだったが、胴体の中央部にも、4枚の安定板をつけていた。

このミサイルは赤外線誘導装置を持ち、完全な自動誘導システムのものだった。

このミサイルは、戦後のアメリカの「ナイキ・エージャックス」をすら性能的に凌いでいて、大戦中、このミサイルの存在は、ナチスのミサイル・シリーズの中で最高機密にされていたという。

 

  
V2ロケットの縮小版のような地対空ミサイル「ヴァッサーファル」

赤外線誘導装置を持ち、完全な自動誘導システムのものだった。
実戦では使用されなかったが、1945年2月26日までに全部で
50発が生産され、35発が実験用に発射されたという。


 
(左)「ヴァッサーファル」の誘導原理 (右)ビーム・ライダー誘導方式

ナチスが開発した地対空ミサイルのうち、「ヴァッサーファル」は
戦後のミサイル誘導方式の原型ともいえるものを採用していた。
(このミサイルのために考案された誘導システムに現用のビーム・
ライダー誘導方式の原型ともいえる「Kruck」なる方式もあった)

※ 『大図解・ドイツ軍兵器&戦闘マニュアル』
 坂本明著(グリーンアロー出版社)より

 

●ナチスはミサイルの先端に「TVカメラ」を搭載して、カメラ映像によって攻撃目標を映し出す実験もしていた。

※ この実験は、1943年秋、バルト海南岸のシュタガードで行われ成功している。この「テレビジョン誘導装置」を付けたミサイルは、その後改良を重ね量産されたが、母機となる航空機不足のため、実戦では使用されることはなかった。

 



ナチスは1935年3月に、世界最初の一般向けの定時テレビ放送を始めて
おり、ナチスのテレビ技術はかなりのレベルまで達していた。その技術を
ミサイルの「眼」に応用したのが、(左)の小型装置(TVカメラ)である。

(右)はその「TVカメラ」を先端部分に搭載したミサイルで、発射後に
送られる映像を見ながら母機のコントローラーで無線誘導した。
実験には成功していたが、実戦で使用されることはなかった。

   

 

●ところで、世界初の実用ジェット戦闘機「Me262」の主力兵装として開発されたのが、マックス・クラマー博士考案の空対空ミサイル「ルールシュタール X-4」である。

動力は小型の液体ロケット・エンジンで、4枚の安定翼と操縦翼を持ち、2本のケーブルで誘導するという先進的な兵器だった。

敗戦までに約1300発が製造されたが、ロケット・エンジンの生産が空襲で途絶したことなどから、一度も実戦では用いられなかった。

 


有線誘導の空対空ミサイル
「ルールシュタール X-4」

この先進的なミサイルは、1943年に開発が
開始された。最高時速1120キロで飛び、発射母機
からの有線誘導により標的をとらえることが可能だった。
約1300発が製造されたが、実戦では使用されなかった。
(ジェット戦闘機「Me262」の主力兵装になる予定だった)。

 

●この「X-4」の代わりに、ジェット戦闘機「Me262」が1945年4月から敗戦までの約1ヶ月間使用し、大きな戦果を収めたのが、「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた小型ロケット弾「R4M」である。

元アメリカ陸軍少将レスリー・サイモンは、著書『第三帝国の秘密兵器』の中で、ドイツが開発していたミサイル、ジェット戦闘機、超音速爆撃機などについて詳細に述べているが、

特に彼が感心したのは、この「R4M」であった。

戦争終結1ヶ月前に、ジェット戦闘機「Me262」に付けられたこの「R4M」は、その破壊力の凄さをまざまざと見せつけた。連合国側は、わずか1ヶ月のうちに、「R4M」によって撃墜された爆撃機の数を500機としている。

レスリー・サイモンは次のように書いている。

「6機の『Me262』が、空飛ぶ砦といわれる『B17E』を14機撃墜した。

もし『R4M』があと数ヶ月使われていたらどのような結果になっていたか、考えるだけでも恐ろしい……」

 

 
(左)世界初の実用ジェット戦闘機として実戦に投入された「Me262」。
(右)主翼下面に装着された小型ロケット弾「R4M」(片側12個ずつ計24発)。
発射後、一定時間後に爆発を起こすので、直撃しなくても周囲に被害を与える
ことが可能だった。遠距離から大型爆撃機をやすやすと撃墜できた。

 
(左)ドイツ空軍のエースパイロット、アドルフ・ガーランド中将
(右)「オルカン(暴風)」の愛称で呼ばれた「R4M」の弾幕

※ ガーランド中将率いる最後の精鋭部隊「第44戦闘団」の
「Me262」が敗戦までに記録した、約50機の撃墜戦果の
大半は、この「R4M」によるものだったといわれている。

 

●ところで、ナチスは「ロケット魚雷」や、エンジン音を追尾して敵艦に命中する「ホーミング魚雷」の開発もしていた。

また、潜航中の潜水艦「Uボート」からロケット弾を打ち出し、沿岸を奇襲攻撃するアイデアもテストされていた。

 


ジグザグに進む探索誘導魚雷。
のちに様々なタイプの音響誘導魚雷が生まれた。


 
ナチスは、水中の「Uボート」からロケット弾を打ち出す実験に成功していた。
(右)の写真は、ペーネミュンデ沖の深度12mから発射されたロケット弾である。

 

●また、「ウルセル計画」というのがあったが、これは追跡してくる護衛艦に対してUボートから誘導弾を発射する計画であった。

あと、「Uボート・V2計画」というのもあった。これはV2ロケットを防水格納筒(コンテナ)に入れてUボートで牽引し、沿岸から都市を攻撃するという計画であった。(この計画は、のちにV2ロケットによるニューヨーク攻撃計画へ発展していった)。

 

(左)Uボート曳航式V2ロケット発射装置 (右)拡大断面図

V2ロケット(全長約14m)を納めた防水格納筒(コンテナ)は全長約35mで、
内部には発射台、推進剤・酸化剤タンク、制御室、コンテナ起動用のバラスト・タンク
などが用意され、曳航中は内部に2名ないし3名の発射要員が搭乗する。コンテナは
半没式で海に浮かぶ構造で、コンテナ自体には移動用の動力装置は一切なかった。

V2ロケットを発射する際には、まずコンテナのバラスト・タンクに注水して垂直に立てる。
そしてコンテナ先端のノーズ・コーンを開いて、V2ロケットに推進剤と酸化剤を注入する。
その後、自動操縦装置や誘導装置の調整を行い、母艦から遠隔操作で発射する。

1944年末、ドイツは潜水艦で曳航できるこのコンテナを3基製造したが、
実戦で使用される前に、戦争が終わってしまった。

 

●ちなみに、「Uボート」は多くの最新装備をもっていたが、中でも、戦後、連合国側を驚かせたのは、「シュノーケル」である。

これは「Uボート」が潜航中にディーゼル・エンジンを動かすための空気を取り入れる装置だが、アイデアも装置そのものも全く単純なものだった。

※ 「シュノーケル」はドイツの発明品ではなかったが、完全に実用化したのはドイツ海軍である。

当時、潜水艦の最大の欠点は、たびたび浮上して空気を取り入れなければ、エンジンを動かせないことだった。だが、この「シュノーケル」のおかげで、潜水艦は初めて海上に浮上することなく長時間航行を続けることができるようなり、基地を全て海上封鎖されたあとも、ナチスの潜水艦は連合軍に探知されることなく自由に出入できたのである。

※ ちなみに、「シュノーケル」の詳細な設計図は、ドイツ海軍から日本海軍に譲渡されていたが、日本海軍の選りすぐった優秀技術者をして、とても頭が痛くなるといって、匙(さじ)を投げさせたほど、実にこみいった設計であったそうだ。

 

 
(左)はUボートに付けられた「シュノーケル」。中央左の球状の
ものがボール・バルブ。これにより「Uボート」はレーダーに探知
される危険なしに、バッテリーを充電することができた。

 

●また、驚くべきことに、ナチスは「ステルス技術」も開発していた。

最新型の「シュノーケル」の頭部は、連合軍のレーダー波探知を防ぐために、「タルンマッテ」と呼ばれる「レーダー波吸収剤」でコーティングされていたのである。

この「ステルス素材」は合成ゴムと酸化鉄粉の化合物で、最新型だったASVMkIII型レーダーに対して最も効果を発揮するように設計されており、90%の電波を吸収すると考えられていたという。

 


「レーダー波吸収剤」でコーティングされた
Uボート21型(エレクトロ・ボート)の
「シュノーケル」の頭部(伸縮式)

 

 


 

■■第3章:幻に終わった「アメリカ本土爆撃計画」─ 世界初のICBM構想とゼンガー計画


●戦時中、天才ロケット工学者フォン・ブラウンらペーネミュンデの一党が、「A4(V2)」の実用化を経て最終的に到達したのが「A9/A10」の構想であった。

これは「A4」にほんの少し改造を施した上で(A9)、これをいっそう巨大な液燃ブースター・ロケット(A10)に載せた2段式とし、射程はなんと5000キロという当時としては法外な超長射程の誘導弾を実現しようというものであった。

 


左から「A4(V2)」、「A4b(A9)」、「A9/A10」(2段式)。
もし、「A9/A10」が完成していたら、ドイツからアメリカ
本土を直接攻撃することが可能であった。

 

この重さ100トンの「A9/A10」(通称「ニューヨーカー」)は、その発想において世界初のICBM(大陸間弾道弾)構想と称することができる。またロケット弾の複数段化という発想も世界で初めてである。

このロケットは試作中、ドイツが降伏したので使われなかったが、もし実現していたらドイツからアメリカ本土を直接攻撃することが可能であった。

※ これとは別に、「A11」というさらに強力なエンジンで「A9」をより遠距離に飛ばすという3段ロケット「A9/A10/A11」構想もあったという。

また、「A4」が無人ロケットであったのに対し、「A9」は有人飛行を前提としたロケットであったという。

 


パイロット搭乗の「A9」の想像図


 
天才ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウン博士

1912年にドイツ東部の裕福な貴族の家に生まれ、
1930年にベルリン工科大学に入学。19歳の時に
全長2mのロケットを高度1600mまで打ち上げ、
世界記録を作る。1938年に「ナチ党」に入党。
大戦中はナチスのためにV2ロケットの
製作を指揮した。元SS少佐。


 

戦時中に撮影されたフォン・ブラウンとナチスの幹部たち




1937年、ドイツ陸軍のロケット研究班は、手狭になったクンマースドルフ実験場と
ボルクム島の発射場から、両方の機能が併設された新しい総合的な研究施設へと移転した。
それは、ベルリンの北約160キロ、バルト海ポメラニア湾に面したウゼドム島西端のペーネミュンデ
に所在した。この「ペーネミュンデ・ロケット研究施設」には、空軍のV1飛行爆弾の研究班と試験発射場
も置かれ、働く科学者や技術者の数も、1943年には2000名をかなり上回るほどだったという。

1943年8月、イギリス軍による大規模な空襲で、約730名もの科学者や技術者が殺害された。
この空襲以降、ドイツはV1、V2の研究開発と生産のための施設を、コッヘル(風洞設備)、
ガルミッシュ・バルテンキルヘン(研究・設計全般)、ノルトハウゼンやブリーヘローデ
(ともに生産施設)に分散させ、V1は1944年6月13日に、またV2は同年9月8日に、
それぞれ最初の一発をイギリス本土に射ち込むことに成功している。

 

●このロケット開発と並行して「ゼンガー計画」というものがあった。

これはロケット推進による「宇宙空間爆撃機」の開発計画で、オーストリア生まれのロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士が考案したものである。

この「宇宙空間爆撃機」は、全長3キロのモノレールを専用のロケット式加速装置を用いマッハ1.5まで加速し、そこから宇宙を目指す。そして大気圏外に出たのち、大気との摩擦を利用してスキップしながら飛行距離を伸ばし、途中でアメリカ本土に爆弾を投下し、ドイツ本国に帰還するという計画であった。

もちろんこの計画は構想のままで終わったが大戦後、この資料を入手した米ソ両国はこの計画に大変な興味を持ったと言われている。

※ ちなみに1988年に、ドイツ宇宙開発機関は「宇宙往還機」の研究を開始したが、ゼンガー博士の研究にちなみ、機体は「ゼンガー2」と呼ばれた。

 

 
(左)オイゲン・ゼンガー博士 (右)彼が考案した
ナチスの「宇宙空間爆撃機(宇宙往還機)」

 



↑宇宙空間爆撃機「ゼンガー」の発射法 

全長28m、全幅15m、鋭い翼端を持つ直線翼に今日の
リフティング・ボディともいうべき形態を持つ機体は、全長3キロの
モノレール上を滑走し、一気にマッハ1.5まで加速して大気圏へ向け
発射される。機体は加速を増やすために使われる補助ロケット・
エンジンが取り付けられたカタパルトの上に載せられる。


 
パイロットが着ている宇宙服のようなものは、ナチスが
高高度飛行用に開発した気密服である

 

 


 

■■第4章:ナチスの風変わりな兵器


●戦時下のドイツで開発された兵器の中で、極秘にされていたものの中に、風変わりなものが含まれていた。


●例えば、人工的に「つむじ風」を作り出して、相手を攻撃する大砲があった。この大砲は「ヴィルベルゲシュッツ(渦巻き)砲」と呼ばれ、オーストリアのアルプス山中にある「ローファ研究所」で、チッパーマイヤー博士によって作られた。

これは地中に埋めた、一種の大きなモルタル製の砲身を使用するもので、発射される弾丸には、石炭粉とゆっくり燃焼する爆薬が入っていた。これで、人工的につむじ風を作り、その上空に乱気流を起こし、飛行機のコントロールを狂わせて撃墜しようというものだった。

実験では、かなり大規模なうず巻きを起こすことに成功し、数百mの範囲まで効果をあげたが、実戦には一度も使用されなかったという。


●これに似た構造で、強力なメタンガス爆発を引き起こす大砲もあった。

原理は炭鉱のガス爆発と同じで、最初これは対空砲の一部として作られた。しかし、対空よりも地上の物体に対する破壊力の方が遥かに大きかったので、この兵器は戦争の終わり頃に、ポーランドの自由の戦士たちに対して使われたという。



●水素と酸素をギリギリの分子比率に近づけて混ぜ、その爆発力によって飛行機を撃ち落とす「風力砲」も開発された。

この奇妙な装置は、シュタットガルトのある会社が考案したもので、「ヒラースレーベン実験場」で実際にテストされた。その際、極めて強力な圧搾空気のかたまりが飛んでいって、約180m離れたところに置いた厚さ2.5センチの木の板を破壊できることが証明された。

この装置は、チェコとドイツを流れるエルベ川にかかる橋の上に作られ、目に見えない“空気の砲弾”で連合軍機を撃ち落とす予定だったが、実用には失敗したといわれている。

 


ナチスが開発した「風力砲」

全長15mほどの筒の先がL字型に折れ曲がっていて、
先端に小さなノズルが設けられている。そのノズル
から目に見えない“空気の砲弾”を発射し、上空を
飛来する連合軍機を撃ち落とす予定だった。

 

●前出の「ローファ研究所」では、リヒャルト・ヴァラウシェク博士によって「ルフトカノーネ(音波)砲」も開発された。

これは大きな放物反射鏡の形をしていて、いくつか作られたうち最後のものは、直径3.3mもあった。

これは、いくつかの発火チューブで出来た燃焼室と直結していて、メタンと酸素の混合物を燃焼室の中へ入れ、ここで2種類のガスが周期的に連続して爆発を起こす仕掛けだった。燃焼室の長さは、連続爆発で生ずる音波の波長の、ちょうど4分の1で、1つ1つの爆発は共鳴により強度の衝撃波となり、次々と爆発を誘発し、非常に高く増幅された“音波ビーム”となった。

 


ナチスが開発した「ルフトカノーネ(音波)砲」

大きなパラボラ反射器と短い筒から出来ていた

 

●ドイツの秘密兵器に詳しいアメリカの科学者、ブライアン・フォードは、この「音波砲」に関して次のように述べている。

「『音波砲』が発する音波は、人間の聴覚器官に耐えられないほどの強さだった。約50m離れた所へも、1000ミリバール以上の圧力で伝わり、人間はこれにとても耐えることができなかった。この範囲内では、人間を殺すには、30秒もあればじゅうぶんだった。もっと遠い所でも、例えば約230mまでならば、人間には耐えられないほどの苦痛を与えた。

『音波砲』の開発のために、動物を使ったいくつかの実験が行われたが、実戦テストも、生体テストも実施されなかった。この『音波砲』は、計画された目的には、一度も使われなかった」

 

 
(左)ブライアン・フォード
(右)彼の著書『ドイツ秘密兵器』

 

●ナチスの科学者たちは、「赤外線」を軍事利用するための研究も積極的に進めたが、最初に開発された装置は、相手方の出す「赤外線」を探知するために使われた。この装置を使って、「赤外線」の発射される根源地を直接探し出し、この地点に向けて射撃ができると、考えられたのである。

その後、「赤外線」の照射を応用した「赤外線照射探知機」が作られ、140キロ以上離れた距離の銃火を誤差角度1分以内という正確さで探し当てることができた。

各部隊がこの探知機を使うと、目標地点は正確に割り出され、真っ暗闇の中で敵の居場所を見つけ、銃の狙いをつけるのは、日中とほとんど変わらないくらいに出来るようになった。

 

 

自動小銃と機関短銃の両方を兼ね備えた
「StG44突撃銃」は、今日のアサルト・ライフルの
 元祖である。このStG44には赤外線照準器が採用され、
ツィールゲレト(照準装置)1229ヴァンパイア(吸血鬼)
と呼ばれ、戦争の末期に少数使用された。


このStG44の銃身に装着する異色の装備が開発され、
「クルムラウフ(曲射銃身)」と呼ばれた。曲射銃身には曲射30度、
60度、75度、90度など各種が試験された結果、2種に絞られ、
カーブ30度はボーザッツJ、カーブ90度はボーザッツVと呼ばれた。

  
(左)StG44の先端に取り付けた90度曲射銃身 (右)30度曲射銃身用のプリズム利用の照準装置

曲射銃は、撃つ方が身を隠したままでも射撃でき、市街戦や塹壕戦での
撃ち合いにはもってこいの武器である。しかし、照準器のコストや銃身加工の
精密さなどのため大量生産ができず、また射撃のショックで緩んだり破損すること
も多く、あまり実用的ではなかったようだ。ちなみに、ドイツから曲射銃身の資料を
入手したアメリカ軍は、戦後、彼らのM3A1サブマシンガンにこの装置を付けた。

 

 


 

■■第5章:「殺人光線」の謎


●ナチスは、「太陽光線」を集めて敵を攻撃する対空兵器の研究もしていたようだが、これは実現しなかったようだ。

また、ナチスは「殺人光線」の研究をしていたと言われているが、これに関しては専門家の間で意見が大きく分かれている。前出のブライアン・フォードは、「殺人光線」の存在をきっぱりと否定している。


しかし、ナチス軍需大臣アルベルト・シュペーアは、1945年4月、ドイツの労働大臣ロベルト・ライから、ドイツが「殺人光線」を所有していることを聞いた、と述べている。

『Uボート977』の著者ハインツ・シェファーもまた、1945年4月に「殺人光線」のデモンストレーションを見学するようSSから勧められた、と述べている。だが、彼は潜水艦の艦長としてのスケジュールの都合がつかず、参加することができなかったという。


●ちなみに、第二次世界大戦中、日本もまた異常な兵器の研究に取り組んでいた。

このことは、ロンドンの帝国戦争博物館付属図書館の資料で証拠づけられる。『非公開付録I・E:殺人光線』と題された1945年10月3日の記録文書は、下田中将ほかの日本人士官たちを尋問したグリッグス、モアランド、ステェフェンソンの各医師の記録を要約したものである。

文書はこう語る。

「日本軍は、5年半にわたり『殺人光線』に携わっていた。これは強力光線の中に集められた極く短い電磁波が、哺乳類の体に生理学的変化を起こし、死に至らしめるという原理に基づいている。光線を向けられた人間に麻庫や死をもたらすような兵器を開発することが、この研究の狙いだった。」


●文書はさらに、この装置にもっとも適した軍事的応用(対戦闘機)について述べ、日本はこの開発に200万ドルに相当する資本を費やしていた、と記している。また、「殺人光線」を使っての各種の実験、違った種類の動物を殺すのに要する時間についても述べ、最後にこう結んでいる。

「より強力で短い波長の発振器が開発されていれば(これは連合軍のレーダー研究によって可能になりはじめている)、10ないし15キロ彼方から人間を殺せるような『殺人光線』ができよう。」

 

 

●さて、最後になるが、大戦が終結した時、連合国側はドイツが開発していた諸々の兵器を目の当たりにして、そのレベルの高さに驚嘆している。

ヨーロッパ戦線の連合軍総司令官アイゼンハワー将軍は、大戦後、ドイツ軍の新兵器の全貌を知るに及んで、次のように語っている。

「もしドイツ軍がこれらの新兵器の開発をもう6ヶ月早く完成させていたなら、我々のヨーロッパ進攻は不可能になっていただろう……」(アイゼンハワー著『ヨーロッパでのクルセード』)

 


ヨーロッパのアメリカ軍司令官
ドワイト・アイゼンハワー将軍
(のちの第34代アメリカ大統領)

 

─ 完 ─

 


 

■■追加情報: ナチスの「巨大戦車」


ポルシェといえば、カーマニアだけでなく、

一般人さえも知っている高級車の代名詞というべきドイツのスポーツカーである。

しかし、そのポルシェが第二次世界大戦中、戦車を作っていた事実は、あまり知られていない。

「ポルシェ社」の創業者フェルディナント・ポルシェ博士は、世界的に有名なフォルクスワーゲンの設計で知られるが、彼は戦車の設計にも並々ならぬ興味を示していたのである。

 

 
(左)フェルディナント・ポルシェ博士 (右)シュツットガルトの「ポルシェ設計事務所」

戦時中、ポルシェ博士は軍需大臣直属の
「戦車製造委員会」の委員長に任命された。
「ポルシェ設計事務所」は多忙をきわめ、事務所
からは各種兵器の設計図が続々と生まれていった。

※ ボヘミア出身の自動車工学者であるポルシェ博士は
フォルクスワーゲンを手がける前は、優秀な技師として
多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの
 混合動力車、「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、
 「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。


1931年に彼は「ポルシェ社」の前身である
 「ポルシェ設計事務所」をシュツットガルトに
設立していた。(設立年については
1930年という説もある)。

 

●ちなみに、自動車専門メーカーとしての「ポルシェ社」が設立されたのは、戦後1948年である。念のため。

詳しくは、別ファイル「ポルシェ博士とヒトラーのVW計画」をご覧下さい。

 

 
ポルシェ博士が設計した「キューベルワーゲン」(左)と「シュビムワーゲン」(右)

 

●当時、自動車設計者が、戦車にも興味を示すことは、それほど珍しいことではなかった。

アメリカの有名な戦車設計者ジョン・ W・クリスティーも、むしろ自動車設計者としての方が、世間には知られていたのである。

 

 
(左)ジョン・ W・クリスティー (右)ソ連軍の「BT戦車」(BT-7)

もともと自動車設計者であり、第一次世界大戦中に半装軌車(ハーフトラック)を設計
したジョン・ W・クリスティーは、大戦間期のアメリカでほとんど唯一の戦車設計者であった。

彼が設計した「クリスティー式戦車」はアメリカでは採用されなかったが、イギリスやソ連で大きな
注目を浴びた。第二次世界大戦前にソ連が開発した「BT戦車」(快速戦車)は、クリスティーが
開発した「M1940」という戦車に由来しており、クリスティーは後に、「ソ連に強力な戦車を
作らせるきっかけとなった技術を売却してしまったことを後悔している」と語っていた。

 

●ポルシェ博士が楽しく戦車の設計をできたのには、じつは特殊な事情があった。彼はヒトラーの個人的なお気に入りだったのである。

ヒトラーは一種の「兵器オタク」で、ポルシェ博士のアイデアに次々と飛びついたのであった。

同じアイデアマンであったジョン・W・クリスティーが、アメリカ軍から相手にされず、自分の才能をほとんど発揮させることができなかったのに対して、ポルシェ博士独裁者ヒトラー後ろ盾で、数々の新奇な車両の開発が可能となったのである。

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)フォルクスワーゲン(国民車)の
模型を見ながら語り合うポルシェ博士とヒトラー

 

●第二次世界大戦中、ドイツには多くの武器メーカーがひしめいており、軍需生産先進国だった。

戦車の開発、生産も戦前から「ダイムラー・ベンツ社」、「ラインメタル社」、「クルップ社」などの有名メーカーが手がけており、本来ポルシェ博士のグループが参入する余地はなかった。

そのポルシェ・グループ(ポルシェ設計事務所)が戦車開発に参入できたのには、「陸軍兵器局」の意向が反映している。

彼らは、戦争勃発によって軍需生産の必要が増したことで、新興メーカー(新興グループ)が参入することを奨励し、手助けをしたのである。

こうして、ポルシェ博士の最初の戦車開発が開始された。

 


ナチス・ドイツ軍の「4号戦車」

この「4号戦車」の開発を請け負ったのは「クルップ社」である。
「4号戦車」はドイツ軍戦車の中で最も多く生産され、第二次大戦
全期間を通じてあらゆる戦線で活躍した実質的な「主力戦車」であった。
戦況に合わせた様々な改良が可能で、その信頼性の高さから前線の兵士
たちには「軍馬」の愛称で親しまれた。その信頼性は終戦まで揺らぐことはなく、
5号戦車「パンター」と並び、ドイツ装甲部隊の中核となって最後まで戦い抜いた。

この後継車両となる新型戦車の開発が1939年末にポルシェ博士に対して依頼
された。そこで考えられたのは、75ミリ戦車砲、できれば105ミリ戦車砲を
搭載することも可能であるような25〜30トンクラスの車両であった。


ポルシェ博士の設計による最初の試作車
である「1号特殊車両」の側面図

 

●この試作車は、「ポルシェ設計事務所」内では「1号特殊車両」および「レオパルト」と呼ばれていた。

陸軍公式名称は「VK-3001(P)」であり、「ポルシェ設計事務所」内での型式名称は「タイプ100」(これは現在までつながるポルシェの設計ナンバーである)であった。

試作車は2台製作され、1941年に完成した。ただし、砲塔は載せられず(結局、計画放棄時までに完成しなかった)、代わりにダミーのウエイトを搭載されて試験が行われた。

 


「ニーベルンゲン工場」近くで走行テスト中の
「1号特殊車両」(設計ナンバー「タイプ100」)

縦置きトーションバーという新機軸が採用されていた

 

●ところで余談になるが、膨大な軍事予算と広大な研究設備を持っていた当時のナチス・ドイツの研究組織は、陸海空の三軍それぞれ独立した機関で成り立っていた。陸軍は「陸軍兵器局」のもと、兵器実験部と調達部の二大部門に分かれていた。

最も大きな予算を与えられていた空軍は、空軍省の下に「空軍技術局」などがあった。海軍にも「兵器開発局」があり、科学物理研のもとに研究開発が行われていた。

そしてこれら三軍すべての軍需生産は、1940年3月に発足した「軍需省」のコントロール下にあり、さらに実質的な決定権は総統ヒトラーにあった。

 


軍需大臣のフリッツ・トート将軍(左)と「陸軍兵器局」の
局長リープ将軍(右)。中央の小柄な人物はV2ロケット
の開発で知られるワルター・ドルンベルガー将軍。

※ 優秀な土木技術者だったフリッツ・トート将軍は
「トート機関」(建築や土木の技師団の政府組織)の
生みの親で、V1、V2、V3の基地などの軍事施設や
「アウトバーン」の設計・建設を担当した。1940年に
初代の軍需大臣に任命されたが、1942年2月に
飛行機の墜落事故によって死亡してしまう。
(後任はアルベルト・シュペーア)。

 

●ポルシェ博士は重戦車ティーガー(タイガー)の設計を、「ヘンシェル社」競作の形で行った。

ポルシェ博士の設計は、「ローナー社」時代からお得意のハイブリッド駆動方式だった。しかし、この駆動方式は信頼性に問題があるのと、戦略資源の銅を大量に使用するという難点があり、ポルシェ博士の設計は採用されなかった。

※ このとき試作されたポルシェ・ティーガーの陸軍公式名称は「VK-4501(P)」である。「ポルシェ設計事務所」内では「2号特殊車両」と呼ばれ、設計ナンバーは「タイプ101」であった。

ちなみに「ヘンシェル社」が設計した試作車の陸軍公式名称は「VK-3601(H)」で、この車体は「VK-4501(H)」に発展し、6号戦車E型「ティーガーI」として量産されたのである。

 

 
6号戦車E型「ティーガーI」

「ヘンシェル社」の駆動方式に問題点が少ないことから、
「ヘンシェル社」の試作車が採用された。1942年8月から量産開始。
この戦車は88ミリ砲を主砲に搭載し、装甲の厚さが100ミリもあり、
各地の戦線で敵戦車を次々と撃破して、ドイツ装甲師団の名声に
貢献した。だが、重量が56トンもあるために速度が遅く、
航続距離が短いという欠点があった。

 

●このとき試作されたポルシェ「タイプ101」は、「タイプ100」を大急ぎで拡大発展させたものだったため、その設計は「タイプ100」によく似ていた。

ただし車体幅が広がり、装甲も強化され、全体としては洗練が進んでいた。

 

 
(左)「2号特殊車両」(設計ナンバー「タイプ101」)の側面図
(右)走行テスト中のポルシェ「タイプ101」(=ポルシェ・ティーガー)

 

●このとき試作された90台のポルシェ「タイプ101」(=ポルシェ・ティーガー)は自走砲改装され、

「フェルディナント」の名が付けられた。

 


重駆逐戦車「フェルディナント」

この名称は設計者ポルシェ博士の名前に由来するものだが、
1944年には「エレファント(象)」と改称されている。この戦車は
エンジンで発電機を回して駆動用モーターを回すという特異な駆動
装置を持っていたため、機械故障が多いという欠点があった。

 

「ティーガーII」の開発でも、「ポルシェ設計事務所」「ヘンシェル社」競作し、ヘンシェル案が採用された。

ポルシェ案はキャンセルされたが、ポルシェ砲塔50基がすでに完成していたため初期生産分に回された。

※ この「ティーガーII」は重量が70トン近くもあった。当時の戦車の主流が30トンだったことを考えると、2倍以上の大きさだった。

 


6号戦車B型「ティーガーII」(ポルシェ砲塔型)

「ケーニヒス・ティーガー(キング・タイガー)」とも言い、
枢軸・連合両軍を通じて最強の重戦車である。最初の50台には
曲線的なフォルムの「ポルシェ砲塔」が搭載されていた。

 

●その後、「ポルシェ設計事務所」は「3号特殊車両」(設計ナンバー「タイプ180」)と呼ばれる戦車の設計に着手した。

1942年2月、「陸軍兵器局」は「ポルシェ設計事務所」にこの戦車の100台の生産を発注しており、その後「VK-4502(P)」の公式名称を与えている。計画では1943年3月には5台が完成し、その後に量産が行われることになっていた。

しかし開発は、機関とサスペンションのトラブルでかなり難航し、それにうんざりした「陸軍兵器局」は1942年11月に大量生産の発注をキャンセルし、わずか3台のプロトタイプの製作に切り替えてしまった。しかし結局、それさえも完成せず、計画は全くのペーパープランに終わってしまったのである。

 


「3号特殊車両」(設計ナンバー「タイプ180」)の側面図

エンジンと足回りは「タイプ101」の発展型とされ、電気推進方式と縦置き
 トーションバーが踏襲された。回転式砲塔は車体後部に搭載される予定だった。

 

●1941年初頭、ソ連で100トン級重戦車が開発されているという情報を得たドイツ軍は、これに対抗しうる超重戦車の開発を開始した。

これを知ったヒトラーは1942年3月ポルシェ博士に対して超重戦車「マウス」の開発を命じた。

1943年12月にテスト走行を開始した「マウス」は、重量188トン、ダイムラー・ベンツ製の(本来は航空機用の)V型12気筒、1080馬力エンジンを搭載していた。127ミリの主砲と75ミリの副砲を備えていたが、主砲は当時の駆逐艦のそれと同じ口径だった。最高時速は20キロだったが、この重量では行動できる場所は限られていた。

※ この超重戦車「マウス」(ドイツ語でハツカネズミの意)は、「ポルシェ設計事務所」内では「4号特殊車両」と呼ばれ、設計ナンバーは「タイプ205」であった。

 

 
ポルシェ博士が設計した超重戦車「マウス」
=「4号特殊車両」(設計ナンバー「タイプ205」)

駆動方式はポルシェ博士お得意のハイブリッド駆動方式で、大戦が
終わったとき、試作タイプが2台完成しており、さらに9台の「マウス」が
製作中だった。最終的には全部で100台作られるはずだったという。


超重戦車「マウス」とソ連の主力戦車「T-34/85」の比較図

 

●この超重戦車「マウス」について、ドイツ装甲部隊の創始者ハインツ・グデーリアン大将

「ヒトラーとその顧問の幻想から生まれ出た怪物」と叙述している。

 


ドイツ装甲部隊の創始者
ハインツ・グデーリアン大将

青年時代に軍人として第一次世界大戦を
経験した彼は、大戦後、「交通兵監部」で革新的な
無線通信との統合による自動車化・装甲部隊を構想し、
のちの「電撃戦」の原形を作る。その後、ヒトラーの登場に
よって「装甲部隊による進撃理論」が支持され、大将に昇進
した後には、ドイツ装甲部隊を率いて疾風怒濤の活躍を実践し、
その理論を証明。第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った。

その後の東西両戦線ではヨーロッパの地図を塗り替える戦果
となり、ドイツ装甲部隊は無敵と言えた。これを称して「疾風
ハインツ」との異名を冠せられる。数回の罷免・復職を経て、
最後は「装甲兵総監」として終戦を迎える。戦後は、
アメリカ陸軍「機甲学校」で講義を行ったり、
回想録を執筆して余生を送った。

 

●ところで、第二次世界大戦が開始された当初、ドイツは戦争が長期化することを予想しておらず、戦車の生産は非常にのんびりしたものであった。

しかし、その予想に反して戦争は長期化し、さらに独ソ戦の開始によって短期決戦の電撃戦は、泥沼の長期消耗戦に変貌してしまった。(「ドイツ装甲部隊の父」と呼ばれていたハインツ・グデーリアン大将は、「電撃戦」は短期決戦理論だから、長期消耗戦はドイツの負けと考えていた)。

そこで、ドイツの「陸軍兵器局」は1943年4月、第6課チーフエンジニアのH・E・ニーカンプを長とする研究グループを組織し、次世代新型装甲戦闘車両の開発を開始した。

これがいわゆる「Eシリーズ」と呼ばれる軍事プロジェクトである。

※ Eシリーズの「E」とはドイツ語の「開発=Entwicklung」の頭文字である。

 

  

   

   


ソ連西部の都市「スターリングラード」(現在のボルゴグラード)での攻防戦で、
フリードリヒ・パウルス元帥率いるドイツ軍が降伏(1943年1月31日)。
9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後シベリアの収容所から
生きてドイツに帰った者は、わずか6000人だった。

※ この戦いは、第二次世界大戦の決定的な転機となった。
 (独ソ戦は、泥沼の長期消耗戦に変貌していった)。

 

●この「Eシリーズ」計画の意図するところは、

まず、軍需生産の潜在力を全て利用しようというもので、まだ装甲戦闘車両の生産に関係していない自動車産業を生産に参加させようとするものであった。

そして、車両の設計に際しては、規格の統一化を進めて生産の簡略化生産時間の短縮化を図り、コストを削減し、同時に多用途に使用可能なものとするというものであった。


●この開発計画における6種の装甲戦闘車両は以下の通りである。


「E-5」……5トン(軽装甲偵察車、軽装甲兵員輸送車)

「E-10」……10〜15トン(多目的型軽装甲車両、軽駆逐戦車)

「E-25」……25〜30トン(回転砲塔を持たない駆逐戦車)

「E-50」……50トン(中戦車=5号戦車「パンター」の後継車種)

「E-75」……75〜80トン(重戦車=6号戦車「ティーガーII」の後継車種)

「E-100」……130〜140トン(超重戦車)

 


「E-25」の側面図

※ 「Eシリーズ」は全てエンジンを後部に搭載する
予定で、完成していればこの車体重量にもかかわらず、
最大時速40キロの走行が可能であったという。

 

●この開発計画で最も進行していたのは、最も大型の車両である超重戦車「E-100」であった。

「E-100」の開発は、1943年6月に開始された。開発契約は「アドラー社」に与えられ、ヤェンシェック博士を中心に製作が行われた。しかし1944年、ヒトラーによって開発中止命令が出されたため、生産を目標とした開発作業は取りやめられ、試作車だけがわずか3人の「アドラー社」の技師によって細々と続けられた。

しかし結局、完成にはいたらず、敗戦まぎわに連合軍の手に落ち、戦後(1945年6月)にイギリスに移送されてしまった。

 


超重戦車「E-100」の原型モデル

アーチ型の「装甲スカート」が特徴である。車体形状は
「ティーガーII」と類似したものであったが、前面装甲板は
耐弾性を強めるために30度の傾斜となっていた。装甲厚は
「マウス」よりは若干劣るものの充分すぎるほどのものであった。

砲塔は結局製作されず、試験時には同重量のダミー砲塔を搭載
することとされていた。「マウス」と同一の砲塔を搭載する計画
だったと言われるが、最初はその予定ではなかったという。

  
超重戦車「マウス」と超重戦車「E-100」の比較画像

 

この「E-100」は、同じ超重戦車である「マウス」と連携して開発が進められたが、「マウス」はヒトラーの直接命令であり、「E-100」は「陸軍兵器局」主導の開発だった。

よく「E-100」は、ポルシェ博士「マウス」に対する当て馬として作られたと言われるが、Eシリーズを一体として考えれば、決してそれだけとは思えず、やはりある程度の戦力バランスを考えた上での計画といえる。

 

 
連合軍に接収された超重戦車「E-100」の車体

エンジンやサスペンションは未装着だったものの車体はほぼ完成していた

 

「Eシリーズ」計画について、ある軍事研究家は次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

結局、Eシリーズはどれとして生産はおろか、完成車体になったものもなかった。Eシリーズとは一体何だったのだろうか?

一言でいえばそれは戦車王国ドイツの見た最後の夢であった。技術者はあまりにも多くの新機軸を盛り込もうとしたため、迷いの森に入り込んでしまったのだ。

大戦時、ドイツが実用化した新技術には次のようなものがある。ロケット、ジェット機、水中高速潜水艦などである。

有名なのがジェット機だが、最近の説によると実用化が遅れたのはヒトラーの干渉よりも、技術者の研究熱心ゆえの改修にあったという。悪く言えばひとりよがりの自己満足である。

それは潜水艦(Uボート)のときにも共通する。ありとあらゆる装備を油圧駆動とするため、結局実戦には間に合わなかったのだ。

もし、Eシリーズが戦前に計画されていたらどうなっただろうか。完成しただろうか、それともやはり迷いの森に落ちてしまったのだろうか。それは神のみが知りえる問題である。しかし結局、それを戦前に計画できなかったことこそが、その答えではなかろうか」

 

 

 

●さて、ナチスの「巨大戦車」といえば、「クルップ社」が計画した「ラーテ」の存在を忘れてはならないだろう。

これはもう、戦車というよりは「陸上戦艦」もしくは「移動要塞」とでも呼ぶべきものであった。

もちろん実用化されたわけではなく、あくまでもそういう計画があったにすぎないが、

予想重量1000トン、三分割された履帯と転輪を持つ長大な車体に、巡洋戦艦に相当する2連装主砲(28センチ砲)の砲塔をそっくりそのまま搭載してしまうというバケモノ戦車であった。

 


1000トン超重戦車「ラーテ」の想像図


超重戦車「マウス」と1000トン超重戦車「ラーテ」の比較画像


※ 「ラーテ」のドイツ語読みは「ラッテ(Ratte)」(ドブネズミの意)である。
これは「マウス」よりも巨大戦車を作れるぞ!という「クルップ社」のポルシェ博士に
対する当てつけのネーミングだと言われている。計画名は「ラントクロイツァー P.1000」といい、
記号「P」の後の数字は重さを意味していることから「1000トン超重戦車」とも呼ばれる。全長35m、
全幅14m、全高11m、搭乗員20〜40名前後で、副武装として12.8センチ砲や2センチ対空機関砲
なども多数搭載。これらは遠隔操作による射撃が可能だった。また、車体後部および側面上部に設置
された対人用榴弾発射器も砲塔内部から自動操作可能で、近接戦闘を挑んでくる歩兵に対して
有効な兵装であった。まさに「ラーテ」は完全武装の巨大な「陸上戦艦」であったのだ。

 

●驚くべきことに、ナチス・ドイツ軍は「ラーテ」をさらに上回る超ド級の「巨大戦車」を計画していた。

その名を「ラントクロイツァー P.1500モンスター」と呼ぶ。

1942年末、Uボート設計の特別顧問であった「クルップ社」の技師グローテが、主任のハッカーに設計図を製作するよう指示。この時に生まれたのが、口径80センチの巨砲(ドーラ砲)をそのまま搭載する「超巨大戦車」の図面であった。

本車両は250ミリ厚の前部装甲を持つ予定であり、駆動装置としてはUボート用ディーゼルエンジン(2200馬力)を4基搭載することになっていたという。

(もちろん、この計画は構想で終わってしまった……)。

 


「ラントクロイツァー P.1500モンスター」の正面図


超重戦車「マウス」と「ラントクロイツァー P.1500モンスター」の比較画像

「陸軍兵器局」の基礎計算では、車体重量およそ1500トン、全長42m、全幅18m、全高14mと
示されたという。その大きさから砲を旋回させることは出来ず、「自走砲」として固定搭載を予定
していたという。搭乗員は100名以上を必要とし、鈍重かつ巨大な図体のため、道路または
鉄道による戦略的な輸送が難しいことなどから、この計画は構想で終わってしまった。

 

 


 

■■追加情報 2: 米軍、1946年にV2ロケットを宇宙へ発射していた(映像を公開)


DATE: 2006.2.24
SOURCE: Flight International

Historic video: V-2 rocket reaches space October 1946


------------------------------------------------------------


1946年10月に、米軍はニューメキシコにあった
当時の米軍砲兵隊基地からドイツから捕獲したV2ロケットを発射。
ロケットは342,900ft(104,600m)の高度に達し、宇宙空間に到達していた。

ジョンズ・ホプキンズ大学の応用物理学研究所によって提供されたカメラを搭載し、
100フィートから65マイル(105km)に達するまでの連続映像を撮影していた。

 



↑宇宙から初めて撮影された地球の画像

この時点で、105kmの高度で撮影された。カメラは、
地平線から理論上1,200kmだった。また、写真は、
10,360平米の地表を収めている。

 

↓【動画リンク】 カメラを搭載したV2ロケットの貴重な映像(1946年撮影)


Windows Media Video format
http://www.flightglobal.com/Downloads/video/v2rocket.wmv

Apple QuickTime format
http://www.flightglobal.com/Downloads/video/v2rocket.mp4

 

 


 

■■追加情報 3: その他の動画(リンク集)


V2 rocket missile (V2ロケット)
http://www.youtube.com/watch?v=Skq5gy5RHgo


HUGE freaking cannon from WW2 - Dora (ドーラ砲)
http://www.youtube.com/watch?v=KkiDaSLKib0


「ゼンガー計画」について
http://www.youtube.com/watch?v=EduXTy8EGLg

 



 

■■関連書籍 (画像クリックで詳細表示)


    

 



 

■おまけ情報(関連記事)■


「アウトバーン」の建設と「フォルクスワーゲン」の開発


ナチスの「化学兵器」】 【「ナチス製円盤」の謎


ナチスの科学技術を没収したアメリカ

 


 


▲このページのTOPへ





 INDEXに戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.