No.a4fha100

作成 1998.1

 

ハザール王国の歴史

 

~誕生から滅亡まで~

 

「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって
カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家です。
9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない
ユダヤ人以外の「ユダヤ教国家」となりました。

この謎に満ちた「ハザール王国」の歴史を
誕生から滅亡まで、大雑把に追って
いきたいと思います。

 
第1章
ハザール人と
「ハザール王国」の誕生
第2章
「アラブ帝国」との戦いと
「ビザンチン帝国」との同盟
第3章
「キエフ大公国」の台頭と
「ハザール王国」の衰退
第4章
「キプチャク汗国」の成立と
ハザール人の離散

おまけ
『ハザール 謎の帝国』の紹介
~訳者まえがき~
おまけ
高水準の文化・経済活動を
展開していたハザール王国
おまけ
当時のアラブ知識人たちによる
ハザール王国に関する記録

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■■第1章:ハザール人と「ハザール王国」の誕生


■北コーカサス地方で最も力のある種族となったハザール人


●ハザール(英語で「Khazar」、カザールともいう)の揺籃の地は、カスピ海沿岸の草原の地である。この草原には多種多様な民族が居住し、東方の旅行家・地誌家も、またビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家も、これら諸民族が絡む様々な事件・事変について記録を後世に残している。

 


↑今でも民族紛争が絶えない黒海とカスピ海の周辺地域

※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は
5000m級の山が連なるコーカサス山脈を境に北と南の地域に分かれる

 

●ただし、ハザール人がいつ頃登場したのか具体的な記録はない。448年、ビザンチン帝国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、「戦士民族」としてのハザール人が登場している。この時期のハザール人はフン族の配下で活動していたようである。


●アッチラ大王の死後、フン帝国が崩壊すると、東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。そこを通っていくつもの遊牧民が波が打ち寄せるように次々と東から西から押し寄せてきた。

6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国のカワード1世の治世、ハザール人はコーカサスの向こうの地域、すなわちグルジア、アルバニア、アルメニアを占領した。6世紀半ば、カワード1世の息子であるホスロー1世の治世にも、ハザール人のペルシア国境地帯、特にアルメニアとアルバニアへの侵入は止むことがなかった。

この時期、ハザール人はコーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった。その後、ハザール人は台頭してきた突厥(西トルコ帝国)の配下に組み込まれたが、帝国内でも最強の実戦部隊として活躍した。


●627年、ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレイオスはササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結。ハザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォンに迫った。なおこの時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場である。

 

 

■「ハザール王国」の誕生


●7世紀中頃、カスピ海沿岸草原においてハザール王国(ハザール汗国)の創成が開始された。権威を誇った突厥(西トルコ帝国)は分裂し滅び、ハザール人は彼らの支配から離れることができた。ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。

ハザール人は勢力を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服属させ、黒海沿岸北部も手中に納め、果てはクリミアの草原の大部分を占めるまでに至ったのであった。

※ クリミア沿岸諸都市もハザール王国に組み込まれた。

 

 

 


 

■■第2章:「アラブ帝国」との戦いと「ビザンチン帝国」との同盟


■ハザール王国と「アラブ帝国」との戦い


●北コーカサスの山麓や隣接草原においてハザール王国が国力を充実させていた頃、新たな敵が南方から台頭してきた。アラブ帝国(イスラム帝国)である。アラブ軍はシリアとメソポタミアを蹂躙するや、そのまなざしを北方に向け始めたのである。裏コーカサス諸国はアラブ軍との戦争で火の手に包まれるようになった。

7世紀の半ばからアラブ軍は組織的に裏コーカサス攻撃を繰り返し、略奪を欲しいままにするようになった。アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し、都市を略奪して破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を強奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去るのを常とした。


●ハザール王国とアラブ帝国(イスラム帝国)は大きな戦争を2回している。653年の「第1次アラブ戦争」と、721年の「第2次アラブ戦争」である。

「第1次アラブ戦争」はアラブ軍がハザール王国に遠征して、撃破された。「第2次アラブ戦争」はジェラーフ率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで始まり、737年までの16年間続いた。


●「第2次アラブ戦争」においてアラブ遠征軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入してアルデビールを攻略し、アラブ軍を撃滅。しかし、新たにマルワーン率いるアラブ軍が遠征してくると、ハザール軍は2つの峠から奇襲をかけられ、ヴォルガ川まで退却。最終的にアラブの将軍マルワーンに講和を求めることを余儀なくされたのであった。


●この「第2次アラブ戦争」はアラブ史料では双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍となり、これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。

※ 650年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入、ピレネー山脈をこえてフランクに入ったが、732年トゥール・ポワティエで敗北し、西への進出は終了。東は中央アジアまで進出したが、751年タラス河畔の戦いで唐に敗れ、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了したのである。

 

 

■ハザール王国と同盟関係にあった「ビザンチン帝国」


●ハザール王国はササン朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返したが、その両国と敵対していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあった。これまでこの二大勢力は互いに戦ったことは一度もなかった。それどころか、ハザール王国はしばしばビザンチン帝国の敵と戦った。それは明らかにビザンチン帝国に有利となることだった。


●8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、最後にヴォルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係も明らかに友好的な状態が続いていた。9世紀に入って数十年の間、ハザール王国は平和を享受した。


●ハザール王国とビザンチン帝国の友好関係は、次の出来事に大きく象徴されている。

ビザンチン帝国を775年から780年まで支配したレオン4世。彼はハザール王室の血を持つ皇帝で「ハザールのレオン」と呼ばれていた。彼は前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれたハーフであったのだ。この結婚はビザンチン帝国とハザール王国の友好を願って、732年に行われたものだった。

 

 


 

■■第3章:「キエフ大公国」の台頭と「ハザール王国」の衰退


■新たな強敵ルス人の台頭


●アラブ帝国に代わって、新たな強敵が北方から台頭してきた。バイキングと呼ばれる北方部族の雄ルス人(後のロシア人)である。834年、ハザール王はビザンチン帝国に北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。

この「サルケル砦」のおかげで、ドン川の下流域やドン・ヴォルガ水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。

※ 10世紀半ばまでの間、全体として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に向けられていた。それに対してハザール人とは摩擦や時には衝突はあったものの、本質的には交易を基礎とした関係を結んでいた。ハザール人はルス人の交易ルートを押さえることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜けていく全ての貨物に10%の税金を課すこともできた。

 

 

■ハザール王国のユダヤ教への改宗


●ところで、この時期のハザール王国内では国の未来を左右する大きな変動が生じていた。8世紀末から9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799~809年)でユダヤ教に改宗してしまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。

しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は次第に悪い結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことになっていった。


●ハザール人の貴族同士の間ではユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると反乱者の一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れたのである。

この事件は反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。王国内の反乱分子(カバール・ハザール人)は家族とともにヴォルガのロストフの地に亡命した。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつであり、ここでルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の息子との婚姻が行われた。こうして「ルーシ・ハン国」(後のキエフ大公国の前身)が成立したのである(この「ルーシ・ハン国」は後にハザール王国の後継としてビザンチン帝国に公認されるようになる)。

※ なお、国外に逃亡した反乱分子の一部はマジャール人(ハンガリー人の祖)と合流し、指導者層となってハザールの影響を及ぼすことになる。



●860年頃、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合したのである。キエフという名前は、もともとはハザールの将軍クイの砦からついた名前である(諸説あり)。

やがてこのキエフはルス人の町として発展し(ロシアの町の母となり)、この町の名をとった「キエフ大公国(キエフ・ルーシ)」が最初のロシア国家の揺籃となった。ルス人がキエフに住み着いてから、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威はますます増加し、この後200年の間、ビザンチン帝国とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行ったり来たりした。

 

■ハザール王国の衰退


●ビザンチン帝国とキエフ大公国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合うようになる。それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。ハザール人の王国はビザンチン帝国とキエフ大公国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール王国の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとってもキエフ大公国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていた。


●9世紀末あたりから、ルス人の艦隊がハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。そして913年に800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によってルス人はカスピ海に足場を築いた。

965年にはキエフ大公国のスビャトスラフ1世によって、ハザールの防衛拠点「サルケル砦」が陥落してしまった。この後、ハザール王国の首都イティルも甚大な被害を受けた。

 

 

●ところで『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人がキエフ大公国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル大公は、988年に先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになった。これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになってしまう。

また、同じ時期にウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナと結婚。これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉し、それに代わってビザンチン帝国とキエフ大公国の「対ハザール同盟」ができたのである。


●なお、当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つであった。

キエフ大公国のウラジーミル大公に嫁いだのはビザンチン帝国の王女アンナであったが、アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげなく拒否している。理由は格が違うというものであった。そのアンナがウラジーミル大公に嫁いだということは、ビザンチン帝国とキエフ大公国の格が違わなかったことを示している。それはキエフ大公国がハザール王国の後継者であるからであった。

※ ウラジーミル大公がビザンチンなど西側の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(可汗)というトルコ系(ハザール)特有の呼び名で呼ばれているのはこれを反映している。

 


10世紀前後のヨーロッパとオリエント

 

●ビザンチン帝国とキエフ大公国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び敗北を喫した。

ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われた。ハザール王国の西部方面(クリミア半島含む)では、比較的被害は少なかったが、都市は荒れて交易路も乱れた。

※ 首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで領土こそ縮小したものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続ける。


●ちなみにハザール・ユダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町の中にも近郊にも存在していて、ハザール王国の崩壊期にハザール人が多く流入して発展したといわれている。事実、ロシアの年代記には「ゼムリャ・ジュドフカヤ(ユダヤ人の国)」から来る「ジェドヴィン・ボガトウイル(ユダヤの勇士)」たちに何度も言及している。

 

 


 

■■第4章:「キプチャク汗国」の成立とハザール人の離散


■クマン人(ポロヴェツ人)の侵入


●キエフ大公国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のヴォルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇るようになったわけだが、ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。

遊牧民の絶え間ない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった。


●ビザンチン帝国は新たな同盟国であるキエフ大公国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になるだろうと計算していたが、実際はそうなるどころか、キエフの衰退は速かった。それはロシアの歴史の第1章の終わりで、その後1ダースもの独立した大公国が互いに果てしなく争いあう空白の時期が続いたのである。


●この力の空白地帯に新たに乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。

それに続いて今度はモンゴル人が侵略してきた……。

 

■モンゴル軍の侵入と「キプチャク汗国」の成立


●1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。

そして1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫のバトゥ・ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ヴォルガ河畔からロシアに侵入したバトゥ・ハンの遠征軍は、キエフ大公国を壊滅させ(キエフ占領)、主要都市を次々と攻略した。さらにその一隊はポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。


●こうしてバトゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没するとバトゥ・ハンの遠征軍はヴォルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐヴォルガ川下流のサライを首都として「キプチャク汗国」を建てた(1243年)。

こうして、キプチャク汗国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まったのである。


●ちなみに、このキプチャク汗国が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザール王国の首都だった都市である。

このことから、ハザール王国がいつ滅亡したのか具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」したことがわかる。

 

■ハザール人の離散


●なお、ちょうどこの時期、バチカンの情報網は離散したハザール人についての記録を残している。

1245年、ローマ教皇イノセント4世はキプチャク汗国のバトゥ・ハンに使節団を送った。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にヴォルガ川下流にあるキプチャク汗国の首都に無事到着した。

この使節団の長だった修道士カルピニは帰国した後、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。

今のところ、この記録が民族としてのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。

 


1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡

※ 朝日新聞は1992年8月20日に以下のようなニュースを伝えている。

「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の
遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国
という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた。〈中略〉この7月、
報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で1週間の発掘調査を実施し、
カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」

 

●最後になるが、ハンガリーの歴史学者アンタル・バルタ博士は著書『8~9世紀のマジャール社会』でハザール人に数章をあてている。8~9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には一節をあてているのみで、しかも困惑もあらわである。参考までに紹介しておきたい↓

「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗教の問題には読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教となったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次のような所見を述べるにとどめたい。

この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国によるキリスト教伝道活動や東からのイスラム教の影響およびこれら二大勢力の政治的圧力をはねつけて行われた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:『ハザール 謎の帝国』の紹介 ─ 訳者まえがき


●「ハザール王国」の歴史については、旧ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士が書いた『ハザール 謎の帝国』(新潮社)が詳しい。参考までにこの本の「訳者まえがき」を抜粋しておきたい。

 


『ハザール 謎の帝国』
S・A・プリェートニェヴァ著(新潮社)

 

──訳者まえがき──


「ハザールの首都発見」のニュースが日本中を駆け巡ったのは訳者が本書を訳しかけていた1992年8月のことである。

「カスピ海の小島に防壁と古墳」(毎日新聞)「ユダヤ帝国ハザール幻の首都?─ ロシアの学者・日本の写真家ら発見」(朝日新聞)「東欧ユダヤのルーツ解明に光」(読売新聞)──これらが大新聞の紙面を飾った見出しであるが、謎の国ハザールについての日本最初の大々的新聞報道を胸躍らせて読んだ人はあまり多くはなかったのではなかろうか。それほどハザールは日本ではなじみがない。

ハザールは6世紀ヨーロッパの東部に突如出現した騎馬民族である。出自は定かではないが、民族集団として注目を受けるようになって以来アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用する。

彼らは近隣の民族を圧倒し、7世紀中頃王国を築き、カスピ海沿岸草原、クリミア半島に覇を唱えるが、キリスト教のビザンチン帝国とイスラム教のアラブ帝国の狭間に立ってユダヤ教を受容して国教とするという史上稀有に近い行動をとる。

王国の底辺を支えた民の人種は雑多と想像されるが、国家建設の中核となったのは、170年余にわたって万里の長城の内外で中国と激烈な死闘を演じ、遂に唐の粘り強くかつ好智にたけた軍事・外交の前に敗れ去り、新天地を求めて西へ走った突厥の王家、阿史那(あしな)氏の一枝であったこともまた興味を引くところである。まさに東西交流の要所にあって、両者を強く結びつける役をはたした民族であり、国家であった。

マホメットの死後まもなくアラブ勢力は急速に強大化し、近辺諸国をかたっぱしから征服し始める。北に向かった大軍勢はコーカサスヘと突入するが、それに立ちはだかったのは雪を頂く峨峨たる山脈だけではない。要所要所を固めていたハザールの組織的軍隊であった。防衛軍は伝統的騎馬戦闘術(例えば馬車による円陣)までも繰り出して、果敢な抵抗を行い、侵入軍を幾度も南へと撃退する。

もし、アラブ軍がコーカサスを通り抜ければ東ヨーロッパは勿論、中央ヨーロッパヘの道は広々と開かれていた筈である。ロシアもポーランドもハンガリア、はては、チェコもイスラム化したかもしれない。

ハザールはアラブとの戦役を1世紀あまりにわたり闘い抜き、イスラム勢力の東方からのヨーロッパ侵入をくいとめ、現在あるかたちでのキリスト教世界を守ったのである。それは、カール・マルテル指揮下のフランク王国騎兵軍がピレネーを越えて進撃してきたアラブ軍をトゥール・ポワティエ間の戦で撃退したのに比肩される歴史的大功績であると言うキリスト教世界の学者もいる。

しかし、一方は歴史の教科書に大書され、ヨーロッパ人には常識となるに対し、ハザールの「功績」は忘れられ、無視されてきたのは、そのルーツが我々と同じアジア人であったためであろうか。それとも国教がユダヤ教であったためであろうか。

ユダヤ人はローマ帝国により国家を奪われ、国無しの民として世界に離散流浪し、迫害に晒されるが、中世に至って、ハザールというユダヤ教国が東方の遥かかなたの草原のどこかにあるという噂を耳にし、驚喜し、鼓舞され、ハザール国探索活動を展開する。

最も熱心かつ精力的であったのは、10世紀中葉スペインのコルドヴァ王国の外交・通商・財政の大臣の地位にあったユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトであった。彼は、恐らく世界各地に張り巡らされていたであろうユダヤ商人の情報・連絡網を頼りに、遂にハザール国王に手紙を届け、返書を受け取ることに成功する。2人の往復書簡は千余年の時の破壊力に耐え、現在に伝えられ、学者によって解読される。また、前世紀末にはカイロのユダヤ教会堂の文書秘蔵室から大量の古文書が出てくるが、その中にハスダイの探索活動やハザールのユダヤ教市民の救済活動に関する文書が発見され、ハザール国の内情がより細密に描けるようになる。

これだけでも伝奇に満ちた一篇の物語となるが、ハザール史そのものは現在に生きる我々に興味尽きない問題と謎を投げかける。中東和平を契機に世界各地でユダヤ人問題への関心が高まっている。政治や国際関係に関心がない人でも、学芸分野や政界・経済界でのユダヤ人天才・実力者の活躍には目を見張らざるを得ない。

このように世界で耳目を集めるユダヤ人の大部分は、モーセなど『旧約聖書』に登場するユダヤ人とは全く関係なく、10世紀末ルシ(ロシア)に滅ぼされた後、東欧に離散したハザールの末裔であるという説が広まっている。もしこれが本当なら、血で血を洗う戦争を繰り返し、今も流血の惨事を日常的にひきおこす原因となったイスラエルの建国とは一体何だったのか、ということになりかねない。そのような説が正しいかどうか、曲がりなりにも判断するためにはハザール史のある程度正しい知識が我々に今必要となろう。

ハザールが東アジアの島国に住む我々日本人にとりなぜ面白いかは、日本の建国に関し騎馬民族説が声高に唱えられるというだけではない。ハザールでは二重王権が実践されていたということが1つの理由となるのではなかろうか。〈後略〉


1996年1月 城田 俊(モスクワ大学大学院修了のロシア語教授)

 

 


 

■■おまけ情報 2:高水準の文化・経済活動を展開していたハザール王国


●ハザール王国は非常に国際的な国であり、文明世界から少しも隔離されていなかった。あらゆる文化的、宗教的影響に対して開かれていた。ハザール王国は近隣諸国に比べて驚くほど近代的な国家であった。それは家の造作から刑の執行に至るあらゆるレベルに見受けられた。

例えば、当時のブルガール人は王を含めて未だに天幕に住んでいたが、ハザール王はレンガで造られた城に住み、彼の婦人たちは「チークの屋根の宮殿」に住んでいたといわれる。ハザール人以外のイスラム教徒はモスクをいくつか持ち、そのうち一つの尖塔は王城より高くそびえていたといわれる。

 

 

●ハザール王国の文化水準は高かった。美術や工芸、衣装の分野も含めて栄えていた。ハザール人は主な媒介者となって、東欧の半野蛮的部族の間にペルシアとビザンチンの美術を広めたのであった。

旧ソ連の考古学者バデルは、ペルシア様式の銀器が北方に広まったことについて、ハザール王国が果たした役割を強調している。スウェーデンの考古学者T・J・アルネは、スウェーデンで発見された装飾皿、止め金、締め具などササン朝式やビザンチンの影響を受けたものは、ハザール王国内からその影響下にある地域で作られたと言っている。


●発掘によって明らかになったことだが、8~9世紀にかけてハザール人は手のこんだ要塞をいくつも連らねて王国を囲み、広い草原に面した北方の前線を守っていた。これらの要塞はおおよそ半円の弧を描いてクリミア(ここはハザール人が一時支配していた)からドネツ川とドン川の下流を横切り、ヴォルガ川に達していた。南側はコーカサス山脈で守られていた。西側は黒海に、東側は「ハザールの海」カスピ海に守られていたのである。


●ハザール王家の財産の主たる収入は、外国との貿易によるものだった。ハザール王国の住民は農業や漁業に力をいれる一方、近隣諸国と盛んに交易を行い、ハザールの商人は中継貿易をしていた。いくつもの大規模な交易キャラバンが中央アジアとヴォルガ・ウラル地帯の間を定期的に往復していた。

ハザール王国の商品はバクダッドでも見られ、ハザール商人がコンスタンチノープル、アレクサンドリアやもっと遠くサマラやフェルガナでも見られたという。ハザール王国は南方から、またビザンチン帝国から実に様々な製品を輸入し、特に近西アジアやエジプトの諸都市から運ばれてくるビーズ、ガラス玉は全国津々浦々にわたっていたという。


●ハザール王家の財産は、貿易以外に様々な徴税によって潤っていた。広大無辺のドン川沿い草原に横たわるハザール王国を横切って、アジア諸国ならびにビザンチン帝国とスラブ族ならびにバルト・フィン族を結ぶ通商路がいくつも通っていたが、ハザール王国はその通商路を通過する隊商から「通行税」を徴収していたのである。

またタマン半島・クリミア半島の町々の活発な商業活動は、ハザール王国の管理下にあり、外からやってくる商人からも内に住む土地の商人からも「関税」を徴収していた。

さらにハザール王国が近隣民族から徴収するところの「貢税」もあった。ハザール王国存続の初期(アラブ戦役まで)貢税を課せられていたのは、北コーカサスの山岳民族、アラン族、ボスポラの定住民であった。ハザール王国に敗北したブルガール種族連合も、また、なんらかの従属的位置に立たされていた。さらにその後、北方および北西のポリャネ族、セヴェリャネ族、ヴァティチ族などのスラブ諸族も貢税を課せられるようになった。

 

 


 

■■おまけ情報 3:当時のアラブ知識人たちによるハザール王国に関する記録


■アラブの歴史学者アル・マスディによる記録


●「アラブのヘロドトス」として知られ、『金鉱と貴石の草地』の著者である歴史学者アル・マスディは、945年頃のハザール王国の様子について次のように書いている。

「ハザール軍では7000人が王とともに進軍した。胸あて、ヘルメット、鎖かたびらの上着をつけた射手も一緒だった。イスラム教徒と似たような装備と武器を持った槍騎兵もいた。……その一帯で正規の常備軍を持っているのはハザールの王だけだった。」

 

■アラブの地理学者イブン・ハウカルによる記録


●多くの旅を重ね、977年頃に『東洋の地誌』を書いたアラブの地理学者であり歴史学者でもあるイブン・ハウカルは、ハザール王国について次のように書いている。

「ハザール王はいつも皇帝の血をひく家系の人間であった。重大なことでもなければ誰も彼に近づくことは許されなかった。彼に会う時は、人々はひれ伏して地面に顔をすりつけ、近寄って話をする許しが出るまでそうしていた。ハザール王が死ぬと、その墓の近くを通る者は誰でも徒歩になり、墓に敬意を表し、離れる時も墓が視野に入っている間は馬に乗ってはいけなかった。この王の権威は非常に絶対的で、彼の命令には盲目的に服従するようになっていた。そのため、貴族の誰かが死んだほうが好都合だと考えた時には、ハザール王が『行って自殺せよ』と言えば、その人はただちに家へ戻って言葉どおり自殺するだろう。」

「ハザール王の位は次のようにして一つの家系に受け継がれていく。新しいハザール王がその位を継ぐ時、彼は1ディレム(小銭)も持ってはいないが、彼の尊厳は確立されている。ある信じるに足る人から聞いた話であるが、ある若者が公共市場の小さな店で取るに足らない品を売っていた。人々は『今のハザール王が亡くなったらこの人が玉座に上るだろう』と言っていた。しかし、この青年はイスラム教徒だった。そしてハザール王の位は、ユダヤ人のみに与えられるのだ。ハザール王は黄金の玉座と館を持っている。これは他の人には許されていない。ハザール王の宮殿は他のどの建物より立派である。」

「ハザール王は、彼に仕える12万の兵を持っていた。1人が死ぬとただちに他の誰かが選ばれてその位置につくのだった。」


●ハザール王国の土地の肥えた一帯では、牧場や耕地が60マイルから70マイルもとぎれることなく続いていて、広大なブドウ園もあったという。イブン・ハウカルは次のように書いている。

「ハザール王国にサマルダンという町があるが、そこにはたくさんの果樹園や菜園があり、ダルバンドからセリフレに至るまで全ての町が菜園や農園で埋め尽くされている。全部で4万もあるということで、その多くはブドウを産する。」

 

■アラブの学者イブン・ナムディによる記録


●世界的な出版目録である『フィリスト』(987年)の著者イブン・ナムディによれば、当時のハザール人はヘブライ語のアルファベットを使っていたという。

このことは2つの目的に役立った。一つはヘブライ語で学問的な講演をするために(西欧世界で中世ラテン語が使われたように)、もう一つはハザール王国で使われていた色々な言語を書き記すアルファベットとして(西欧世界で様々な方言を書くためにラテン語アルファベットが使われたように)である。

 

■アラブの旅行家イブン・ファドランによる記録


●10世紀のバグダッドのカリフ、アル・ムクタディルは、ブルガール王からの招待に応じて外交使節団をはるばるブルガール人の国へ派遣した。外交使節団は921年にバクダッドを出発して、ペルシアとブハラを通り、ヴォルガ川地方へと旅し、翌922年にブルガール人の国(ブルガール宮廷)に到着した。

この外交使節団の一員だったアラブの旅行家イブン・ファドランは、この旅の様子を『手記(リサラ)』に書き記したが、この中にハザール王国に関する記述(ブルガール王の話)がある。


●当時のブルガール王はハザール王国を恐れていた。実際、恐れるだけの理由があった。イブン・ファドランは『手記』にこう書き記している。

「ブルガール王の息子は人質としてハザール王に取られていた。ハザール王はブルガール王に美しい娘がいると報告を受けた。王は彼女に求婚する使いを出した。ブルガール王は口実をもうけて結婚に同意しなかった。ハザール人は別の使者をよこし、王はユダヤ人で娘はイスラム教徒であるにもかかわらず、力ずくで彼女を連れていった。しかし彼女は王の宮廷で死んだ。

ハザール人は再び使者を送り、ブルガール王のもう1人の娘を求めた。しかし使者が到着したその時、ブルガール王は急いで娘を臣民であるアスキルの大公と結婚させた。ハザール人が姉むすめの時のように力ずくで連れていくのを恐れたからである。ブルガール王がカリフと通信を始め、ハザール王を恐れているので砦を築いてほしいと頼んだただ一つの理由がこれである。」


●このブルガール王はイブン・ファドランにハザール王国の実態について語ったが、その内容は次のようなものであった。

「称号をカガンというハザールの王について言えば、彼は4ヶ月に一度しか人前に姿を現わさない。人々は彼を『大カガン』と呼ぶ。彼の副官は『カガン・ベク』と呼ばれる。ベクは軍隊を指揮し、補給し、国家の問題を処理し、人前に出て戦いを指揮する。近隣の諸王は彼の命令に服する。彼は毎日、カガンの御前で奉仕する。その時には尊敬と謙譲を表すため裸足で、手には木の棒を持つ。おじぎをし、棒に火をつけ、燃え尽きると王の右側の玉座に座る。ベクに次ぐ地位にいるのは『ターンドル・カガン』と呼ばれ、その次は『ジャウシグル・カガン』と呼ばれる。」

「慣わしとして大カガンは人々とつきあわず、話しもせず、今述べた人々以外に会うことも許さない。人を逮捕したり、放免したり、罰を与え、国を治める力は彼の副官カガン・ベクのものである。大カガンが死ぬと、彼のために大きな建物が造られる。中には20の部屋があって、どの部屋にも墓が掘られる。石を砕いて粉にし、樹脂で覆われた床の上にまく。

建物の下には川が流れており、この川は大きくて流れも速い。人々は川の水が墓の上を流れるようにする。こうすれば悪魔も人も虫も、はいまわる生物も彼に触れられないからである。彼が埋葬されると、埋めた人々は首を切られる。どの部屋が彼の墓なのか誰にもわからないようにするのだ。墓は『天国』と呼ばれ、人々は『大カガンは天国へ行った』と言う。すべての部屋には金糸を織りこんだ絹の錦が敷きつめられている。」

「ハザールの王は25人の妻を持つ習慣である。妻はみなハザールに同盟する王の娘である。娘達は同意の上か、力ずくでか連れて来られた。彼は60人の側室も持っているが、いずれも大変な美人である。」

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ハザール王国史(年表) 

ハザール王国とユダヤ人 ~ハザール系ユダヤ人について~ 

東欧ユダヤ人のルーツを探る ~定説となっている「出ドイツ仮説」の検証~ 

 


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