No.a4fha201

作成 1998.1

 

ハザール王国史

 

─ 年表 ─

 


■371年
フン族、黒海沿岸北部を占領する。

■375年
フン族の民族大移動が始まる。

■395年
ビザンチン帝国、パレスチナ全土を支配(~639年)。


■448年
ビザンチン帝国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、戦士民族としてのハザール人が登場。

■453年
フン帝国の崩壊。ハザール人、コーカサス北部を中心に勢力を拡大。


■552年
突厥(西トルコ帝国)国家成立。ハザール人、突厥の配下に組み込まれる。

■553年
ユスティニアヌス帝が「反ユダヤ法」を発令。
以後、ビザンチン帝国は全史を通じて、ユダヤ人が帝国の行政的な地位に就くことも、青少年を教育することも、勅令によって禁じたのである。


■627年
ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレイオスは、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結。ハザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォンに迫った。なお、この時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場である。

 

 

■650年頃
突厥(西トルコ帝国)分裂し滅び、ハザール人支配を離れる。
ハザール王国の建国。

■652年
裏コーカサス諸国にアラブ(イスラム)帝国支配確立する。
翌年、アラブ軍の第1回ハザール王国遠征(第1次アラブ戦争)。アラブ軍、撃破される。

■655年
クリミア半島、ハザール軍に占領される。

■684年
ハザール軍、裏コーカサスに来襲する。


■711年
ハザール軍、裏コーカサスを蹂躙する。

■713年
マスラマ率いるアラブ軍、デルベントを占領し、ハザール王国深く侵入する。

■721年
ジェラーフ率いるアラブ軍、ハザール王国に遠征し、ベレンジェルを攻略する。(第2次アラブ戦争/~737年)
アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。

■730年
ハザール王ブラン、個人的にユダヤ教を受容する。
ハザール軍、アルバニアに侵入し、アルデビールを攻略し、ジェラーフ率いるアラブ軍を撃滅する。

■732年
後のビザンチン皇帝コンスタンチヌス5世(当時皇太子)、ハザールの王女チチャクと結婚。チチャク、洗礼を受けてイレーネの名を貰う。
マルワーン率いるアラブ軍、デルベントとベレンジェルに遠征する。

■735年
マルワーン率いるアラブ軍、ハザール王国に遠征する。
このマルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍になる。

■737年
マルワーンのアラブ軍、2つの峠からハザール軍に奇襲をかける。ハザール軍はヴォルガ川まで退却し、マルワーンに講和を求めることを余儀なくされる。
これによって、721年に始まった第2次アラブ戦争終了。
ハザール王、イスラム教を強制的に受け入れる。しかしこれは儀礼にすぎず、ほとんどすぐ取り消された。

 

 

※ 8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、最後にヴォルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係も、明らかに友好的な状態が続いていた。

この頃からハザール王国は経済的には黄金時代に入る。

ビザンチン、アルメニア、バグダードの商人たちが新首都イティルに集まり、蝋、毛皮、皮革、蜜などの取引に従事。ハザール王国は彼らに課税することで莫大な利益を得た。自らも牛、羊、奴隷を輸出。また、ヴォルガ川−カスピ海経由のヨーロッパ=イラン貿易路を開拓、沿岸都市の発展を招くなど、東西交通史上重要な役割を果たした。アラブ人はカスピ海を「ハザール海」と呼んだ。

■775年
「ハザールのレオン」と呼ばれる、レオン4世(皇帝コンスタンチヌス5世、ハザールの王女との子供)がビザンチン帝国の皇帝として戴冠する。(~780年)

■799年
ハザール王オバデア、国政改革に乗り出す(~809年)。ハザール王国は公式にユダヤ教を受容する。(ユダヤ人以外のユダヤ教国家の誕生)


■830年頃
バイキングのルス人(後のロシア人)が侵入。ビザンチン帝国を相手に略奪をはじめる。(930年頃まで)

■834年
ハザール王は、ビザンチン帝国に北方への防御(対ルス人対策)のための砦サルケルを築くための援助を求め、直ちに建設された。

■835年頃
ハザール王国で「カバール革命」が起き、王国内の反乱分子(カバール・ハザール人)が国外に逃亡。
亡命した有力貴族はルス商人団と合流し、この貴族の息子とルス商人団の長の娘との婚姻が行われた。こうして「ルーシ・ハン国」(後のキエフ大公国の前身)が成立した。
また、残りのカバール・ハザール人はマジャール人と合流し、指導者層となってハザールの影響を及ぼした。

 

 

■860年
ビザンチン帝国からハザール王国に「キリスト教布教特別使節団」が派遣された。使節団長はスラブ文字の創造者として名高いキュリロス(コンスタンティノス)であった。ユダヤ教とイスラム教を相手にした論戦に参加して、ハザール王をキリスト教に改宗させることを試みるものの、失敗に終わる。

■862年
ハザール支配のドニエプル川沿いの重要都市キエフが、ルス人の手に渡る。

■864年
ルス人がハザール支配のタバリスタンのアバスクンの港を攻撃したが撃退される(884年にも起こる)。

■881年
ハザール人とマジャール人がフランク人と戦闘状態となる。

■882年
ルス人によるキエフ大公国(キエフ・ルーシ)建国

■889年
ペネチェグ人がハザール王国に侵入しようとして撃退され、マジャール人の地へ侵入。マジャール人はドニエプル川とセレト川の間のエテル・ケズに移動した。

■890年
マジャール人のアルパード、ハザールから侯に叙せられる。

■896年
ペネチェグ人が再び侵攻してきて、マジャール人がハンガリーへ移動し定住し、ハンガリー人となり、ハザール人との同盟は終わる。


■910年
ルス人が3度、タバリスタンのアバスクンの港を攻撃し、居住のイスラム教徒の捕虜を奴隷として売るために連れ去った。

■912年
ルス人の軍がヴォルガ川からカスピ海へ侵入。
カスピ海沿岸のイスラム教国とルス人が武力衝突をし、ルス人は周辺支配地域で略奪をした。

■913年
800隻からなるルス人の大艦隊がカスピ海を侵略。カスピ海沿岸で大量の殺戮が起きる。
この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築く。

■922年
アラブの旅行家イブン・ファドラン、ヴォルガ川地方を旅行し、『手記(リサラ)』を残す。

■932年
ハザール・アラン戦役。ハザール軍、勝利する。

■941年
イーゴリ・イングヴァル大公、ビザンチン帝国を急襲し侵入し虐殺・略奪・破壊を行ったが、ビザンチン軍に撃退される。

■945年
ルス人はロシア人となり、そのイーゴリ・イングヴァル大公、ビザンチン帝国と通商条約を結ぶ。ロシアからビザンチン帝国ヘ兵を供給する軍事同盟も結ばれた。

■950年頃
ビザンチン皇帝コンスタンチヌス・ポルフィロゲニトウス、宮廷儀礼に関する論文の中でハザールについて触れる。

■954年
スペイン・コルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人ハスダイと、ハザール王ヨセフとの間に『ハザール書簡』が交わされる。

■965年
キエフ大公国のスビャトスラフ1世(イーゴリの息子)、ハザールの防衛の砦サルケルを陥落させる。スビャトスラフ1世によるイティル(ハザール王国の首都)の破壊。

 

 

■985年
キエフ大公国のウラジーミル大公、ヴォルガ・ブルガール国およびハザール王国に遠征する。

■986年
ハザール王国のユダヤ人が、キエフ大公国に行きウラジーミル大公をユダヤ教を受容させようと試みたが、失敗。これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになってしまう。

■988年
キエフ大公国のウラジーミル大公、ビサンチン帝国からキリスト教を受容。
ロシア正教会の誕生(後にロシア民族の公式宗教となる)。
また、ビザンチン帝国の王女アンナとの結婚。
この頃、ハンガリー人、ポーランド人、スカンジナビア人、アイスランド人などがローマ教会に改宗する。

ハザール人のハンガリーへの流入増える。


■1016年
キエフ大公国とビザンチン帝国の連合軍がハザールへ侵攻し、ハザールが敗退する。

※ 首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで領土こそ縮小したものの独立を保ち、ユダヤ教の信仰も維持し続ける。

■1023年
ロシア人がハザールの占領地からハザール人の兵を強制徴兵する。
キエフ大公国のムスチスラフ軍の中にハザール人部隊の名前が登場。

■1030年
ハザール人、侵入してきたクルド軍を撃退

■1079年
トムトロカニのオレグ・スヴャトスラヴィチ侯、ハザール人により捕らえられビザンチン帝国に護送される。

■1083年
オレグ・スヴャトスラヴィチ侯、トムトロカニに帰還し、ハザール人に報復する。


■1100年
12世紀、ハザール・ユダヤ人の間にメシア運動起こる。

■1106年
ロシアに侵入してきたクマン人(ポロヴェツ人)を撃退するために送った兵の将軍に、ハザール人イワンの名の記述。

■1140年
スペインで最も偉大なユダヤ詩人といわれていたユダ・ハレヴィ、哲学的な小冊子『ハザール人(ハ・クザリ)』の中でハザール人のユダヤ教改宗に言及。

■1154年
ハンガリー軍の中のユダヤ教を信じる一団の記録。

■1180年頃
ドイツの著名なユダヤ人旅行家ラビ・ペタチアは、東欧と西アジアを歴訪して『世界をまわる旅』を出版。彼は旅の途中にハザール王国の中心部を8日間かけて横切ったが、ハザール人のユダヤ教の内容を知ってショックと怒りを感じたという。なぜならばドイツの正統なラビ(ユダヤ教指導者)であった彼にとって、ハザール人のユダヤ教の教えは、いかにも原始的で嫌悪すべき異端の教えでしかなかったからだという。


■1222年
ハンガリーのマグナカルタ(大憲章)ともいうべき『黄金教書』がアンドルー2世によって公布。そこでは、ユダヤ人は造幣局長官、収税吏、塩の専売管理人となることが禁じられた。

■1223年
ロシアの地にモンゴル軍が出現。この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。

■1236年
チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫のバトゥ・ハンがヨーロッパ遠征に出発した。
ヴォルガ河畔からロシアに侵入したバトゥ・ハンの遠征軍は、キエフ大公国を壊滅させ(キエフ占領)、主要都市を次々と攻略した。さらにその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。

■1243年
キプチャク汗国成立。ハザールの地はバトゥ・ハンの権力下に吸収される。
こうして、キプチャク汗国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まった。

■1246年
ローマ教皇からモンゴルへの使節団、ハザールのかつての首都イティル(サライ)に到着。
ユダヤ教を信じるハザール人の記述。


■1346年
キプチャク汗国がクリミア半島のカッファの城塞を包囲。軍勢を率いるのはキプチャク汗国の皇帝ジャニベグ・ハン。この城塞を陥落させて、ハザール・ユダヤ商人の富を奪い去ろうと決然と攻撃を仕掛けてきたのである。「黒死病」の発生。

※ モンゴル軍の侵入に伴って、ハザール・ユダヤ人たちはロシア・東欧へ移住し、後のいわゆるアシュケナジム(アシュケナジー系ユダヤ人)の中核を形成する。

 


↑アシュケナジー系ユダヤ人と
スファラディ系ユダヤ人の移動地図

※ 2つの異なるユダヤ人の詳細はココをクリック


↑上はアダムからノアの3番目の息子ヤペテ(コーカソイド)の子孫までの血統図であるが、
ヤペテの子孫に「アシュケナジー(アシュケナズ)」という民族名が含まれていることが分かる。
このように「アシュケナジー」という呼称はもともとは『旧約聖書』にルーツがあり、「ハザール」
という呼称はアシュケナジーの弟にあたるトガルマの7番目の息子の名前が由来となっているのだ。

※ ちなみにコーカソイドとは世界三大人種の一つで「コーカサス出自の人種」という意味である。
現在、コーカサス地方に残っているコーカサス系ユダヤ人(別名「山岳ユダヤ人」)は、
20世紀になってから、同化や移住によって少数派となっており、主にロシアや
イスラエルに分散している。特にイスラエルでは他のユダヤ系移民との
融合が進んでいる一方で、依然として独自の文化や伝統を持つ
「山岳ユダヤ人」コミュニティも存在している。



↑今でも民族紛争が絶えない黒海とカスピ海の周辺地域

※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は
5000m級の山が連なるコーカサス山脈を境に北と南の地域に分かれる

 


 

■■おまけ情報:ポグロムとホロコーストによって壊滅した東欧のユダヤ人コミュニティ



(左)現在のウクライナの地図 (右)ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)

↑左右の地図を見比べてもらえれば分かるように、現在のウクライナの首都キエフを含む
東半分はかつてハザール王国の領域であった。※ ちなみに右の地図に記されている
ヴォルゴグラード(旧名スターリングラード)は、ハザール王国の時代に
ヴォルガ交易路の拠点として成立し繁栄した都市であり、現在の
ロシアにおいても重要な産業都市となっている。



↑ロシアの巨大なゲットーと呼ばれる「ユダヤ人制限居住地域(定住地域)」

この地図の中の「定住地域」がちょうど「ハザール王国」が存在していた場所と
重なっていることに注目。1791年から1917年までの間、ユダヤ人のみ移動する
ことが禁じられていた区域である(この定住地域には1897年までに500万人以上の
 ユダヤ人が住んでいたが、定住地域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた)。
 ※ このロシアの「定住地域」は英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている。
(詳しくは「ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史」をご覧下さい)

 

●1941年6月に始まったヒトラーのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)により、東ヨーロッパのユダヤ人コミュニティは大きな打撃を受け、その多くが壊滅した(貴重なハザール王国の痕跡が残る東欧のユダヤ文化はほぼ失われてしまった)。現在、東欧系ユダヤ人にとって「シュテートル」は、失われた思い出多き町や郷愁を豊かにかりたてる世界を悲しく思い起こさせる言葉となっている。

 


ポーランドのユダヤ人居住区「シュテートル」

※「シュテートル」というのはイーディッシュ語で
「小さな都市」を意味し、住民の大部分がユダヤ人からなり、
農民を中心とする周辺の非ユダヤ人を相手に商工業を営んだユダヤ人の
小さな田舎町だった。この「シュテートル」と同じような集落が、ハザール王国
にも存在していた。ポーランドの歴史学者アダム・ヴェツラニは次のように語っている。

「我々ポーランドの学者たちの見解では、ポーランドにおける初期のユダヤ人集落はハザール
およびロシアからの移住民によって作られ、南・西ヨーロッパのユダヤ人からの影響より先
だったという点で一致している。〈中略〉また、最初期のユダヤ人の大部分は東部、つまり
ハザール起源であり、キエフ・ロシアはその後になるという点でも一致している」

※ この「シュテートル」は世界中のディアスポラ(ユダヤ人の離散)の中でも
東欧にしか見られない社会構造・生活様式であったが、第二次世界大戦中の
ナチス・ドイツによる破壊活動で跡形もなくなった。多くのユダヤ人
コミュニティが完全壊滅し、東欧のユダヤ文化もほぼ消失した。



(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗



↑ナチス・ドイツが占領したソ連内最大の領土(1941~42年)

※ 東欧のユダヤ人はナチス・ドイツの反ユダヤ政策によって最も多くの犠牲者となった。
しかも彼らはその故郷ともいうべき東欧で殺戮された。東欧のユダヤ人はともに300万人
以上がいたポーランドとロシアが中心だった。アウシュヴィッツに代表されるナチスの
絶滅収容所はドイツ国内ではなく、全てドイツ占領下のポーランドにあった。



アウシュヴィッツ収容所

「アウシュヴィッツ」はドイツ名であり、ポーランド名は「オシフィエンチム」。
現在のポーランド領オシフィエンチム市郊外に位置する。「アウシュヴィッツ収容所」は
「第一収容所」、「第二収容所(ビルケナウ)」(1941年建設)、「第三収容所(モノヴィッツ)」
(1942年建設)に区分され、それ以外に38の「外郭収容所」や「付属収容所」があった。
「第一収容所」はポーランド軍兵営の建物を再利用したもので、SS長官ヒムラーの指令
により1940年4月に開設され、最初の囚人はポーランド人政治犯だった。



アインザッツグルッペン(SS特別行動部隊)

※「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊で、
ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定の
ために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。
主に標的としたのは、反ドイツ分子やユダヤ人、
ロマ、共産党幹部、知識人だった。


※ 別名「移動虐殺部隊」とも呼ばれる「アインザッツグルッペン」は
主要なAからDまでの4個部隊を中心に行動した。彼らの虐殺行為の多くは
集団処刑(銃殺)という形で行われ、遺体は集団墓地や穴に投げ込まれた。
アインザッツグルッペンに殺害された東欧のユダヤ人の数は約120万人
と推定されている。ちなみにアインザッツグルッペンは複数表記で、
単数形はアインザッツグルッペ(EINSATZGRUPPE)となる。

 

●宗教・民族に関して数多くの著書を出している明治大学の著名な越智道雄教授は、ハザールとアシュケナジム(アシュケナジー系ユダヤ人)について次のように述べている。

「アシュケナジムは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第2神殿』破壊以後、ライン川流域に移住したといい伝えられたが、近年では彼らは7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き、9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。10世紀半ばにはキエフ・ロシア人の侵攻でヴォルガ下流のハザール王国の首都イティルが滅び、歴史の彼方へ消えていった。彼らこそ、キリスト教とイスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だったわけである。

2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムやホロコーストに遭遇したのが、このアシュケナジムだったとは不思議な因縁である。〈中略〉現在、スファラディムが数十万、アシュケナジムが一千万強といわれている」

 


1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡

※ 朝日新聞は1992年8月20日に以下のようなニュースを伝えている。

「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の
遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国
という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた。〈中略〉この7月、
報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で1週間の発掘調査を実施し、
カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」

 

●ハザール王国の発掘調査に参加した広河氏は次のように語っている。

「ハザール王国の消滅後、しばらくして東欧のユダヤ人の人口が爆発的に増えたのはなぜかという謎がある。正統派の学者は否定するが、ハザールの移住民が流入したと考えなければ、この謎は解けないと考える人が意外と多いのだ。〈中略〉

現代ユダヤ人の主流をなすアシュケナジーと呼ばれるユダヤ人は、東欧系のユダヤ人が中心である。神が約束した地に戻ると言ってパレスチナにユダヤ人国家イスラエルを建国した人々も、ポーランドやロシアのユダヤ人たちだ。〈中略〉ハザールの遺跡には、現在に至る歴史の闇を照らす鍵が隠されていることだけは確かなようである」

 


ハイム・ワイツマン

白ロシアのピンスク地区出身の化学者で、
「世界シオニスト機構」の総裁を務め、その後、
何年にもわたって世界のシオニズム運動の
指導者となった。イスラエル建国後、
初代イスラエル大統領になる。

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

イスラエル共和国の建国史(年表) 

ハザール王国の歴史 ~誕生から滅亡まで~ 

ハザール王国とユダヤ人 ~ハザール系ユダヤ人について~ 

ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史 

 


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