No.a4fhb100

作成 1998.1

 

東欧ユダヤ人のルーツ

〜 「出ドイツ仮説」の検証 〜

 

 


↑離散ユダヤ人の状況 (紀元100〜300年)

この時期にはまだ東欧ユダヤ人(アシュケナジーム)は存在していない


◆ ◆ ◆


「東欧ユダヤ人」はいつ誕生したのか? どこから来たのか?

「ハザール起源説」はどのくらいの根拠があるのか?

「出ドイツ仮説」を検証しながら
その謎に迫りたいと思う。

 

第1章
「出ドイツ仮説」の検証
<その1>
第2章
「出ドイツ仮説」の検証
<その2>
第3章
ポーランドの
ユダヤ人口爆発の秘密
第4章
ガリチア地方のユダヤ人の実態
第5章
「シュテトゥル」の起源
第6章
『ユダイカ百科事典』における
「ハザール王国」に関する記述
第7章
『世界大百科事典』における
「ハザール王国」に関する記述

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■■■第1章:「出ドイツ仮説」の検証 <その1>


現在、世界に存在するユダヤ人の90%以上は、アシュケナジーム(アシュケナジー系ユダヤ人)と呼ばれ、オリエントやアラブ出身のスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)とは区別されている。

一般にアシュケナジームのルーツについて“定説”とされてきたのは、西欧のユダヤ人が東部へ向かって流れ出して、ドイツ・ラインラントから東部へ移住したというものであった。

いわゆる「出ドイツ仮説」と呼ばれるもので、東欧のユダヤ人の祖先は西ヨーロッパ、特にドイツからの移住民であったと信じられてきたのである。

しかしこの伝統的「出ドイツ仮説」は、ラインラントのコミュニティーの規模の小ささ、ラインの谷間から出て行くほどの積極性のなさ、逆境下でのあまりにも紋切り型な対応の仕方、そして、当時の年代記などにその移動を示唆する記述が全くないなど、様々な問題を抱えている。

 

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「アシュケナジーム」というヘブライ語は、中世のラビ文献中では「ドイツ」の意味に使われており、一般に誤った印象を与える恐れのある語である。この語のイメージが、現代ユダヤ人の90%以上を占める東欧のユダヤ人の祖先は、ライン川から興ったとする伝説を生み出す原因となったのである。また、東欧のユダヤ人たちが使用していたイーディッシュ語は、ドイツ語からの借用語が多く、このことも「出ドイツ仮説」を支える結果となっていた。


●イーディッシュ語というのはユダヤ教の礼拝に用いられている言葉で、ナチスによるホロコースト以前は日常の話し言葉としても広く用いられていたが、今日ではソ連やアメリカの少数の伝統主義者の間で残っているだけである。

イーディッシュ語はヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語その他の混成語で、ヘブライ文字を使って書かれる。現在は、絶滅しかかっている言語であるためにかえってアメリカやイスラエルでは学問の対象として注目を集めるようになった。しかしそれまでは、20世紀に入ってからでさえ、ヨーロッパの言語学者の間では
単なる奇妙な訛り言葉でまともな学問の対象にはならないと考えられていた。



●イーディッシュ語におけるドイツ語からの借用語の多さは注目に値するが、どこの地方のドイツ方言が含まれたかを辿ることによって、逆に「出ドイツ仮説」が正しくないことが判明する。

ユダヤ史研究家ミエセスは、イーディッシュ語の語彙、音声、統語法を中世の主なドイツ語方言の幾つかと比較研究して、次のように結論している。

「フランスと国境を接する地域のドイツからの言語要素は、イーディッシュ語には全く見られない。J・A・バラスがまとめたモーゼル−フランコニア語起源の語彙リストからは、ただの一語もイーディッシュ語に入っていないのである。もう少し西部ドイツの中心に近いフランクフルト周辺の言語も、イーディッシュ語に入らなかった。……つまり、イーディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツは除外されてよい。……では、ドイツ・ユダヤ人は昔々、フランスからライン川を渡ってドイツへ移住してきたという定説が間違っていたということなのだろうか? 然り。ドイツ・ユダヤ人──アシュケナジームの歴史は、書き直されなくてはならない。歴史の間違いは、しばしば言語学の研究によって訂正されるものである。アシュケナジームはかつてフランスから移住してきたとするこれまでの定説も、訂正を待つ歴史の誤謬の一つなのである」


このように、ミエセスは、イーディッシュ語の中のドイツ語要素が西ヨーロッパ起源のものではないとして、これまでの定説を覆した後、イーディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは、いわゆる「東中部ドイツ方言」であると指摘している。この方言は、15世紀頃までオーストリアのアルプス地方およびバイエルン地方で使われていたものである。

つまり、イーディッシュ語に入ったドイツ語は、東ヨーロッパのスラブ・ベルト地帯に接する東部ドイツのものだったのである。



●ここで重要になってくるのが、中世の東欧・ロシアでは、ドイツの文化がもてはやされていたという点だ。例えばポーランドに住む人々は、ドイツ人の文化を喜んで受け入れ、ドイツ式のやり方を真似た。貴族階級さえもドイツ式を好むようになり、ドイツから来たものは何でも美しく素晴らしいと考えた。

当時、ポーランドにいたユダヤ人──アシュケナジームたちも、社会的成功のためにドイツ語を学ばざるをえなかったであろう。また、先住のポーランド人と商取引をする立場の人は、商業用ポーランド語も学ばねばならなかったであろう。手工業者や材木商人はドイツ人顧客にはブロークン・ドイツ語で話し、荘園内の農奴にはブロークン・ポーランド語で話し、そして家庭ではヘブライ語にドイツ語やポーランド語を適当に交ぜて、混成国際語としてのイーディッシュ語が形成されていったと推測される。


●もともとイーディッシュ語は長期にわたる複雑な過程を経て完成された言語である。書き言葉として現われるのは19世紀になってからであり、それ以前にはずっと「話し言葉」としてのみ使用されており、しかも決まった文法もなく、人が好きなように外国語を加えることができた。決まった発音も綴りもなかった。

ポーランドのユダヤ人の中で、ドイツ語の誘惑に精神的でも物質面でも抵抗をしたのはカライ派のみである。彼らはラビの学問も物質欲も拒否した。したがって、彼らはイーディッシュ語には決してなじまなかった。


●1897年の第1回全ロシア国勢調査によると、ロシア帝国(ポーランド含む)内には1万2894人のカライ派ユダヤ人がいた。彼らのうち9666人がトルコ語(ハザール方言)を母語としており、2632人がロシア語、そしてイーディッシュ語はたった383人であった。

しかし、カライ派というのはあくまで例外的存在といってよいだろう。一般論として、移住民というものは2、3世代のうちにはもとの言語を捨て、新しい土地の言語を採用するものなのである。例えば、現代アメリカの場合を考えてみても、東ヨーロッパからの移民の孫の世代はポーランド語やウクライナ語を話さない。そればかりか、祖父母のしゃべるチンプンカンプンな言葉をこっけいとさえ思うだろう。

このことから考えても、これまで多くの歴史学者たちがハザールからポーランドへの移住を裏付ける証拠を無視してきた理由というのが、ハザール人がハザール語とは異なった言語を使っている──移住後500年以上も経っているのに──という点だったとはとても理解しがたいことである。


●ついでながら付け加えると、聖書に登場するイスラエル12支族の子孫たちは、言語的適応性を示す見本と言えるほど、多くの言語になじんできている。最初、彼らが話していたのはヘブライ語である。バビロン補囚時代になるとカルデア語、イエスの時代にはアラム語、アレキサンドリアではギリシア語、スペインではアラビア語──ただし後にはラディノ語となる。

ユダヤ人は宗教上のアイデンティティーは守り続けたが、言語の方は都合のよいものにどんどん変えていったのである。ハザール人はイスラエル12支族の子孫ではない。しかし、彼らはイスラエル12支族のコスモポリタン気質と、その社会的特徴とを共有しているのである。

 

 


 

■■■第2章:「出ドイツ仮説」の検証 <その2>


次に、当時のドイツのユダヤ人の状況を具体的に眺めて、「出ドイツ仮説」を検証してみたいが、

これまで定説とされている、西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けた──は、歴史的にみて根拠が薄いことが分かるのである。

 

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●記録に残っている限りでは、ドイツにおける最初のユダヤ人コミュニティーは、906年のものである。この年、イタリアのルッカからマインツへ移住したカロニムスという人物の率いる一団があった。同じ頃、シュパイヤーやウォルムスにもユダヤ人が住んでいたという記録が見出される。

もう少し時代が下ると、トレブ、メス、ストラスブール、ケルンなど、ライン川沿いのアルザス地方にもユダヤ人コミュニティーができていたらしい。

この頃のユダヤ教会の記録類を見ると、ドイツでは3つの都市(ウォルムス、マインツ、シュパイヤー)だけが挙げられているにすぎない。これらのことから、11世紀初頭のラインラントでは、この3都市以外のユダヤ人コミュニティーは、まだとるにたらない程度の存在であったとみなしてよいだろう。


●1096年に第1回十字軍が起き、ラインラントのユダヤ人たちはキリスト教徒の十字軍によって大勢が虐殺された。この時の犠牲者は、ウォルムスでは約800人、マインツでは900〜1300人と、ヘブライ側文献では一致している。もちろん、死よりは改宗を選んだ人々もいただろうし、文献には生き残った人の数は記されていない。

しかし、この両都市でのユダヤ人総数は、死者だけの人数とされている数よりさほど多かったとは考えられず、ウォルムスとマインツで生き残ったユダヤ人の数は、それぞれせいぜい300人程度にすぎなかったと推測されている。


以上のように、ドイツ・ラインラントにおけるユダヤ人の人口は第1回十字軍以前でさえ、ほんの少人数であったと考えられ、十字軍が通過した後はますます減少してしまったということが考えられる。

しかも、ライン川より東の中央・北部ドイツには、当時──そしてその後かなり長い間──ユダヤ人コミュニティーは全く存在すらしていなかったのである。



●以前、ユダヤ史学者の間では、1096年の十字軍がドイツ・ユダヤ人の大集団を、ポーランドへ押し出したと考えられていたようであるが、これは今や伝説と化してしまった。当時はハザールの歴史についてはほとんど何も知られていなかったため、東ヨーロッパに何処からともなく出現した大量のユダヤ人の出どころが他には考えられず、辻褄の合いそうな仮説で埋め合わせしてきたのだ。


最近の文献では、ラインラントからドイツ東部へ向かってのユダヤ人の移住について、ましてや遥か東のポーランドへの移住に関しては全く触れられていない。

この旧学派に属するユダヤ人学者シモン・デュブノブは「東へ向かった第1回十字軍は、ユダヤ人集団をさらに東へ追いやった」といったん書いたすぐ後、次のように付け加えざるをえなかった。「ユダヤ史にとって非常に重要な意味を持つこの移動の状況に関し、詳しい記録は一切残されていない」。


●ところが一方では、次々と繰り出される十字軍の時代に、ドイツ・ユダヤ人コミュニティーがとった悲惨な行動の記録は豊富に残されているのである。

例えば、自ら死を選んだ者あり、抵抗して殺された者あり、中には幸運にも生き残った者もいた。この生き残り組は、緊急時には一応法律上はユダヤ人を保護する立場にあった司教や軍事長官の城塞にかくまわれていたのだった。ただ、この種の保護は常に有効であったとは言えないが、ともかく十字軍が嵐のように通り過ぎた後、生き残った者たちは略奪された我が家へ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)へと戻って行って、そこで新たな出発をしたのであった。


●年代記には、トレブで、メスで、その他の地域で、このパターンの繰り返しが見られる。第2回以降の十字軍遠征の頃になると、ユダヤ人側の対応の仕方も手慣れたものになってくる。

「新しい十字軍が沸き起こると、マインツ、ウォルムス、シュパイヤー、ストラスブール、ウュルツブルクその他の都市のユダヤ人たちは、書物その他の財産を新しい隣人に託して、近くの城塞へと逃げこんだ。」

これらの史料の一つである『追想録』を書いたエフライム・バー・ヤコブ自身も13歳の頃、ケルンからウォルケンブルク城へ逃れた避難民の一人であった。ソロモン・バー・シモンによると、第2回十字軍の時代には、マインツのユダヤ人はシュパイヤーにかくまわれ、やがて故郷へ戻って新しいシナゴーグを再建したという。


これが年代記に一貫して現われるモチーフである。ユダヤ人が東部へ向かって流れ出していったという記述は一言もないのだ。さらに指摘するならば、ドイツ東部は当時はまだ「ユーデンライン」(ユダヤ人に汚されていない土地)であった。そしてそれからも、数世紀にわたって「ユーデンライン」であり続けるのである。



●なお、13世紀に入るとドイツのユダヤ人コミュニティーは多少回復の兆しを見せる。しかし、これはほんの短い猶予期間にしかすぎなかった。14世紀になると、フランスとドイツのユダヤ人には、また新たな迫害の手が伸びてきたのであった。

その最初の悲劇は、フィリップ4世の領地からの全ユダヤ人追放であった。フィリップ4世に追い出されたユダヤ人たちは、フィリップ4世の版図外にあるプロバンス、ブルゴーニュ、アキテーヌ、その他のフランス内の封建領土へと逃れて行った。

「フランスのユダヤ人がまさに崩壊の危機に瀕していたこの時代にも、ドイツのユダヤ人人口がフランスからの流入によってその数を増したという記録は全く残されていない」とユダヤ史研究家ミエセスは述べている。


●また、ユダヤ人がフランスからドイツを通り抜けポーランドへ移動していったという記録も、この時代にはもちろん、その他の時代にも全く見当たらない。

フィリップ4世以後の時代になると、ユダヤ人は一部呼び戻された(1315年および1350年)が、もとの状態に回復することは不可能であったし、新たに湧き起こる迫害を阻止することもできなかった。

14世紀末頃まではイギリス同様、フランスも事実上「ユーデンライン」(ユダヤ人に汚されていない土地)であったと言えるであろう。




●14世紀のユダヤ史上第2の悲劇は「黒死病(ペスト)」であった。東方、クリミア半島からやってきたこの疫病は、1348〜1350年の2年間だけで、ヨーロッパ全人口の3分の1(地域によっては3分の2)を消し去った。

この黒死病は、十字軍に続いて、東欧のユダヤ人の起源の謎を解く“第2の鍵”だと長らく考えられていたのであるが、黒死病の場合も、ユダヤ人の「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無である。

黒死病の時も、ユダヤ人の生き残りへのたった一つの道は、十字軍の時と同様にドイツを出ることではなく、ひたすら団結して砦のような場所か、多少は敵意の少ない地域にかくまってもらうというものだった。


●黒死病の時代にユダヤ人が移住を行った唯一の例としてミエセスが言及しているのは、シュパイヤーのユダヤ人がハイデベルクに逃れたというものであるが、これでも、ほんの10マイル程度の移動にしかすぎない。


黒死病の通りすぎたあとのフランスとドイツでは、ユダヤ人コミュニティーは事実上消滅してしまった。その後、ほんの2、3の小集落が細々と生活していただけで、スペインを除く西ヨーロッパ全域はそれから200年間というもの「ユダヤ人に汚されていない土地」(ユーデンライン)であった。

16〜17世紀になって、イギリス、フランス、オランダに、近代コミュニティーを開いたユダヤ人たちというのは、スファラディム(スペイン系ユダヤ人)と呼ばれる全く別の系統のユダヤ人である。彼らはそれまで1000年以上にもわたって住んでいたスペインから、この頃になって追い出されたのであった。


●このように、これまで定説となっていた西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けたとされていたのだが──は、歴史的にみて根拠が薄いことがわかる。「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無といってよいのだ。



●以上、アーサー・ケストラーの『第13支族』をもとにして論を展開(再構築)してみたが、誤解してほしくないのは、西側から東欧地域へのユダヤ人の流入は「ゼロ」だと言っているわけではないということである。当然、ポーランドなどの東欧地域には、西側から流れ込んだユダヤ人もいたであろう。しかし、それは通常考えられてきたような規模ではなく、ごくごく少数だったと推測されるのだ。この件(ポーランドのユダヤ人)に関しては、次章からさらに具体的に触れていこうと思う。

 

 


 

■■■第3章:ポーランドのユダヤ人口爆発の秘密


■■ポーランドのユダヤ人


●興味深いことに、ポーランド建国にまつわる言い伝えの中に、ユダヤ人が重要な役割を担っている話がある。この言い伝えによると、スラブ系部族同盟が王として選んだのは、アブラハム・プロコウニクという名のユダヤ人であった。彼はへりくだって王位を固辞し、先住民族の中からピャストという名の百姓を王に推した。こうして、ピャストは、962年頃から1370年までポーランドを治めたピャスト王朝の創始者となったのである。

ピャスト王朝下のポーランド人とその隣人リトアニア人は、急速にその領土を拡張したため、移住者を呼び入れることによってその土地を植民地化し、そこに都市文化を築き上げる必要に迫られていた。彼らはキプチャク汗国によって占領された地域のアルメニア人、南部スラブ人、ハザール(ユダヤ)人などの移住者を積極的に受けいれた。移住者の中には、クリミア・タタール人のような捕虜も多数含まれていた。


●この頃のポーランドは農業国で、貴族たちの所有する荘園に分割され、その土地は農奴によって耕されており、商業もまだドイツほど発展してはいなかった。そこで王侯や貴族たちは、国の建設を助けてくれるユダヤ人たちを一種の「代用市民階級」として扱い、1334年以来特権を与え、独自の自治組織を作らせた。

とりわけボレスワフ5世と、ポーランド史上ただ1人の大王カシミール(カジミェシュ3世)は、ユダヤ人を好遇したことで知られている。ユダヤ人たちは期待にこたえ、手工業の知識や豊かな商売体験を生かしてポーランドの発展に尽力した。



●1569年、ポーランドにリトアニアが統合され、ポーランド王国は北はバルト海から南は黒海にまで拡がった。そしてその住民はポーランド人、ウクライナ人、白ロシア人、リトアニア人、ハザール(ユダヤ)人など様々な民族から成り立っていた。

ユダヤ人は、はじめはクラカウ、ルボフ、ルブリンなど大都市に住んでいたのだが、やがてポーランド王国の全域の町や村に住みつき、そこにユダヤ人集落「シュテトゥル」を作って生活した。彼らのうちの少数は、そこで農奴が耕す貴族の土地を管理したり、衣服やぜいたく品を商ったり、材木や毛皮を扱ったりして生計をたてたが、大部分の者は製靴、製帽、洋服の仕立てなどの手工業、行商、野菜作りなどによって暮らしていた。これは後の時代のロシアのシュテトゥルにおいても同じようなものであった。


●ポーランドの「ユダヤ人議会」は1581年にルブリンで初めて開会された。この議会は少なくとも1年に1度開かれ、その議員のなかから「ユダヤ人総帥団」という1つの評議会、すなわち総帥団長、ラビ総長、総書記、総財務管理官を選出することになった。

こうしたことによって、ユダヤ人はかつてない制度を意のままにすることができた。たしかに他の国々でも「ユダヤ人地方議会」やそれに類する組織は認められてはいたが、しかしそれらはポーランド=リトアニア連合王国におけるほどの重要性を持つには至らなかった。

 

■■東方から流れ込んできた25万ものユダヤ人集団


ポーランドのユダヤ人の数は、16世紀のはじめ頃は5万ぐらいであった。しかし、その後1世紀半のうちに7倍も増えた。17世紀半ばには35万人以上、人口の10%に及およんだ。ユダヤ人は広く各種の職業に従事するようになり、また君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化もこの地で栄えた。18世紀の半ばには彼らの数は75万人以上になった。

いったいなぜこの時期突然、爆発的にポーランドのユダヤ人の数は増えたのであろうか?

これは、東欧ユダヤ人のルーツを探る上で、非常に注目すべき現象である。



●実はこの時期、ポーランド国内には東方、ロシアからリトアニアを経て、ユダヤ人の移住者が多く流れ込むようになったのだ。たいてい彼らは社会的、経済的な困窮から移住したり、居住地区以外の地方から追放されたユダヤ人で、決して自らをロシア人だとはみなさず、ユダヤ人(リトアニア系ユダヤ人)だとみなしていた。

後の時代に数多くの西欧ユダヤ人が、移住してくる東欧ユダヤ人に対して当惑し、拒絶反応を示したのと同じように、ポーランドのユダヤ人の、とくに同化の意志のある者のかなりの部分は、東方からやってくるリトアニア系ユダヤ人移住者を不信の目で、それどころか反感と侮蔑の目で見ていた。


●こうした東方から移住してくるユダヤ人(総計で約25万人にのぼった)は、イーディッシュ語の別の方言を話し、ユダヤ人社会の外ではポーランド語ではなくロシア語を使い、まわりの世界からずっと遠く離れて自分たちだけで閉じこもり、外面的にも振舞いの点でも、非常に貧しく汚い格好をしていた。

そのため、貴族、キリスト教僧侶、市民たちの間に、彼らへの反感が高まり、反ユダヤ的気運が強まっていった。ポーランドのユダヤ人も非ユダヤ人も、ポーランド人とユダヤ人との共生の失敗と、勢いを強めるユダヤ人敵視との責任を、このリトアニア系ユダヤ人にいつでも即座に負わせる用意ができていた。彼らは身代わりとして、ロシア人嫌悪のはけ口にされたのである。



●17世紀に入るまでポーランドのユダヤ人は、政府から自由を与えられ優遇されて、生活はうまくいっていた。ポーランド社会に溶け込んで経済の分野で比較的重要な役割を受け持っていたユダヤ人も多くいた。

しかし、東方から20万人以上もの大規模な「ユダヤ人集団」(リトアニア系ユダヤ人)が流入してくるようになると、雲行きは怪しいものに変わっていったのである。


17世紀の半ば、ついにポーランドで悲劇が起きた。ボグダン・フメリニツキーを首領に頂くウクライナ・コサックによって、ポーランドのユダヤ人は大虐殺の犠牲になったのである。このウクライナ人たちは、ウクライナをポーランドの支配から解放する名目で立ち上がったのであるが、ユダヤ人が「身代わりの羊」にされたのだ。

 

 
ボグダン・フメリニツキー

1648年に「フメリニツキーの乱」を起こし、
多くのユダヤ人を虐殺した

 

さらにその後、ポーランドは東からロシアのツァー、西からはスウェーデンのカール10世の侵入をうけ、数十万のユダヤ人が殺されたのである……。



●ちなみに、1822年、ユダヤの詩人ハインリヒ・ハイネはある旅行記のなかに、当時のポーランドのユダヤ人について、西欧のユダヤ人と比較しながら、次のように書き残している。

参考までに紹介しておきたい。

 


ユダヤの詩人
ハインリヒ・ハイネ

 

「ポーランドでは農民と貴族との間に、ユダヤ人が立っている。 〈中略〉 数少ない例外を除けば、ポーランドの飲食店はすべてユダヤ人の掌中にあり、ユダヤ人の多くの蒸留酒製造所は、それがあるために農民が暴飲暴食に駆り立てられることによって、田舎では非常に有害なものとなっている。 〈中略〉 貴族の誰もが村あるいは町にユダヤ人をひとり抱えており、貴族はユダヤ人を支配人と呼ぶとともに、ユダヤ人は貴族のあらゆる委任、売買、調査などを遂行している。」

「ポーランドのユダヤ人の外見はひどいものである。 〈中略〉 しかしながら、この人たちの置かれた状況をより詳しく観察し、豚小屋然とした数々の家屋を見た後には、嫌悪は間もなく同情によって押しのけられた。人びとはかかる家屋に住み、イーディッシュ語なまりで話し、祈り、値切り、そして不幸にあえいでいる。彼らのことばは、ヘブライ語を織り交ぜ、ポーランド語で象られたドイツ語である。 〈中略〉 彼らは明らかにヨーロッパ文化と歩調をあわせてはこなかったし、彼らの精神世界も不愉快な迷信の泥沼に堕していた。こうした迷信は、細事にこだわるスコラ学であれば、一千もの奇態な形式のなかへ押し込めている類のものである。」

「ポーランドのユダヤ人の頭を覆っているのは野蛮な毛皮の帽子であり、頭を満たしているのは帽子以上に野蛮な考えであるが、それにもかかわらず、わたしはポーランドのユダヤ人を、頭にボリヴァール(当時の流行りの帽子)をのせて頭のなかにジャン・パウルを入れて持ち運んでいる多くのドイツのユダヤ人よりも、ずっと高く評価する。著しい閉鎖性のなかにあって、ポーランドのユダヤ人の性格はひとつのまとまった総体となった。寛容の気を吸い込んで、こうした性格は自由の刻印を得たのである。 〈中略〉 汚れた毛皮を着て、稠密な髭をたくわえ、ニンニクの匂いをぷんぷんさせ、イーディッシュなまりで話すポーランドのユダヤ人は、国債証書の栄華に包まれた多くのドイツのユダヤ連中よりも、わたしにはずっと好ましいのである。」

 

 


 

■■■第4章:ガリチア地方のユダヤ人の実態


■■ハプスブルク帝国とガリチア地方のユダヤ人


●ロシアの影響下にある地域の外では、ハプスブルク帝国、なかんずくガリチア地方に最も多くのユダヤ人が生活していた。ガリチア地方とは、現在はウクライナ(東ガリチアが所属)とポーランド(西ガリチアが所属)にまたがっている地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。

この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチは、ユダヤ教の一大中心地となっていた。

 


ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)

 

このガリチア地方がハプスブルク帝国領となったのは1772年である。翌1773年6月、ヨーゼフ2世は初めてガリチア地方の視察旅行を行ったが、おびただしいユダヤ人の貧困に衝撃を受けた皇帝は、当地の役人に向かって、「これらの者たちはいったい何を食べて生きているのか?」と質問したというエピソードが残っている。

 


神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世
(在位1765〜90年)

 

●ガリチア地方では毎年、大勢のユダヤ人が飢えで死んだ。貧困のため、身売りするユダヤ人女性もあとをたたなかった。

精神分析学者フロイトの患者アンナ・O(本名ベルタ・パッペンハイム)は、ユダヤ女性解放運動の草分けとして知られる。その彼女の最も知られた著作は、ガリチア地方の売春と女性売買に関する実態報告書である。調査のために当地を訪れた彼女は、ユダヤ人の窮乏に驚き、その改善なくして女性売買の根絶はありえぬと説いたのである。

 


フロイトの患者アンナ・O
(本名ベルタ・パッペンハイム)

ユダヤ女性解放運動を指導した

 

●ガリチア地方を支配するようになったハプスブルク家の政策は、ユダヤ人にとくに好意的というわけではなかった。絶対主義的「寛容」の時代に、その他の国々においてと同じように、特にユダヤ人の兵役義務と職業の自由に関して争いが起きた。

1773年以降、結婚はオーストリアの総督の認可が必要になった。男子の総領のみが結婚を許され、結婚によって「家長」となったが、これはボヘミアやモラヴィアと同様であった。1785年には、さらに結婚の認可は一定のドイツ人の教養水準と結びつけられた。

すでに1776年には、酒場の経営と貴族の領地の賃借が、ユダヤ人に対して禁じられていた。1789年にヨーゼフ2世は「特別寛容令」を発布したが、これは、ユダヤ人の自治制の範囲を狭め、経済上の禁止事項をいっそう強化し、居住制限を行うもので、名字をつけることを義務づけ、厳しい結婚政策を承認するものであった。



この時期、ロシアとハプスブルク帝国との交易は拡大を続け、ユダヤ人はここから利益を得るようになった。とくに国境の町ブロディは、商品の重要な積み替え基地となり、ガリチア地方の押しも押されぬ“ユダヤ人の首都”となった。

ブコヴィナでも原則として、同じような事情が支配していた。ブコヴィナは1775年、トルコからオーストリアへ割譲され、それ以来、ガリチア地方に属していた。


ハプスブルク帝国の全領域でのユダヤ人住民の数は、40万人弱(1785年)から約100万人(1803年)に上昇した。

ちなみに、この当時の西欧のユダヤ人の数は、17世紀半ば頃のフランクフルトには2千人、ウィーンには3千人、ベルリンには1770年に、4千人弱のユダヤ人しか住んでいなかった。このことからも、いかに東欧に住むユダヤ人の数が西欧よりも圧倒的に多かったかが分かるだろう。



さて、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、ガリチア地方のユダヤ人は、戦乱やロシア人による迫害(ポグロム)を恐れ、大量の難民となって帝国の後方(主としてウィーン)に殺到した。

ウィーンではドイツ人に歓迎されることはなかったが、既にウィーンに住み着いていてドイツ社会に同化していたユダヤ人たちにも歓迎されず、辛酸をなめることとなった。


●ガリチアの国土は、帝国軍による奪回、ロシアによる再侵攻を経て、1917年夏、帝国領に戻った。

しかし1918年11月、「オーストリア=ハンガリー帝国」が崩壊すると、ポーランド人やチェコ人などが民族自決・独立する中、ガリチアのユダヤ人は独立を果たせぬまま難民化することになった。

 

 
ガリチアから避難するユダヤ人戦争難民(1915年)

 

●「オーストリア=ハンガリー帝国」が崩壊した後、何ヶ国かが東ガリチア地方の領有に関して争ったが、1921年3月、ポーランドとソ連との「リガ条約」によって、東ガリチア地方もポーランド領とされた。

そして、第一次世界大戦中にウィーンやボヘミア、モラビアなどに避難していたユダヤ人の多くが、戦争の傷跡も生々しいガリチア地方に追い返されたのである。

 

■■ルーマニアのユダヤ人


●ところで、ルーマニアには20世紀の初頭、約30万人のユダヤ人が住んでいた。

これは人口の約4%にあたった。19世紀の間に、ユダヤ人の割合が相当に増えたのだ。なぜなら、ロシア帝国とガリチア地方とから、兵役や強まる一方の抑圧から逃れようとする避難民が多数、流入してきたからであった。

たいていはモルドバに住み着いた。ブカレストでは世紀転換期の頃、ユダヤ人は人口のほとんど15%を占め、ヤシではそれどころか40%を越えていた。支配者階級は流入移住民を「外国人」とみなし、こうしたイメージをルーマニアの全ユダヤ人に転用した。


●ルーマニアのユダヤ人は、ドイツ語を使用するのを好んだ。1890年に45%のユダヤ人がドイツ語を使用していると申告していたが、その10年後には、74%のユダヤ人がドイツ語を使用していると申告するようになった。この点に、ドイツ人に与しようとする努力が当初いかに大きかったかがよく表われている。このデータには、ドイツ文化への根強いこだわりも反映しているが、こうした傾向は他の東欧諸国のユダヤ人にも見られるものであった。


●チェコ生まれのユダヤ人小説家フランツ・カフカは次のように書いたことがあった。

「ユダヤ性から離れる道は 〈中略〉 ドイツ語で書き始めた多くの者が望んでいたものである。彼らはそれを望んでいたが、後ろに残した脚のほうは、父親ゆずりのユダヤ性をくっつけたままであり、前へ踏み出した足のほうは、足を下ろす新しい地面を見出せずにいた。」

 


ユダヤ人小説家
フランツ・カフカ

 

ルーマニアのユダヤ人は、第一次世界大戦中、多くの者が見せかけばかりの味方、ないしはハプスブルク帝国のスパイとさえみなされて迫害を受けた。

戦争の結果として、ロシアからはベッサラビアを、オーストリアからはブコヴィナを、ハンガリーからはジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア)を獲得したことによって、ルーマニアのユダヤ人の人口は1920年までに80万人に手が届くまでに、言いかえれば全人口の4.5%に増加した。1920年代の終わりには約100万人にもなり、ロシアやポーランドに次いで、東欧で最も大きな数に達した。

 

 


 

■■■第5章:「シュテトゥル」の起源


■■独特のユダヤ人集落「シュテトゥル」


●ところで、ポーランドには独特のユダヤ人集落「シュテトゥル」が存在していたが、このシュテトゥルは「ゲットー」と同じものではない。ゲットーというのは、キリスト教徒がユダヤ教徒を強制的に隔離して住まわせた場所で、高い塀に囲まれ、常に人口過密状態で、衛生状態はひどいものだった。

一方、「シュテトゥル」は自発的に作られた自給自足の田舎町で、住人はユダヤ人だけかほとんどがユダヤ人という構成であった。この小さなユダヤ人の町は、世界中のディアスポラ(ユダヤ人離散)の中でも東欧にしか見られない社会構造、生活様式であった。

 


「シュテトゥル」の風景

「シュテトゥル」というのは、イーディッシュ語で
「小さな都市」を意味し、住民の大部分がユダヤ人からなり、
農民を中心とする周辺の非ユダヤ人を相手に商工業を
営んだユダヤ人の小さな田舎町だった。

 

●テルアビブ大学の中世ユダヤ史の教授A・N・ポリアックは次のように書いている。

「『シュテトゥル』の緊密なネットワークがあったので、ユダヤ人の作った素晴らしい荷馬車で、工業製品を全国くまなく行き渡らせることができるようになった。特にポーランド東部では、この種の運送業は事実上、ユダヤ人の独占業種となっていた。19世紀になって鉄道が敷かれるまで、この独占は続いた。」


●この「シュテトゥル」と同じような集落が、かつての巨大国家、ハザール王国にも存在していた。

そこでは定期的に市が開かれ、羊その他の家畜、都市で作られた工業製品、田舎の家内工業の手工芸品などの売買や物々交換が行われていた。ゲットーのユダヤ人があまり移動をしない定住型であるのに対し、ハザール人は他の半遊牧民族同様、常時、馬や牛にひかせた荷馬車でテント、日用品、家財などを移動させる生活をしていたのである。時には、数百人も収容できるサーカステントほどの大きさの王族用テントを移動させることさえあった。


●ポーランドの歴史学者アダム・ヴェツラニは次のように言っている。

「ポーランドの学者たちの見解では、ポーランドにおける初期のユダヤ人集落はハザールおよびロシアからの移住民によって作られ、南・西ヨーロッパのユダヤ人からの影響より先だったという点で一致している。 〈中略〉 また、最初期のユダヤ人の大部分は東部、つまりハザール起源であり、キエフ・ロシアはその後になるという点でも一致している」



●シュテトゥルは、宗教も言語も文化も、他とは異なるユダヤ人独自の共同体であり、東欧にあって、また、中欧その他においても、基本的には他民族と深く関係することを拒絶した。その結果、東欧ユダヤ人は他民族の文化に同化されず、シュテトゥルも他民族の国家に吸収されず、いわば、国家の中に存在する「国家内国家」となっていた。


●しかし、この独自な共同体は、主に19世紀後半から革命期に至って発生したポグロム(ユダヤ人迫害)のために、しだいに崩壊していった。さらに、1939年以後、ポーランドに侵入したドイツ軍の破壊活動とユダヤ人虐殺により、東欧からついには姿を消した。シュテトルの世界は、第三帝国の強制収容所の中に消滅したのであった。

現在、東欧系ユダヤ人にとって、「シュテトゥル」は、思い出多き町、郷愁を豊かにかりたてる世界を悲しく思い起こさせる言葉となっている。



●ちなみに、宗教・民族に関して数多くの著書を出している、明治大学の有名な越智道雄教授は、ハザールとアシュケナジーム(東欧ユダヤ人)について次のように述べている。

「アシュケナジームは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第2神殿』破壊以後、ライン川流域に移住したといい伝えられたが、近年では彼らは7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き、9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。10世紀半ばにはキエフ・ロシア人の侵攻でボルガ下流のハザール王国首都イティルが滅び、歴史の彼方へ消えていった。彼らこそ、キリスト教とイスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だったわけである。
2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムやホロコーストに遭遇したのが、このアシュケナジームだったとは、ふしぎな因縁である。 〈中略〉 現在、スファラディムが数十万、アシュケナジームが一千万強といわれている」

 


アシュケナジームと
スファラディムの移動地図

 

 


 

■■■第6章:『ユダイカ百科事典』における「ハザール王国」に関する記述


●『ユダイカ百科事典』という面白い本がある。これはユダヤ人の学者たちが編纂する、今日ではユダヤ文化・宗教・歴史・人名・地名・政治に関する最も権威ある百科事典とされているものであるが、この百科事典には「イスラエル版」と「外国版」があって、「イスラエル版」はイスラエル国内でないと読むことができない。

そして興味深いことに「イスラエル版」のほうでは、ハザール人の起源とヨーロッパのユダヤ人の接点について以下のように記述し、東欧のユダヤ人が中欧(ドイツ)のライン地方から移住したという通説を否定している。

「……中世の東ヨーロッパにおけるユダヤ人の存在およびユダヤ思想には、大きな影響力があった。東方から中央ヨーロッパに向かっての移住集団が、“ハザール”と呼ばれていた事実から、彼ら東欧のユダヤ人の起源がハザール王国にあった可能性を無視することはできない。」


●また、同じ『ユダイカ百科事典』によれば、15世紀末にスペインから追放されたスファラディ系ユダヤ人(スファラディム)が17世紀に減少したのに対し、“シュテトル”と呼ばれる独特の村落を形成した東欧のアシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジーム)の人口は増加しているという。

さらに12世紀の中央ヨーロッパで、ハザールと呼ばれる移住集団に関する記録が消滅すると、その後まもなくアシュケナジー系ユダヤ人の歴史が始まっているのだという。しかも、12世紀において、アシュケナジー系ユダヤ人が全ユダヤ人の6〜7%にしか過ぎなかったにもかかわらず、現在は全ユダヤ人のうちの90%以上を占めているという。

 

 


 

■■■第7章:『世界大百科事典』における「ハザール王国」に関する記述


●1992年に出版された『湾岸報道に偽りあり』(木村愛二著・汐文社)という本がある。この本にはハザールに関する記述があり、平凡社の『世界大百科事典』の内容についても言及されている。

参考までに、抜粋しておきたいと思う。

 


『湾岸報道に偽りあり』
木村愛二著(汐文社)

 

 

──「ユダヤ人」の90%はタタール系ハザール人だった──

 

ユダヤ人問題は百科事典編集者にとって最大の難問題の一つですよ」と語るのは平凡社の社員だった知人、百科事典のベテラン編集者である。日本で現在も版を重ね、続けて発行されている百科事典の中では、平凡社の『世界大百科事典』がいちばん古い。初版以来、版を重ねるたびに、各項目の記述を再検討し、必要なら改訂するのだが、その際いつも、「ユダヤ人」の「血統」問題で苦労したというのだ。

もちろん、2000年前にエルサレム神殿が破壊され、ディアスポラ(離散民)となって以来の歴史だから、当然、各地での混血は生ずる。しかし、ここでいう難問題の「血統」は、それとはまったく質を異にしている。

結論を先にいうと、世界中の「ユダヤ人」の約90%は血統的に見ると、もともと、かつてのユダヤ王国起源、つまり、「モーゼに率いられてエジプトを出たユダヤの民」の末裔ではないのだ。大部分は、ユダヤ教に国ごと改宗したタタール系民族で、南ロシアに7世紀から10世紀にかけて周辺諸民族を帝国支配下に置いていたハザール(英語で「Khazar」、カザールとも記す)王国起源なのである。



私はこの事実を、湾岸戦争中に読んだ『ユダヤ人とは誰か』で初めて知って驚き、他の資料を当たってみた。単行本も何冊か発見したが、特に、平凡社の『世界百科事典』に記述があったので、すでに以前から「知るひとぞ知る」類いの問題だったことが確認できたのだ。

これは、歴史ファンにとっては、実に魅力的な歴史ロマン大発見であろう。パレスチナ問題という当面の障害さえなければ、歴史ファンにとってもともと、ユダヤほど興味深い題材はない。日本にだって古事記や日本書紀などがあるが、世界的に見て、旧約聖書にかなう古代文献はない。エジプトやメソポタミアから未知の古記録が発見されるたびに、世界史の謎を解くカギの一つとして、様々な議論の中心になっている。

ところが、あれだけ自分の民族の歴史に執着してきた「ユダヤ人」(ユダヤ民族、より正確にはユダヤ教徒)が、2000年前にエルサレム神殿破壊、ディアスポラ(離散民)となって以来の歴史を、自ら積極的に語ろうとはしないのである。奇妙な話なのだが、下手にさわると、反ユダヤだ、ナチだ、ヒトラーだとまでいわれかねない。危険な政治問題となるために、歴史ファンが公然と議論もできず、歴史学者もオソル、オソル。まさに「さわらぬ神に祟りなし」という表現がピッタリの状態だったらしい。私自身も歴史ファンの一人として、なんとか、こういう魅力的ロマンを自由に議論できる平和な状態にしてほしい、と願わずにはいられないのだ。



ユダヤ人は、むしろ、ユダヤ教徒の集団として考える方が実態に合っているが、ディアスポラには2つの大きな流れがあった。現在のイスラエルでも、その象徴として首席ラビ(指導的聖職者)が2人おかれている。流れの一つはセファルディム、もう一つはアシュケナジムと呼ばれている。

セファルディムの語源はスペイン(エスパーニャ)と同じで、パレスチナ地方からスペインに流れた集団を祖先としている。言葉もスペイン語をたくさん取り入れたラディノ語を使っていた。セファルディムは中世にスペインから追われ、主に北アフリカに移り住んだ。人種的特徴は、現地のアラブ人に近く、肌色も褐色が多い。

アシュケナジムの語源には諸説あるようだが、ドイツの意味とも解釈され、やはりドイツ語を沢山取り入れたイディッシュ語を使っていた。

そこで、「百科事典編集者にとって最大の難問題の一つ」という話を検証してみよう。確かに、そのつもりで『世界大百科事典』(平凡社、1988年)をめくると、それらしき苦労が感じられる。いくつかの項目を比較検討しないと実像に迫りにくい記述なのだ。

「アシュケナジム」の項では、「最初はライン地方のユダヤ人を意味した」とし、「第二次世界大戦前には、全世界のユダヤ人口1650万の90%はアシュケナジムであった。ナチスのホロコーストはこの比率を大きく低下させた」と記している。

「ユダヤ人」の項では「東欧ユダヤ人」を区分し、以下のように説明する。

「ロシア、ポーランドなど東ヨーロッパ諸地域にも多くのユダヤ教徒が居住していた。その一部はスペインでの迫害を逃れて移住した人びとであったが、他のかなりの部分は、ハザール王国の滅亡とともに各地に離散したユダヤ教徒であった。……彼らは19世紀後半に帝政ロシアの迫害と貧困を逃れるため大量に西ヨーロッパ諸国、さらにアメリカへと移住した。」

「ハザル族(ハザール)」の項では「王族は、9世紀の初めユダヤ教に改宗した」としている。



さてそこで、「アシュケナジム」の一員で、ハンガリー生まれのユダヤ人、アーサー・ケストラー(故人)が著わした『第十三支族・ハザール帝国とその末裔』の日本語訳が『ユダヤ人とは誰か』と題して出版されていた。この本の主張は、大変に強力な「ハザール起源説」である。

アーサー・ケストラーは、やはり『世界大百科事典』に詳しく載っている有名な作家であった。1905年にブダペストで生まれ、ウィーン大学の学生時代からシオニストとして活躍している。だから決して、いわゆる「反ユダヤ主義者」などではない。1945年にはロンドン・タイムズの特派員としてイスラエル建国前のパレスチナにいた。1956年にはイギリス王立文学会特別会員となり、1964年から1965年にはカリフォルニアのスタンフォード大学の行動科学研究所特別会員だった。著書には、日本でも有名な『スペインの遺書』や『真昼の暗黒』『黄昏の酒場』『見えない手紙』『夢遊病者』『コール・ガールズ』がある。さらにニュー・サイエンスの『機械の中の幽霊』『ホロン革命』などを著した思想家としても知られている。

彼が『ユダヤ人とは誰か』を出版したのは1977年であった。ところが1983年、同書の訳者解説によれば、「彼の死を報じた新聞はその業績とともに彼の多くの著書を紹介したが、本書は著書名の中には挙げられていなかった」。『世界大百科事典』の「アーサー・ケストラー」の項にも、この本の名は記されていない。しかし、「本書」は最初から無視されていたのではなかった。
「この本が初めて世に出た頃には『ニューヨーク・タイムズ』でさえ次のような賛辞を贈っていた。『ケストラーの優れた書物は非常に興味深いものである。その手腕、優雅さ、博学などはもちろんのこと、それににもまして著者そのものがそれらすべてを駆使して真実を導き出そうとした努力、さらにその結論には大いに敬意を表するに値するものがある』。『ウォール・ストリート・ジャーナル』も同じように称賛していた。『興味を持つためにユダヤ人であることが何も必要条件とはならない。……今日のヨーロッパのユダヤ人達は本当に聖書が言っているセム系のユダヤ人なのか。それとも大多数は改宗したハザール人の子孫なのか。このコンパクトで興味をそそる本は……この問題に潜んでいる悲劇的かつ皮肉な結論を暗示し……それゆえに人々の心を魅了してやまないであろう』」

ただし『ニューヨーク・タイムズ』の書評の扱いに関しては、ユダヤ系ジャーナリストのリリアンソールが、「書評欄の片隅に目立たないように押しこめられていた」と批判している。リリアンソール自身も、ケストラーより2、3年先に『イスラエルについて』を著し、次のように指摘していたという。

「東西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な祖先は、これらの8世紀に改宗したハザール人たちであり、このことはシオニストたちのイスラエルへの執念を支える一番肝心な柱を損ないかねないため、全力をあげて暗い秘密として隠されつづけてきたのである」



詳しい論争に立ち入る余裕はないが、なにしろハザール自体が、とてつもなく広い南ロシア平原地帯の騎馬民族であり、中世の「失われた歴史」の民なのである。おそらくは、色々な人種、民族、文化の混合体だったのだ。揚げ足取りの議論も絶えないことだろう。

イスラエル大使館に電話で聞くと、日本語の上手な広報担当者が次のように答えた。

「高校でハザール書簡の存在は教えている。だが、歴史的事実だとしても、ハザールのインパクトは低い。PLOがイスラエル建国の権利を否定する根拠にしているのは間違いだ」

つまり、否定はしないが「インパクトは低い」というニュアンスでぼかしている。

「ハザール書簡」というのは、10世紀のアラブ支配のウマイヤ朝時代にコルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人、ハスダイ・イブン・シャプルトと、時のハザール王ヨセフとの間で交わされたヘブライ語の手紙のことである。ケストラーは、「この書簡の真偽は論争の的であったが、現在では後世の書写人の気まぐれをそれなりに斟酌した上で、大体受け入れられている」と記し、同時代のアラブ側の歴史資料などと比較検討するなど、詳しい考証を行っている。

比較言語学によって得られた最近の成果は、さらに説得的である。この方法で民族の歴史が解明された有名なものには、ジプシーのインド起源説の例があるが、アシュケナジムのイディッシュ語の起源も、見事に解明された。将来展望としては、遺伝子のDNA比較などの最新技術も駆使されるであろう。歴史はいまや立派な科学なのである。

イスラエル大使館の広報担当者の慎重な返事は、そういう歴史的事実と現在の政治の狭間であえいでいるように聞こえた。歴史ロマンの解明への道は、まだまだ、血なまぐさい葛藤の彼方にあるようだ。特に問題なのは、現地で相争うアラブ人とイスラエル人は、こういう因縁をお互いに良く知っており、日本人はまったく知らないということである。


以上、『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)より

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ: 追加情報


提供された情報です。これは興味深い…

 

『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたこの記事は、
アシュケナジー系ユダヤ人のハザール起源説を、
遺伝学的に裏付けた研究成果である。


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ユダヤ人の祖先を研究している英米の遺伝学者のチームは、
アシュケナジー系ユダヤ人のレビ(祭司)階級の半分以上に出現する
遺伝子の特徴を発見した。この特徴は中央アジアに発するもので、
ユダヤ人の祖先と考えられている中近東起源のものでない。

http://www.nytimes.com/2003/09/27/science/27GENE.html

Geneticists Report Finding Central Asian Link to Levites
By NICHOLAS WADE

Published: September 27, 2003

A team of geneticists studying the ancestry of Jewish communities has found
an unusual genetic signature that occurs in more than half the Levites of Ashkenazi descent.
The signature is thought to have originated in Central Asia, not the Near East,
which is the ancestral home of Jews.
The finding raises the question of how the signature became so widespread among the Levites,
an ancient caste of hereditary Jewish priests.


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※ この記事の内容(全文)は↓のリンク先に保存されている

Geneticists Report Finding Central Asian Link to Levites

By NICHOLAS WADE
New York Times 09/27/03

http://www.racesci.org/in_media/central_asian_levites.htm

 

 


 

■■追加情報 2


ある方から提供された資料です。
ハザール系ユダヤ人とロシア人の関係について
詳しく説明されています。

参考までにどうぞ ↓


元ソ連外交官が語るハザール系ユダヤ人とロシア人の戦いの歴史

 

 

 


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