No.a4fha200

作成 1998.1

 

ハザールとユダヤ

〜 ハザール系ユダヤ人について 〜

 

 

第1章
2種類のユダヤ人
アシュケナジームとスファラディム
第2章
アーサー・ケストラー以前から存在する
「ハザール系ユダヤ人問題」
第3章
『ハザール 謎の帝国』
訳者まえがき
第4章
ハザール王国に対する
欧米歴史学者の評価
第5章
「ハザール系ユダヤ人問題」に
関する注意点
第6章
1992年8月、
ハザールの首都発見

おまけ
イスラエルは東欧系ユダヤ人の
「ガリチア人」が支配している

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■■第1章:2種類のユダヤ人 ─ アシュケナジームとスファラディム


●なぜか不思議なことに、「ユダヤ人」という語の定義は、学問的にも政治的にも非常にあいまいな状態に置かれている。

このテーマを取り上げると必ず、「ユダヤ人という民族はそもそも存在しないのだ」とか「ユダヤ人は人種ではなく、ユダヤ教に改宗した者がユダヤ人になるのである」という主張が一般の研究者の間から出て来る。彼らはそれを主張してやまない。

ユダヤ人国家イスラエル共和国においてはどうかというと、移民に関する法律「帰還法」において「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という定義を正式に採用している。しかし、本人がユダヤ教徒でなくても、母親がユダヤ人ならばユダヤ人であるが、母親が非ユダヤ人である場合、父親がどうであろうと、本人はユダヤ人ではないという、チンプンカンプンでややこしい定義になっている。ちなみにユダヤ人が他の宗教へ改宗した場合、ユダヤ教ではその人を終生ユダヤ人とみなすという。


●いずれにせよ彼らの定義に従えば、他の民族が「ユダヤ人」になるには、ユダヤ教に改宗すればいいわけで、インド人でも黒人でもユダヤ教に改宗してユダヤ人になろうと思えばなれるというわけだ。しかし、ユダヤ教に改宗するためには聖書やヘブライ語を学ぶほか、ユダヤ教の宗教法に従って、ラビ(導師)の指導を受けながら、改宗の手続きを取っていくのだが、審査は非常に厳しいという。

実際に、日本ではおもに結婚を理由に、男女合わせて数十名がユダヤ教に改宗しており、最近では名古屋市の牧師が、宗教的信条ゆえにユダヤ教に改宗した例もある。もっとも、ユダヤ教は伝道活動をしないので、改宗者が大幅に増えることはないという。


●ところで、ノーベル賞受賞者の3分の1以上はユダヤ人といわれているが、マルクス、フロイト、アインシュタイン、チャップリン、キッシンジャーなどなどといった数多くの有名ユダヤ人たちは、不思議なことにほとんど白人系である。一体どうして世の中には「白人系のユダヤ人」が数多く存在しているのか? 本当のユダヤ人は白人では決してないはずである。

『旧約聖書』に登場するユダヤ人に白人は1人もいない。彼らは人種的に「セム系」と呼ばれ、黒髪・黒目で肌の浅黒い人々であった。モーセやダビデ、ソロモン、そしてイエスもみな非白人(オリエンタル)だったと記述されている。

 


英BBCが放送した「イエスの顔」

マンチェスター大学法医学教室が、
エルサレムで大量に発見された紀元1世紀の
ユダヤ人の人骨群の中から、当時の典型的な
ユダヤ人男性の頭がい骨を選出して復元した
ものである。中東男性の顔つきをしている。
(詳細についてはココをクリック)

 

●一般にユダヤ社会では、白人系ユダヤ人を「アシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジーム)」と呼び、オリエンタル(アジア・アフリカ系)ユダヤ人を「スファラディ系ユダヤ人(スファラディム)」と呼んで区別している。

アシュケナジーとは、ドイツの地名にもなっているように、もとはアーリア系民族の名前であった。一方、スファラディとは、もともと「スペイン」という意味だが、これは中世ヨーロッパ時代のユダヤ人たちの多くが地中海沿岸、特にイベリア半島(スペイン)にいたことに由来している。

8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった。それがなぜか8〜9世紀を境にして、突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に登場したのである。いったい何が起きたのか?


●自らアシュケナジー系ユダヤ人であった有名な思想家アーサー・ケストラーは、「白人系ユダヤ人の謎」に挑戦した。彼は若い頃からユダヤ問題に関心を持ち、シオニズム運動に参加し、ロンドン・タイムズのパレスチナ特派員を経て、1957年にはイギリス王立文学会特別会員に選ばれていた。彼は白人系ユダヤ人のルーツを丹念に調べ、1977年に最後の著書として『第13支族』を著した。彼は白人系ユダヤ人のルーツはハザール王国にあると主張した。

ケストラーの『第13支族』が出た当時、世界的に有名な新聞などがこの著書を絶賛してやまなかった。この本は、科学や思想が中心のケストラーの著作としては異色の書で、その内容は世界史の常識・認識を根底から揺さぶるほどの問題作であり、あまりの衝撃ゆえ、翻訳出版を控えた国も出た。1983年3月にケストラーが夫人とともに謎の自殺を遂げた時、当時の新聞の死亡記事に記載された彼の多くの著作リストの中には、この『第13支族』は省かれていた……。

 

 
(左)有名なユダヤ人思想家アーサー・ケストラー
(右)1977年に出版された彼の最後の著書『第13支族』。
彼はこの本の中で、白人系ユダヤ人のルーツは
「ハザール王国」にあると主張した。

 

 


 

■■第2章:アーサー・ケストラー以前から存在する「ハザール系ユダヤ人問題」


●一般に、ハザール系ユダヤ人問題といえば、アーサー・ケストラーが有名である。しかし、彼は最初の「発見者」ではない。アーサー・ケストラーよりも前に、既に多くの人がハザール系ユダヤ人問題をとりあげていた。(あまり知られていないようだが……)。主な人物を紹介しよう。

 



「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって
カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。
9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない
ユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。

 

●イスラエル建国以来、一貫して反シオニズムの立場に立つジャーナリスト、アルフレッド・リリアンソール。彼の父方の祖父はアシュケナジー系ユダヤ人で、祖母はスファラディ系ユダヤ人であった。彼はアーサー・ケストラーの本よりも2、3年も早く『イスラエルについて』という本を書き、その中で東欧ユダヤ人のルーツ、すなわちハザール人について以下のように述べている。

「東ヨーロッパ及び西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な先祖は、8世紀に改宗したハザール人たちであり、このことはシオニストたちのイスラエルへの執着を支える一番肝心な柱を損ねかねないため、全力を挙げて暗い秘密として隠され続けて来たのである。」

 

 
ユダヤ系アメリカ人のアルフレッド・リリアンソール。
反シオニズムの気鋭ジャーナリストであり、中東問題の
世界的権威である(国連認定のニュースレポーターでもある)。

 

●古典的SF小説『タイムマシン』の著者であり、イギリスの社会主義者H・G・ウェルズ(1866〜1946年)は『歴史の輪郭』の中で次のように述べている。

「ハザール人は今日ユダヤ人として偽装している」

「ユダヤ人の大部分はユダヤ地方(パレスチナ)に決していなかったし、またユダヤ地方から来たのでは決してない」

 


有名なイギリス人小説家
H・G・ウェルズ

 

●ハーバード大学のローランド・B・ジャクソン教授は、1923年、次のように記している。

「ユダヤ人を区別するのに最も重要な要素は……ハザール人の8世紀におけるユダヤ教への改宗であった。これらのハザール人にあって……私たちは東ヨーロッパのほとんどのユダヤ人の起源を、十中八、九までここに見出すのである。」


●イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエルが建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。

「……これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫――その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者――が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ……」


●このように、ハザール系ユダヤ人問題は、アーサー・ケストラー以前から存在しているのであり、決して、アーサー・ケストラーが最初の「発見者」ではないのだ。しかし、ハザール系ユダヤ人問題を多くの人に知らしめたという点において、彼は大きな功績を残したといえよう。



●ちなみに、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていたユダヤ人学者のN・M・ポロックは、1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。

イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。



●ここで、もう1人、ナイム・ギラディというユダヤ人についても紹介しておきたい。

彼はかつてイスラエルで活躍していたジャーナリストである。彼は典型的なスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)で、建国と同時にアラブ世界からイスラエルに移住した。しかし彼が目にしたものは、思いもつかない想像を絶するイスラエルの現状であったという。彼は見たこともないユダヤ人と称する人々(東欧系白人/アシュケナジーム)を見て大変とまどったという。

イスラエル国内ではスファラディムは二級市民に落とされているが、彼はその二級市民の代表として、イスラエルであらゆる運動を展開した。幾度も刑務所につながれたこともあったという。しかし一貫して彼は本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。本当のユダヤ人に対する住宅、社会生活、就職などの改善を訴え続けたのであった。

 

 
(左)元イスラエルのユダヤ人ジャーナリスト
ナイム・ギラディ。彼は典型的なスファラディムである。
(右)彼の著書『ベングリオンの犯罪』

 

●彼は、1992年秋、スファラディムを代表する一人として日本各地を講演して回った。彼は講演で次のように語った。

「イスラエルでは本当のユダヤ人たちが、どれほど惨めな生活を強いられていることか……アシュケナジームを名乗るハザール系ユダヤ人たちが、スファラディムすなわちアブラハムの子孫たちを二級市民に叩き落としているのである。

……まだイスラエルにいた当時、私はパレスチナ人たちに向かって次のように演説した。『あなたがたは自分たちをイスラエルにおける二級市民と言っているが、実はあなたがたは二級ではなく三級市民なのである。なぜならば、アシュケナジームとあなたがたパレスチナ人の間に、私たちスファラディムがいるからだ。そして、私たちもあなたがたと同じように虐げられているのである……』 」

 


イスラエルのアシュケナジー系の政治家が、スファラディ系ユダヤ人に対して
「差別発言」をしたことを伝える記事(1997年8月3日 『朝日新聞』)

 

●宗教・民族に関して数多くの著書を出している、明治大学の有名な越智道雄教授は、最近、ハザールとアシュケナジーム(アシュケナジー系ユダヤ人)について次のように述べている。

「アシュケナジームは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第2神殿』破壊以後、ライン川流域に移住したといい伝えられたが、近年では彼らは7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き、9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。10世紀半ばにはキエフ・ロシア人の侵攻でボルガ下流のハザール王国首都イティルが滅び、歴史の彼方へ消えていった。彼らこそ、キリスト教とイスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だったわけである。
2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムやホロコーストに遭遇したのが、このアシュケナジームだったとは、ふしぎな因縁である。 〈中略〉 現在、スファラディムが数十万、アシュケナジームが一千万強といわれている。」

 


「ベネ・イスラエル」と呼ばれる
ボンベイのインド系ユダヤ人たち(1890年)

「ベネ・イスラエル」とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉で、
ヘブライ語では「イスラエルの子」を意味する。この共同体はインドの
約1500年前にまで遡る。その中心はボンベイとコーチンであった。

 

●イスラエル共和国を去ったユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)で素直な気持ちを述べている。

「イスラエルにいたとき、ターバンを巻いたインド人が畑を耕作しているのを見た。どこから見てもインド人で、インドの言葉、インドの服装、インドの文化を持っていた。しかし彼らがユダヤ教徒だと聞いたとき、私のユダヤ民族の概念は吹っ飛んでしまった。

同じように黒人がいた。アルジェリア人がいた。イエメン人がいた。フランス人がいた。ポーランド人がいた。イギリス人がいた。まだ会ってはいないが中国人もいるそうである。どの人々も、人種や民族というより、単なる宗教的同一性としか言いようのない存在だった。 〈中略〉 私の母はスラブの顔をしている。父はポーランドの顔としかいいようがない。私もそうなのだ。」

「私はイスラエルで一つの風刺漫画を見た。白人のユダヤ人がイスラエルに着いたら、そこは純粋なユダヤ人の国だと説明されていたのに、黒人もアラブ人もいたのでがっかりした、というものだ。この黒人もアラブ人もユダヤ教徒だったのだ。彼は自分の同胞に有色人種がいたので、こんなはずではないと思ったのである。」

 

 
(左)ユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツ
(右)彼女の著書『私のなかの「ユダヤ人」』。
この本は1982年に「集英社プレイボーイ・
 ドキュメント・ファイル大賞」を受賞。

 

 


 

■■第3章:『ハザール 謎の帝国』 訳者まえがき


●「ハザール王国」の歴史については、S・Aプリェートニェヴァ著『ハザール 謎の帝国』(新潮社)が詳しい。参考までに、この本の「訳者まえがき」を抜粋しておきたい。かなり重要なことが書かれている。

ちなみに、訳者の城田俊氏は、モスクワ大学大学院終了のロシア語教授である。

 

 

──訳者まえがき──


「ハザールの首都発見」のニュースが日本中を駆け巡ったのは訳者が本書を訳しかけていた1992年8月のことである。

「カスピ海の小島に防壁と古墳」(毎日新聞)「ユダヤ帝国ハザール幻の首都?─ ロシアの学者・日本の写真家ら発見」(朝日新聞)「東欧ユダヤのルーツ解明に光」(読売新聞)──これらが大新聞の紙面を飾った見出しであるが、謎の国ハザールについての日本最初の大々的新聞報道を胸躍らせて読んだ人はあまり多くはなかったのではなかろうか。それほどハザールは日本ではなじみがない。

ハザールは6世紀ヨーロッパの東部に突如出現した騎馬民族である。出自は定かではないが、民族集団として注目を受けるようになって以来アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用する。

彼らは近隣の民族を圧倒し、7世紀中頃王国を築き、カスピ海沿岸草原、クリミア半島に覇を唱えるが、キリスト教のビザンチン帝国とイスラム教のアラブ帝国の狭間に立ってユダヤ教を受容して国教とするという史上稀有に近い行動をとる。

王国の底辺を支えた民の人種は雑多と想像されるが、国家建設の中核となったのは、170年余にわたって万里の長城の内外で中国と激烈な死闘を演じ、遂に唐の粘り強くかつ好智にたけた軍事・外交の前に敗れ去り、新天地を求めて西へ走った突厥の王家、阿史那(あしな)氏の一枝であったこともまた興味を引くところである。まさに東西交流の要所にあって、両者を強く結びつける役をはたした民族であり、国家であった。

マホメットの死後まもなくアラブ勢力は急速に強大化し、近辺諸国をかたっぱしから征服し始める。北に向かった大軍勢はコーカサスヘと突入するが、それに立ちはだかったのは雪を頂く峨峨たる山脈だけではない。要所要所を固めていたハザールの組織的軍隊であった。防衛軍は伝統的騎馬戦闘術(例えば馬車による円陣)までも繰り出して、果敢な抵抗を行い、侵入軍を幾度も南へと撃退する。

もし、アラブ軍がコーカサスを通り抜ければ東ヨーロッパは勿論、中央ヨーロッパヘの道は広々と開かれていた筈である。ロシアもポーランドもハンガリア、はては、チェコもイスラム化したかもしれない。

ハザールはアラブとの戦役を1世紀あまりにわたり闘い抜き、イスラム勢力の東方からのヨーロッパ侵入をくいとめ、現在あるかたちでのキリスト教世界を守ったのである。それは、カール・マルテル指揮下のフランク王国騎兵軍がピレネーを越えて進撃してきたアラブ軍をトゥール・ポワティエ間の戦で撃退したのに比肩される歴史的大功績であると言うキリスト教世界の学者もいる。

しかし、一方は歴史の教科書に大書され、ヨーロッパ人には常識となるに対し、ハザールの「功績」は忘れられ、無視されてきたのは、そのルーツが我々と同じアジア人であったためであろうか。それとも国教がユダヤ教であったためであろうか。

ユダヤ人はローマ帝国により国家を奪われ、国無しの民として世界に離散流浪し、迫害に晒されるが、中世に至って、ハザールというユダヤ教国が東方の遥かかなたの草原のどこかにあるという噂を耳にし、驚喜し、鼓舞され、ハザール国探索活動を展開する。

最も熱心かつ精力的であったのは、10世紀中葉スペインのコルドヴァ王国の外交・通商・財政の大臣の地位にあったユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトであった。彼は、恐らく世界各地に張り巡らされていたであろうユダヤ商人の情報・連絡網を頼りに、遂にハザール国王に手紙を届け、返書を受け取ることに成功する。2人の往復書簡は千余年の時の破壊力に耐え、現在に伝えられ、学者によって解読される。また、前世紀末にはカイロのユダヤ教会堂の文書秘蔵室から大量の古文書が出てくるが、その中にハスダイの探索活動やハザールのユダヤ教市民の救済活動に関する文書が発見され、ハザール国の内情がより細密に描けるようになる。

これだけでも伝奇に満ちた一篇の物語となるが、ハザール史そのものは現在に生きる我々に興味尽きない問題と謎を投げかける。中東和平を契機に世界各地でユダヤ人問題への関心が高まっている。政治や国際関係に関心がない人でも、学芸分野や政界・経済界でのユダヤ人天才・実力者の活躍には目を見張らざるを得ない。

このように世界で耳目を集めるユダヤ人の大部分は、モーセなど『旧約聖書』に登場するユダヤ人とは全く関係なく、10世紀末ルシ(ロシア)に滅ぼされた後、東欧に離散したハザールの末裔であるという説が広まっている。もしこれが本当なら、血で血を洗う戦争を繰り返し、今も流血の惨事を日常的にひきおこす原因となったイスラエルの建国とは一体何だったのか、ということになりかねない。そのような説が正しいかどうか、曲がりなりにも判断するためにはハザール史のある程度正しい知識が我々に今必要となろう。

ハザールが東アジアの島国に住む我々日本人にとりなぜ面白いかは、日本の建国に関し騎馬民族説が声高に唱えられるというだけではない。ハザールでは二重王権が実践されていたということが1つの理由となるのではなかろうか。


〈後略〉


1996年1月   城田 俊

 

 


 

■■第4章:ハザール王国に対する欧米歴史学者の評価


●カール大帝が西ローマ帝国皇帝として戴冠した頃(800年)、ヨーロッパの東の境界地帯であるコーカサスとボルガ川の間は、ハザール王国によって支配されていた。その勢力の絶頂期は7世紀から10世紀にかけてであり、それは中世ヨーロッパの運命、その結果としての近代ヨーロッパの運命をも左右する重要な役目を果たしたのだった。

欧米の歴史学者はキリスト教側からの視点で、このハザール王国が果たした役割を高く評価している。(アラブの歴史学者だったら、イスラム教側からの視点で、また違った評価を下すであろう)。

 


10世紀後半のヨーロッパとオリエント

 

●ハザール史の指導的権威であるコロンビア大学のダンロップ教授は、次のように述べる。

「ハザール国は……アラブの進軍の前線を横切るような位置にあった。モハメッドの死(632年)の数年後、カリフの軍は2つの帝国を残骸と化して嵐のように通り抜け、すべてを奪い去り、コーカサスの大障壁に達した。この障壁を越せば西ヨーロッパヘの道が開けている。にもかかわらず、このコーカサスの地で組織的な兵力がアラブ人を迎え撃ち、彼らの長征がこの方向へ伸びるのを防いだのである。100年以上も続いたアラブ人とハザール人の戦いはほとんど知られていないが、このような歴史的重要性を持つのである。

カール・マルテルに率いられたフランク人はツールの平野でアラブ人の侵攻の潮流を変えた(732年のトゥール・ポワティエ間の戦い)。同じ頃、ヨーロッパに対する東からの脅威もそれに劣らず大きかったが、勝ち誇るイスラム教徒はハザール王国の軍に押し止められた。コーカサスの北方にいたハザール人の存在がなければ、東方におけるヨーロッパ文化の砦であるビザンチンはアラブ人に包囲され、キリスト教国とイスラム教国の歴史は今日我々が知っているものとは大きく違っていただろう。それにはほとんど疑いの余地はない」


●旧ソ連の考古学者で歴史学者のアルタモノフもダンロップ教授と同じ見解を示している。イスラム勢力の侵攻を防いだハザール王国は、結果的に、ボルガ川、ダニューブ川、そして東ヨーロッパそのものへの東の出入口を守った、と。

「9世紀に至るまで黒海の北、隣接する草原地帯とドニエプル川の森林地帯でハザール王国にかなう者はなかった。1世紀半にわたってハザール王国は東ヨーロッパ南半分の並ぶ者なき王者であり、アジアからヨーロッパへ通じるウラル=カスピ海の出入口を守る強力な砦となっていた。その期間、彼らは東からの遊牧民の猛襲を押し戻していたのである」

「ハザール王国は東ヨーロッパ最初の封建的国家で、ビザンチン帝国やアラブ・イスラム教国にも匹敵する。ビザンチン帝国が耐えられたのは、コーカサスへのアラブの潮流をそらせた強力なハザール王国の攻撃あってのことである」


●旧ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士も同じ見解を示している。

「ハザール王国は、ヨーロッパ東部諸国の歴史に大いなる役割を演じた。アラブの侵略を守る盾の役割である。盾といっても単なる盾ではない。他国の民なら、名を耳にしただけでも震え上がる猛将が率いる、無敵のアラブ軍の攻撃を何度も何度も撃退した盾である」

「ハザール王国の役割は、ビザンチン帝国にとってもかけがえないものであった。ハザール王国と戦争を遂行するため、アラブ軍はその大勢力を、ビザンチン帝国との国境から常に遠ざけざるを得なかったのである。ハザール対アラブ戦役が続行される間は、ビザンチン帝国側は、アラブ側に対し、ある程度であるとしても、軍事上の優位を保持し続けたのである。カリフ神権体制国の北辺を侵すようにハザール王国をけしかけたのは、ほかならぬビザンチン帝国であり、それも一度にとどまらなかったことは疑いを入れない」


●オックスフォード大学のロシア史の教授ドミートリ・オボレンスキーも次のように述べている。

「北に向かったアラブ人の侵略に対してコーカサスの前線を守りきったことが、ハザール人の世界史への大きな貢献である」

 

 


 

■■第5章:「ハザール系ユダヤ人問題」に関する注意点


●長い間、謎とされてきた「ハザール王国」──。

しかし、学術的な分野での研究は着実に進んでおり、様々な実態が明らかにされ続けている。今後、ますます「ハザール王国」を研究する学者や研究機関は増え、「ハザール王国」の実態はさらに解明されていくだろう。一般人の間でも「ハザール王国」の知名度は急速に高まっていくだろう。

こうした傾向は歓迎すべきことだが、ある問題に関して懸念していることがある。

それについて、簡単にまとめてみたい。


●祖国を失ったハザール人は、“ユダヤ人”として生きることになった。もちろん、中にはオリジナル・ユダヤ人と混血した人もいるだろう。ハザール王国時代、地中海やオリエント出自のユダヤ人(オリジナル・ユダヤ人)が流入していたことは否定できない。しかし、それはごくごく少数の集団であった。ハザール王ヨセフ自身が明らかにしたように、彼らは自分たちがセム系ではなく、非セム系(ヤペテ系)の「ゴメルの息子」にルーツを持っていることを自覚していた。

現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上がアシュケナジームだが、彼らの大部分は、『旧約聖書』に登場する本来のユダヤ人とは全く関係のない異民族といえる。


●しかし、個人的に、彼らを単純に「ニセユダヤ人」と表現することには抵抗がある。

なぜなら、彼らは長期にわたって“ユダヤ人”として生き、オリジナル・ユダヤ人と同じ「キリスト殺し」の汚名を背負い、悲惨な迫害を受け続けて来たわけであり、同情に値するからだ。その思いは、ユダヤ問題と絡めてロシア・東欧の歴史を再検証してから、ますます強まった。彼らがロシアで体験してきた悲惨な歴史を知れば知るほど、本当に悲しい気分になる……。



●ところで、一般に「ユダヤ人」という「人種」は存在しないとされている。ユダヤ教を信仰していれば、誰でも“ユダヤ人”であるという。つまり、ユダヤ人とは宗教的な集団=「ユダヤ教徒」を意味するというわけだ。だから、ルーツが別民族であっても、ユダヤ教を信仰していれば、立派な“ユダヤ人”として認められるという。実際に、ユダヤ人は実に様々な人間で構成されていて、イスラエル国内には黒人系(エチオピア系)のユダヤ人すら存在している。

 

 
(左)1996年1月29日 『朝日新聞』 (右)1996年1月30日 『読売新聞』

1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、
「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。
さらにイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。

これに対して、エチオピア系ユダヤ人たちは、「エイズ感染の危険性は他の献血にも存在する。
我々のみ全面破棄とは人種差別ではないか!」と猛反発。怒り狂ったエチオピア系ユダヤ人
数千人は、定期閣議が行われていた首相府にデモをかけ、警官隊と激しく衝突した。

イスラエル国内は騒然とした。あるユダヤ人たちは言った。「この騒ぎは
かつてのアラブ人たちによるインティファーダ(蜂起)に
匹敵するほどのものであった」と。

 

●このエチオピア系ユダヤ人の献血事件について、『読売新聞』は、「ユダヤ内部差別露呈」として次のように書いた。

「今回の事件は、歴史的、世界的に差別を受けてきたユダヤ人の国家イスラエルに内部差別が存在することを改めて浮き彫りにした。イスラエルヘの移民は1970年代に始まり、エチオピアに飢饉が起きた1984年から翌年にかけて、イスラエルが『モーセ作戦』と呼ばれる極秘空輸を実施。1991年の第二次空輸作戦と合わせ、計約6万人が移民した。

だが、他のイスラエル人は通常、エチオピア系ユダヤ人を呼ぶのに差別的な用語『ファラシャ(外国人)』を使用。エチオピア系ユダヤ人の宗教指導者ケシムは、国家主任ラビ庁から宗教的権威を認められず、子供たちは『再ユダヤ人化教育』のため宗教学校に通うことが義務づけられている。住居も粗末なトレーラーハウスに住むことが多くオフィス勤めなどホワイトカラーは少数に過ぎない。同ユダヤ人はイスラエル社会の最下層を構成している。」

「ヘブライ大学のシャルバ・ワイル教授は『とりわけ若者にとって、よい職業や住居を得ること以上に、イスラエル社会に受け入れられることが重要だ』と、怒りが爆発した動機を分析する。デモ参加者は『イスラエルは白人国家か』『アパルトヘイトをやめよ』と叫んだ。『エチオピア系ユダヤ人組織連合』のシュロモ・モラ氏は『血はシンボル。真の問題は白人・黒人の問題だ』と述べ、同系ユダヤ人の置かれている状況は『黒人差別』によるとの見方を示した。」


●『毎日新聞』は次のように書いた。

「ユダヤ人は東欧系のアシュケナジーム、スペイン系のスファラディム、北アフリカ・中東のユダヤ社会出身のオリエント・東方系に大別され、全世界のユダヤ人人口ではアシュケナジームが過半数を占めている。イスラエルではスファラディム、オリエント・東方系が多いが、少数派のアシュケナジームが政治の中枢を握っている。」

「エチオピア系ユダヤ人は、イスラエル軍内部でエチオピア系兵士の自殺や不審な死亡が多いと指摘するなど、イスラエル社会での差別に苦情を呈してきた。たまっていた不満に献血事件が火をつけた格好だ。」

 

 
イスラエル航空の旅客機で救出された
エチオピア系ユダヤ人たち(1984年)

 聖書ではソロモン王とシバの女王の関係が記されているが、
シバの女王から生まれた子孫とされるのが「エチオピア系ユダヤ人」
である。彼らは自らを「ベド・イスラエル(イスラエルの家)」と呼び、
『旧約聖書』を信奉するが、『タルムード』はない。1973年に
スファラディ系のチーフ・ラビが彼らを「ユダヤ人」と認定した。

その後、エチオピアを大飢饉が襲い、絶滅の危機に瀕した
ため、イスラエル政府は救出作戦を実施した。1984年の
「モーセ作戦」と、1991年の「ソロモン作戦」である。

イスラエルの航空会社と空軍の協力により
彼らの多くは救出され、現在イスラエル
には約6万人が移住している。


『エチオピアのユダヤ人』
アシェル・ナイム著(明石書店)

 

●このように「ユダヤ人」の定義は非常にあいまいな状態なのであるが、正直なところ、「ユダヤ人」の定義はユダヤ人同士の間で勝手に決めてくれればいいと思う。他人がとやかく口をはさむことではないだろう。

宗教的な集まりであるならば、それなりに静かにユダヤ教を信仰して、平穏に暮らしてくれればいい。誰だって、余計な問題に首をつっこんで言い争いはしたくはない。ハザール系だろうがエチオピア系だろうが、「ユダヤ人」として生活したいのならば、それでいい。世界の平和を愛して、平穏に宗教的生活を送ってくれれば、それでいい。

しかし、現実はそんな単純ではない。いつもニュースを騒がしている問題がある。いうまでもなく「パレスチナ問題」のことである。

 

 

●パレスチナ問題は極めて深刻な状態である。

主にアシュケナジームのシオニストが中心的に動いて、パレチスナに強引にユダヤ国家を作ってしまったのだが、その時の彼らの主張が非常にまずかった。彼らは、自分たちは「血統的」に『旧約聖書』によってたつ敬虔な 「選民」であると主張してしまったのだ。単なるユダヤ教を信仰する「ユダヤ教徒」ではなく、『旧約聖書』のユダヤ人と全く同一のユダヤ人としてふるまい、パレスチナに「祖国」を作る権利があると強く主張してしまったのだ。この主張は今でも続いている。

彼らのイスラエル建国によって、大量のパレスチナ人が追い出され、難民化し、殺されている。これは今でも続いている。全く悲しいことである。


●本来なら、ユダヤ国家の建設地はパレスチナ以外でもよかった。ユダヤ教を信仰する者同士が、周囲と争いを起こすことなく仲良く集まれる場所でよかったのだ。

事実、初期のシオニズム運動は「民なき土地に、土地なき民を」をスローガンにしていたのだ。シオニズム運動の父であるテオドール・ヘルツルは、パレスチナにユダヤ国家を建設することに難色を示し、その代わりにアフリカのウガンダ、あるいはマダガスカル島にユダヤ国家をつくろうと提案していたのである。

多くの先住民が住むパレスチナにユダヤ国家を作ったら、大きな問題が起きることぐらい誰でも予測のつくことであった。

 

 
入植候補地の東アフリカ(=ウガンダ案)。ヘルツルはパレスチナにかわる
代替入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。

 

●しかし、東欧のシオニストたちは、自分たちのアイデンティティの拠り所として、ユダヤ国家建設の候補地は“約束の地”であるパレスチナでしかあり得ないと主張し、ヘルツルの提案に大反対した。さらに東アフリカの「ウガンダ」が候補地として浮上し始めると、東欧のシオニストたちは猛反発し、「世界シオニスト機構」を脱退するとまで言い出した。

ユダヤ教に全く関心を持っていなかったヘルツルにとって、入植地がどこになろうと問題ではなかった。しかし、ナショナリズムに燃えていた東欧のシオニストのほとんどにとって、入植運動は、聖書の“選ばれた民”の膨張運動であって、アフリカなどは全く問題になり得なかったのである。そのため、「ウガンダ計画」に激怒したロシアのシオニストの一派が、ヘルツルの副官にあたるマクス・ノルダウを殺害しようとする一幕さえあった。

翌1904年7月、ヘルツルは突然、失意の中で死去した。わずか44歳であった。

結局、ヘルツルの死が早すぎたことが、パレスチナ入植を推進する東欧のシオニストにとっては幸いとなり、シオニズム運動の内部崩壊はかろうじて避けられたのであった。

 


テオドール・ヘルツル

“近代シオニズムの父”と呼ばれる。
 「第1回シオニスト会議」を開催し、
 「世界シオニスト機構」を設立した。

 

●今後も、彼らがパレスチナでシオニズム運動を続ける限り、彼らを「ニセユダヤ人」として批判する人は増えていくだろう。シオニズム運動が続く限り、「ユダヤ人」という定義は世界から厳しい目でにらまれ続けることになる。誰が本当のユダヤ人で、誰が非ユダヤ人なのか、イスラエル国内でも常に「ユダヤ人」の定義を巡って大きく揺れている。

※ このシオニズムが抱える深刻な問題については、当館6Fのシオニズムのページで具体的に考察しているので、そちらも参照して下さい。



●ところで、ハザール系ユダヤ人問題に触れるとき、必ず、「ユダヤ人という人種は存在しない。なぜならば、『ユダヤ人=ユダヤ教徒』なのだから。『血統』を問題にするのは全くのナンセンスだ」と強く反論する人がいる。

なるほど。しかし、「ユダヤ人=ユダヤ教徒」ならば、なおさら、パレスチナを「先祖の土地」と主張して、そこの先住民を追い払って国を作った連中は、ナチなみのトンチンカンな連中だといえよう。

単なるユダヤ教徒が、『旧約聖書』のユダヤ人の「故郷」だからといって、パレスチナの土地を奪う権利があったのか? 何十年にもわたって無駄な血を流す必要はあったのか? この問題は、将来も長きにわたって歴史家たちの間で問い続けられるだろう。

 

 
(左)イスラエル(パレスチナ地方)の地図 (右)イスラエルの国旗

 

●なお、注意して欲しいのだが、アシュケナジーム全てがシオニストというわけでもない。また、アシュケナジームの中には、自らのルーツがハザールであることを自覚して、シオニズムを批判している人もいる。本質的にシオニズムとユダヤ思想は別物なのである。この点についても、先に紹介した当館6Fのシオニズムのページで具体的に触れているので、興味のある方は参照して下さい。

 

 


 

■■第6章:1992年8月、ハザールの首都発見


●1992年8月20日付の朝日新聞夕刊は、アシュケナジー系ユダヤ人の由来まで踏み込まなかったものの、以下のような驚くべきニュースを報じている。

「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されて来た。 〈中略〉 この7月、報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で一週間の発掘調査をし、カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した……」

 


発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡(1992年)

 

●この発掘調査に参加した広河隆一氏は次のように語っている。

「ロシアは、ロシア・キエフ公国に起源を求め、それ以前にハザール帝国という文明国の影響を受けたことを認めたがらない。 〈中略〉 このハザールは世界史で果たした大きな役割にもかかわらず、ほとんど知られてこなかった。ビザンティンと同盟して、ペルシャやイスラム・アラブ軍の北進を妨げたのである。ハザールがなかったら、ヨーロッパはイスラム化され、ロシアもアメリカもイスラム国家になっていた可能性が高いという学者も多い」

「……しかしハザール帝国の“ユダヤ人”はどこに消えたか。ダゲスタンには今も多くのユダヤ人が住んでいる。彼らはコーカサス山脈の山間部に住むユダヤ人だったり、黒海のほとりからきたカライ派ユダヤ人の末裔だったりする。このカライ派ユダヤ人たちは明らかにハザールを祖先に持つ人々だと言われている。そして彼らはハザール崩壊後、リトアニアの傭兵になったり、ポーランドに向かった。 〈中略〉 私はチェルノブイリの村でもユダヤ人の居住区の足跡を見たし、ウクライナ南部では熱狂的なハシディズムというユダヤ教徒の祭りに出合った。『屋根の上のヴァイオリン弾き』はこの辺りのユダヤ人居住区『シュテートル』を舞台にしたものだが、この居住形態はヨーロッパ南部の『ゲットー』という居住形態とは全く異なる。そしてこの『シュテートル』がハザールの居住区の形態だと指摘する人は多い」

「ところで、ハザール帝国消滅後しばらくして、東欧のユダヤ人の人口が爆発的に増えたのはなぜかという謎がある。正統派の学者は否定するが、ハザールの移住民が流入したと考えなければ、この謎は解けないと考える人が意外と多いのだ。 〈中略〉 現代ユダヤ人の主流をなすアシュケナジーと呼ばれるユダヤ人は、東欧系のユダヤ人が中心である。神が約束した地に戻ると言ってパレスチナにユダヤ人国家イスラエルを建国した人々も、ポーランドやロシアのユダヤ人たちだ。 〈中略〉 ハザールの遺跡には、現在に至る歴史の闇を照らす鍵が隠されていることだけは確かなようである」


●ボルガ川はかつて“イティル川”と呼ばれ、カスピ海は今でもアラビア語やペルシア語で“ハザールの海”と呼ばれている。この地に残る巨大帝国の遺跡群は、シオニストたちに「おまえたちの故郷はパレスチナ地方ではなく、カスピ海沿岸のステップ草原である」ということを訴えているようだが……。



●ちなみに、前出のユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)の中で、ハザールについて次のように述べている。

 

 
(左)ユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツ
(右)彼女の著書『私のなかの「ユダヤ人」』。
この本は1982年に「集英社プレイボーイ・
 ドキュメント・ファイル大賞」を受賞。

 

「私が自分のアイデンティティを探して、父母の国ポーランドに深く関わっていたとき、私につきまとって離れない一つの疑問があった。それは父母の祖先が、いつ頃どこからポーランドに渡ってきたのだろうか、という疑問である。

ポーランドの歴史にユダヤ人の名が登場するのは、12世紀以降である。一体そのときに何があったのだろう。一般に信じられているユダヤ史では、ドイツにいたユダヤ人が十字軍に追われてポーランドに来たと説明されている。しかし証拠はない。 〈中略〉

ハザールの物語は、私に大きな衝撃を与えた。同時に私の心の中に何か安堵(あんど)のような気持ちが湧き上がってきた。うまく言葉にできないが、私は自分と『約束の地』の関係がきっぱり切れたように思えたのである。私はダビデやソロモンとの血縁が無いことになった。ユダヤ民族の祖先がパレスチナを追われ、悲惨な迫害に生き残り、再びパレスチナに戻るというシオニズムの神話にわずらわされることがなくなるわけである。そして、パレスチナにではなくコーカサスに私の根が求められるということは、不正から自分が解放されることになる。それに私は小さい頃から、スラブの地方に言いようのない懐かしさを感じていたのである。

さらに言えば、母がポーランドを逃亡した経路は、故郷に向かう道でもあったのではないか。危急存亡のとき、ポーランドのユダヤ人は、知らずしらず祖先の故国に向かったのではないか。ソ連とソ連領で解放されたユダヤ人が中央アジアを目指したのも、単にそこが暖かかったという以上の何かがあったからではないだろうか。」

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報: イスラエルは東欧系ユダヤ人の「ガリチア人」が支配している


●ユダヤ人作家ジョージ・ジョナスが書いた『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)というノンフィクション小説がある。

この本はモサド暗殺チーム隊長を務めた男(アフナー)の告白に基づく壮絶な復讐の記録である。

 

 
(左)『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』
(右)この本を書いたユダヤ人作家ジョージ・ジョナス

この本はモサド暗殺チーム隊長を務めた男の
告白に基づく壮絶な復讐の記録である

 

●この本の主人公アフナーは、本の最後のほうで、ため息混じりに、こうつぶやいている。

「しょせんイスラエルを支配しているのはガリチア人だ…」


●この「ガリチア」とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチは、ユダヤ教の一大中心地となっていた。

下の地図を参考にして欲しい。

 


ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)

 

●さて、この本の中には「ガリチア人(ガリシア人)」ついて具体的に説明されている箇所があるので、参考までに抜粋しておきたい。

※ 下の文章に出てくる「キブツ」とは、イスラエルの「共同村」のことで、
キブツの出身者はイスラエル国家を政治的にも経済的にも
社会的にも支えるエリート集団であると言われている。


「アフナーは4年間キブツですごしたが、そこで学んだことが2つあった。

1つは同じイスラエル人でも、まるで異なるイスラエル人がいるという現実を初めて知った。

キブツの主流は東欧系ユダヤ人の『ガリチア人』が占めていた。

ガリチアとはポーランド南東部からウクライナ北西部にかけての地域で、排他性、自堕落、うぬぼれ、狡猾、うそつきを特性とする下層ユダヤ人の居住地だった。

ガリチア人は反面、機敏で活力にあふれ、意志が強いことで知られる。しかもすばらしいユーモア感覚を持ち、勇敢で、祖国に献身的である。が、常につけ入る隙に目を光らせているから油断がならない。概して洗練されたものには関心がなく、平然とうそをつくし、信念よりも物質に重きを置く。おまけに地縁、血縁を軸とした派閥意識がきわめて強く、何かというとすぐに手を結びたがり、互いにかばい合う。ことごとくがガリチアの出身者ではないだろうが、しかしこれらの特性を持ち合せていさえすれば、まずガリチア人といってよかった。」


ガリチア人からすれば、アフナーのような西欧系ユダヤ人は『イッケー出』であった。イッケーとは、都会のユダヤ人街『ゲットー』や東欧のユダヤ人村『シュテトゥル』を経験したことがない、西欧社会に吸収された『同化ユダヤ人』のことである。礼儀正しく、万事に几帳面で清潔だ。書物を集め、クラシック音楽に耳を傾ける。しかも政治的には、イスラエルが北欧三国のような解放社会、独立国家になることを望んでいる。そして物不足になれば配給制を主張し、長時間の買物行列に加わることもいとわない。ガリチア人とは違って裏工作をしたり、不正な手段で物資を入手したりするのを忌みきらう。勤勉で時間、規則を重んじ、物事が組織的に運ばれることを好む。たとえばドイツ系ユダヤ人が圧倒的に多い。“イッケーの街”ナハリヤは区画整理が行き届いている。ある点で彼らはドイツ人よりはるかに“ゲルマン的”だ。」


アフナーはキブツ生活を通じて“ガリチア流”なるものを思い知らされた。東欧系ユダヤ人、とくにポーランド系ユダヤ人、ロシア系ユダヤ人なら徹底的に面倒をみる流儀であった。最高の働き口、世に出る絶好のチャンスはすべて彼らの手に渡るよう仕組まれる。キブツの主導権は彼らががっちり握っていた。

たとえば誰の息子があこがれの医学校に進むかという問題になると、学業や能力は無視された。むろん、建前は民主的に運営され、総会にかけて全員が投票し、進学者を決める。ところが、常に当選するのはガリチア人の子弟にきまっていた。

アフナーはキブツばかりでなく、軍隊を経て社会人になっても、ガリチア人の優位がついて回るのを知った。

ドイツ系、オランダ系、アメリカ系ユダヤ人などの出る幕がないほどであった。オリエント系ユダヤ人にいたっては、ガリチア人の助けを借りない限り、手も足も出なかった。


以上、『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)より

 

 

 


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