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No.a6fhc350
作成 1998.1
ヒトラーは第三帝国崩壊とともにベルリンの総統官邸の地下壕でピストル自殺したとされている。多くの人はヒトラーの「自殺」が揺るがすことのできない歴史的事実だと認識している。
だがその一方で、ヒトラーの死にまつわる疑惑が密かに、そして執拗にささやかれているのも、また事実なのである……。
ヒトラーとエヴァ・ブラウン
第1章 |
混乱が生じていた |
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第2章 |
アメリカの調査チームが出した
衝撃的な最終報告 |
第3章 |
ヒトラーは自殺せずに
国外へ逃亡した? |
おまけ |
ヒトラーは本当に自殺したのか?
|
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おまけ |
ベラスコの告白
~ヒトラーは死ななかった~ |
おまけ |
重度の「パーキンソン病」
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追加 |
DNA鑑定の結果、
ヒトラーの頭蓋骨は女性のものと判明 |
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■■第1章:連合軍の間でヒトラーの死因に関して混乱が生じていた
■“歴史的真実”とされるヒトラーの最期とは
●1945年4月、ドイツの首都ベルリンはソ連軍に包囲され陥落寸前であった。総統官邸は通信網が寸断され孤立しており、ゲーリングやヒムラーといった後継者とされた人物が次々とベルリンを離れていた。ヒトラーは官邸の地下15m、厚さ2m以上のコンクリートの壁で守られた防空壕で、わずかな腹心と踏みとどまっていた。もはや戦局は明らかだった。
4月29日未明、こうした状況のなかで、ヒトラーは長年献身的につくしてくれたエヴァ・ブラウンと地下壕の小会議室で結婚式をあげる。そして接見室でささやかな披露宴のかたわら、秘書に遺言状を口述筆記させている。
30日午後2時、ヒトラーは残った幹部を食堂に集め一人一人に無言で握手してまわり、エヴァ・ブラウンと自室に入った。廊下には親衛隊の兵士たちが待機していた。彼らの任務は「遺骸は人目にさらしたくない。検視もされたくないので、すぐに焼却処分にしてくれ」というヒトラーの命令を実行に移すことだった。
●ヒトラー夫妻が部屋に入ってから約10分後の午後3時30分。静寂を破って1発の銃声が聞こえた。側近の者が室内に入ると、ヒトラーは血まみれになってソファーに横たわっていた。ピストルの銃口をくわえ引き金を引いたのだった。弾丸は口腔から脳を貫いていた。即死である。脇にはエヴァが青酸カリを飲み死んでいた。
二人の遺体は毛布にくるまれ、兵士たちによって壕から運びだされ、官邸裏庭の小穴に安置された。そしてその日のうちに140リットルのガソリンをかけられて焼かれたという。
その後ソ連軍が現場に到着し、数日間探索が続けられたのち、ヒトラーの遺体が発見された。炭化して判別のつかない状態であったその遺骸がヒトラー本人であることは、燃えずに残っていた義歯によって確認されたという。
以上が今日では“歴史的真実”とされるヒトラーの最期である。
荒れはてた総統官邸の内部(1945年)
(左)ヒトラーが焼却されたとされる穴。周囲にはガソリンタンクが散乱していた。
(右)発見されたヒトラーの焼却死体。ソ連軍が回収したとされるもの。
■ソ連軍とイギリス軍の捜査報告には大きな食い違いが発生していた
●ヒトラーの死についての公式な捜査は2度実施されており、1回目はソ連軍による捜査で、2回目はイギリス軍による捜査であった。
●この2回目のイギリス軍の捜査の責任者を務めたヒュー・トレヴァー=ローパー(オックスフォード大学の歴史家)は、1947年に『ヒトラーの最期』を刊行し、ヒトラーの死に関する詳細な記録を残している。
彼のデータは、連合軍の捕虜になったドイツ軍の幹部たちから聴取した情報が主体となっており、その信頼性は、公には高く評価されているものだ。上で紹介した“歴史的真実”とされるヒトラー最期の様子は、このイギリス軍(トレヴァー=ローパー)の報告に基づいている。
イギリス軍の捜査の責任者を務めた
オックスフォード大学の歴史家
ヒュー・トレヴァー=ローパー
●しかし、最初にヒトラーの遺体確認作業をしたソ連軍による捜査は、ヒトラーの日記のような重要な資料を見落とすなど、かなりずさんなものだったようで、しかも、貴重な目撃者を拉致してソ連の捕虜収容所に拘留したり、捜査に当たっていた隊の全員に、地下壕内で見たことについての口外を禁じている。さらに当時、ソ連軍がトレヴァー=ローパー率いるイギリス軍の捜査に対して協力を拒否したことは、公式記録にも載っている事実である。
そのため、トレヴァー=ローパーは分析のための資料を入手することができず、完壁を期すことができなかった。そのためか後日、トレヴァー=ローパーが作成した報告書の内容と矛盾する事実が次々と明るみに出ることになり、結果的にヒトラーの自殺の死因をめぐって、ソ連軍とイギリス軍の報告は大きな食い違いを見せてしまったのである。
トレヴァー=ローパーが
1947年に刊行した『ヒトラーの最期』
“歴史的真実”とされるヒトラー最期の様子は、この
イギリス軍(トレヴァー=ローパー)の報告に基づいている。
しかし、後日、この書の報告内容と矛盾する事実が次々と
明るみに出ることになり、結果的にヒトラーの自殺の
死因をめぐって、ソ連軍とイギリス軍の報告は
大きな食い違いを見せてしまう。
●まずはヒトラーの自殺をめぐる重要な要素のひとつ、「銃声」について。
前述のようにトレヴァー=ローパーは、「1発の銃声が聞こえた」という証言を記している。が『地下壕』を書いたジェームズ・オドンネルは、部屋のドアのすぐ外にいたSS隊員のロベルト・レインとハインツ・リンゴの二人が、「銃声はまったくしなかった」と証言している事実を突き止めている。はたして、銃声は本当に起こったのか。ちなみに、トレヴァー=ローパーは“聞こえた”とする主張の裏づけをとってはいない。
そればかりか、ソ連はその後の調査で、なんと「ヒトラーはピストル自殺ではなく、服毒自殺であることが判明した」という法医学委員会の調査結果を公表した。つまり詳しい調査によると、ヒトラーの頭蓋骨には弾丸を受けた痕跡がなく、また、遺体を検視解剖した結果、胃からシアン化合物が発見されたので、服毒自殺と断定したというのである。これは、銃声が聞こえなかったという事実を裏づけていることになるだろう。
だが、この服毒自殺に関しても謎は残る。というのは、死体を目撃した者の証言によると、青酸中毒の場合に特徴的な唇が青くなる症状がなく、青酸カリのカプセルも、エヴァが使用じた1個だけしか発見されていないからだ。
いずれにしてもヒトラーの自殺の死因が、一方では銃によるもの、かたや服毒によるものと、大きな食い違いを見せていること自体、驚くべきことだといわざるをえないだろう。
1945年5月に地下壕を訪れたソ連のベリヤ内務相
(帽子を手に持っている)とモロトフ外相(その右)
■ソ連軍とイギリス軍の報告はますます真っ向から対立
●1960年5月に、あるショッキングな写真が一般公開されると、ヒトラーの自殺の死因をめぐって、ソ連軍とイギリス軍の報告はますます真っ向から対立した。その物議をかもしたショッキングな写真とは、ソ連の新聞『プラウダ』のナチス降伏15周年記念号の第一面を飾ったヒトラーの死体の写真である。
撮影したのはベルリン攻撃部隊であった176赤軍親衛隊の一兵士イリア・シアノフである。1945年5月5日、シアノフの部隊は、ベルリン攻略戦で最初にヒトラーの地下壕に侵入した。そして彼はまず、壕の脇の空き地で2体の焼死体を認め、シャッターを切った。ついで、入り口付近に弾丸を撃ち込まれた死体が転がっていたので、これも撮影しておいた。そばにはガソリンタンクがいくつも置いてあったという。
赤軍親衛隊の一兵士イリア・シアノフが撮影したというヒトラーの死体
●しかしこの写真には多くの問題点があった。
まず、連合軍(トレヴァー=ローパー)の報告では、銃は口内に向けて発射されたことになっているが、この写真では明らかに弾痕が額にあった。さらに、そもそもヒトラーの死体は自殺した直後に焼却されているのだから、5月5日に侵攻してきたソ連軍の兵士が、このような写真を撮影できるわけがなかった。
■ようやくソ連側がヒトラーの死に関して最終的ともいえる結論を発表したが……
●そんな中、第二次世界大戦中は赤軍将校で参戦し戦後は歴史学博士号を持つジャーナリストとして活躍したレフ・ベジュメンスキーが、ヒトラーの死に関して最終的ともいえる結論を発表した(終戦から23年も後の1968年)。
そしてさらにそれから27年後の1995年に『ヒトラーは何回葬られたか?』を出版した。彼の結論はKGB公文書や遺体発掘にかかわった兵士へのインタビューなどをまとめたものであった。
それによると、総統官邸の裏庭で発見しヒトラーの遺体を思われたものは、5月5日になってヒトラーの影武者で別人のものと判明。一方、はじめに別人と考えられ埋葬された焼けこげの遺体こそヒトラーの遺体で、掘り起こしてその義歯を調査したところ、ヒトラー本人のものと確認されたという(5月8日)。その後も遺体はベルリン北部に一度は埋葬されるものの、確認のため再び掘り起こすという作業が8回も繰り返されたそうだ。そして最後には旧東ドイツのマクデブルクのソ連軍基地に埋葬されていたが、1970年、基地返還にともなって遺体は完全に灰にされ空中にまかれたという。
●しかし、この説もそのまま信じるわけにはいかない。発表のタイミングからして、どことなくソ連お得意のプロバガンダのように思える。もちろん、その他にもそれなりの理由がある。ソ連軍が焼けこげの遺体の義歯からヒトラー本人であると確認したとされる話には、研究家によって大きな疑惑が指摘されているのである。
コーネリアス・ライアンの『ヒトラー最後の戦闘』によると、ソ連軍はヒトラーの歯が完全に残っている顎の骨を発見し、ヒトラーのかかりつけの歯科医助手をしていたケーゼ・ホイゼマンを捜し当てて確認させている。その後、総統官邸の診察所跡から、ヒトラーの歯を撮影したX線写真を回収し、死体から採取した金のブリッジでつながれた義歯と比較照合し、26ヶ所の一致点をもってヒトラーのものと確認したという。
だが、コーネリアス・ライアンはこれに対して、大きな疑義をはさんでいる。というのは、遺体が炭化するほどの高温によって焼却されたのに、金が溶けずに残っているはずがないというのだ。なるほど実に素朴な疑問である。また奇妙なことに、例の歯科医助手はその後、捕虜収容所に連行されてしまったという。口封じのためであろうか?
■ヒトラーの死に関係した人々の証言も実にあいまいなものであった
●また、コーネリアス・ライアンは、ソ連軍がヒトラーの死体を総統官邸の裏庭ではなくベルリンの郊外で発見した(正確な場所は明らかにしていない)こと、さらにエヴァ・ブラウンの死体は見つけることができなかったという証言があることも指摘している。
となると、総統官邸の裏庭で遺体が焼却され、そのまま埋められたとする報告はいったいどうなるのか。なぜ、エヴァ・ブラウンの遺体はなかったのか。ここに至って、ヒトラーの死に関係した人々の証言も、実にあいまいになってくる。
●『ヒトラー生存の神話』を著したドナルド・マッケイルは、その中でこう述べている。
「ヒトラーの死亡を証言した者たちは、厳しい尋問が続くにつれて、しだいに辻棲を合わせることができなくなってきて、ついにはヒトラーの死体を実際に目撃した者は誰もいないことを認めたのである」
例えば、運転手のエーリッヒ・ケンプカは、彼が実際に見たものは毛布から出ている2本の足だけであり、ヒトラーの死体と確認したわけではないことを認めている。しかも、終戦直前のベルリンは死体が散乱しており、特定の死体を発見することは絶対に不可能だろうとも断言しているのだ。
■スターリンが徹底した口外禁止令を敷いたことが大きな原因
●このように、ヒトラーの死に関しては、あまりにも矛盾や疑問点が多いが、これ以外にもヒトラーの死因に関しては様々な説が浮上していた(ヒトラーの死の直後から様々な情報が飛び交っていた)。
ヒトラーの後継者に指名された海軍総司令官デーニッツは、ハンブルクのラジオ放送で、ヒトラーが自殺したことを隠し「ヒトラーは司令室でソ連軍と最後まで戦って死んだ」と国民に呼びかけた。
『パリ・プレス』紙では「戦争続行についての意見の食い違いで部下に爆弾を仕掛けられ殺された」と報じたり、他に、「前年の暗殺計画によってヒトラーは既に殺されていた」という説や、「ユダヤ人に誘拐されて殺された」説、「脳血栓を起こして死んでいた」という説まで諸説が登場した。
●結局、戦後もずっと、ヒトラーの死因に関して混乱が生じてしまった大きな原因は、
最初に遺体確認作業をしたソ連の赤軍防諜組織「スメルシュ」やKGB関係者に対し、スターリンが徹底した口外禁止令を敷いたことにより、ヒトラーの死が謎とされてしまったことによる。
■■第2章:アメリカの調査チームが出した衝撃的な最終報告
■ソ連の首脳部はヒトラーの自殺をほとんど信じていなかった
●さて、これら一連のヒトラーの死に関する謎は、自ずと「ヒトラーは死なずに生き逃れてしまったのではないのか?」という疑惑にも結びついてくる。いわゆる「ヒトラー逃亡」説というやつである。
ヒトラーの死の謎は、スターリンの死去した1953年以降も伏せられたままだったが、驚くことに、スターリン自身、ヒトラーの自殺をほとんど信じていなかったようだ。なぜなら彼は、ドイツ降伏直後の5月26日にモスクワを訪れたアメリカのトルーマン大統領の特使ハリー・L・ホプキンズに対し、ヒトラーは生きており、側近のマルチン・ボルマンと一緒にどこかに隠れているのではないかとの見解を示している。
ハリー・L・ホプキンズが「ヒトラーはUボートで逃走したのではないか」と質問すると、スターリンは「それはスイスの黙認により遂行された」と答えたという。スターリンは、ポツダム会談でも繰り返し一貫してヒトラー逃亡説を語って関係者たちを困惑させていたという。
ヨシフ・スターリン
彼は、ポツダム会談でも繰り返し
「ヒトラー逃亡」説を語って関係者
たちを困惑させていたという
●さらに1945年8月に、ソ連の最高責任者のジューコフ元帥が、ベルリンのソ連軍を代表する立場として、「ヒトラーの遺体は確認できなかった……イギリスがヒトラーを隠している!」と非難する公式声明を出している。
また同年9月にソ連が出した「公式発表」は、次のような内容のものであった。
「ヒトラーあるいはエヴァ・ブラウンの遺体の痕跡は発見できなかった……偽りの証拠を示すことで、ヒトラーは自分の痕跡を隠そうとした。……4月30日未明、小型飛行機がティアガルテンから飛び立ち、ハンブルク方向に向かったという明らかな証拠がある。その飛行機には男性3名、女性1名が乗っていた。またイギリス軍侵攻前に、ハンブルクから大型潜水艦が出港したことも確認されている。潜水艦に乗っていた人間の氏名は不明だが、女性が1人含まれていた」
ソ連の最高責任者ゲオルギー・ジューコフ元帥は
「ヒトラーの遺体は確認できなかった」と公式に発言した
※ ジューコフ元帥はさらに、ヒトラーが行方をくらます前に
極秘結婚していたことを明らかにした(この時、初めて
エヴァ・ブラウンの存在が公になったのである)。
●ちなみに、ソ連以外の各国の情報部もヒトラーの逃亡先を追っていて、1950年代に入ってもドイツ将校を捕まえるたびに「ヒトラーはどこにいるのか?」と、しつこく質問していたそうだ。
■実はアメリカ軍もベルリンにヒトラー捜索の調査チームを派遣していた
●ヒトラーの死についての公式な捜査は2度実施されたことは前述した通りだが、実は、アメリカ軍もウィリアム・F・ハインリッヒ陸軍情報部大佐を長とする調査チームを派遣していたのである。
●1945年7月中旬にベルリン市内に進入したハインリッヒを隊長とする「CIC(アメリカ陸軍情報部)」は、ヒトラーの死体を焼いたという爆弾によってできた穴を掘削して詳しく調べたが、驚くべきことに焼却が行われたという痕跡が全くなかったという。結局、そこから発見されたのは「AH」のイニシャル付きの帽子と、「EB」というイニシャル入りのパンティだけだったそうだ。
さらに総統官邸の地下壕を調べてみると、ヒトラーとエヴァが倒れていたとされるソファには確かに血痕が認められたが、後日の分析では、それらはいずれも彼らの血液型とは一致しなかったという。
そればかりではない。ピストルの弾痕すら、どこにも発見されなかったということだ。
地下壕のヒトラーの居室に立つアメリカ兵
CIC(アメリカ陸軍情報部)はヒトラーの死体を焼いた
という「爆弾によってできた穴」を掘削して詳しく調べたが、
驚くべきことに焼却が行われたという痕跡が全くなかったという
●ハインリッヒ陸軍情報部大佐はもちろんヒトラーの死体を実際に見たわけではなかったが、イギリスの調査チームの責任者トレヴァー=ローパーもまた見たわけではなかった。こうしてみると、あくまで「状況証拠」のみで書かれた調査記録の集大成ともいうべきトレヴァー=ローパーの著書『ヒトラーの最期』はやはり不完全な記録であり、ヒトラーの死を確実には証明していないといえるだろう。
■アメリカの調査チームが出した衝撃的な最終報告
●1946年10月17日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙に、このハインリッヒ陸軍情報部大佐の衝撃的ともいえるコメントが掲載された。
「ヒトラーの死については、何ら確実な証拠がない。これでは世界中のいかなる保険会社であろうと保険金を支払うことはできないだろう。私はヒトラーは生きている、と思う。なにしろ彼が去年死んだということすら証明できないのだから」
「ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンが南米に亡命しているとしたら、ヒトラーも当然脱出できたはずだ」
こう主張するハインリッヒ陸軍情報部大佐は、ソ連が発見したというヒトラーの焼死体は、ニセ物であった可能性がきわめて高い、と指摘したのである。彼はワシントンへの最終報告書の中でも、ヒトラー自殺に関する証拠はないと強調した。
●ちなみに、同時に発見されたエヴァとみられる女性の死体は、検視の結果エヴァ本人ではないことが確認されている。つまりエヴァ・ブラウンの死体は、公式には発見されていないことになっているのだ。
また、ベルリン陥落寸前、決死的な脱出に成功した有名な女性飛行士ハンナ・ライチュは、ヒトラーの脱出に一役買ったのではないかといわれているが、当時ヒトラーには専用のパイロットもいれば、専用機も用意されていた。したがって、脱出は決して不可能ではなかったのである。
■■第3章:ヒトラーは自殺せずに国外へ逃亡した?
■戦後、様々な新聞で取り上げられた「ヒトラー逃亡」説
●「ヒトラー逃亡」説には、様々な証言がある。ここで幾つかの証言を取り上げてみたいと思う。
●ベルリン陥落のその日、正確にいえば1945年4月30日午後4時15分のこと。ベルリンに近いテンペルホフ空港は、6分ごとに離着陸する飛行機でごったがえしていた。ちょうどそのとき、ベルリン防衛のための若い兵士を満載した飛行機「Ju−52」が着陸した。同機に搭乗していた通信兵と砲兵は、燃料補給を待っている間、機外で雑談をしていた。と、そのとき、彼らから100メートルと離れていない距離に、ヒトラーが立っているのが目に入ったという。
グレーの制服に身を包んだヒトラーは、見送りに来たらしい数人のSS高官たちと何やら話を交わしている様子で、2人は給油が終わるまでの約10分間、この光景を見つめていたという。やがて4時30分過ぎに彼らの飛行機は空港をあとにしたが、真夜中の軍事ニュースでヒトラーの死を知って、2人は仰天した。ただし、彼らはヒトラーが3時30分に自殺をしたという情報は聞いていなかったので、てっきりヒトラーが乗り込んだ飛行機が墜落事故を起こしたものと思ったそうである。
2人はこの話を終戦後、連合軍の調査機関に語ったのだが、4時30分ごろテンペルホフ空港にいたのは間違いなくヒトラーだと主張していたという。
●また、この証言には別ルートからの追加情報もあり、「ヒトラー逃亡」説はさらに現実味を帯びていく。
1947年10月6日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、スウェーデンのティデニンガルナス・テレグラムビラ通信の報道として、ヒトラーは飛行機でデンマークに渡ったと報じた。
そして1948年1月16日付のチリの新聞『ジグザグ』は、ピーター・ボムガードというドイツ空軍のキャプテンが、ヒトラーとエヴァ・ブラウンをテンペルホフ空港からナチス支配下のデンマークのトンダーまで脱出させ、そこから別の飛行機で、ナチス支配下のノルウェーのクリスチャンサンへ向かい、そこでドイツのUボート艦隊と合流した、と報じたのであった。(なお、ピーター・ボムガード本人は、後のインタビューの中で自分は関わっていないと、表向き否定している)。
◆
●1968年には、『ポリス・ギャゼット』紙が「ヒトラーがアルゼンチンで生きている!」というセンセーショナルなタイトルの記事を報じた。ジョージ・マッグラスの署名記事によると、ヒトラーは飛行機でベルリンを脱出したあと、あらかじめ用意してあったUボートに乗り換えて逃亡したという。
さらにその後の足取りを詳述すると、1945年7月19日早朝、コロンビアのバイア・ホンダに無事上陸したヒトラー一行6人は、現地で4人のインディアンとドイツ人エージェント2人の案内で馬に乗り、夜間にのみジャングル内を移動し、6日後にラ・ロマに到着した。そこには仮設の滑走路と2機の軽便機が用意されていたが、彼は突然そこからさらに別に用意された隠れ家へ姿をくらませたという。このときヒトラーは、3万ドル入ったスーツケースを所持していたという。
『ポリス・ギャゼット』紙に掲載された
「ヒトラー逃亡」説の記事
●また連合軍総司令官で元アメリカ大統領アイゼンハワーは、この『ポリス・ギャゼット』紙に掲載された「ヒトラー逃亡」説に対して、以下のような衝撃的なコメントを述べている。
「ヒトラーの死を証明する確かな証拠は、今までまったく発見されていない。そしてヒトラーはベルリンから逃亡したと多くの人が言っている。私はこれに対して反証を挙げることはできないだろう」
連合軍総司令官で元アメリカ大統領の
ドワイト・アイゼンハワー
彼は「ヒトラーの死を証明する確かな証拠は、
今までまったく発見されていない」と語っていた
■世界大戦の完全終結にヒトラーの“死”は絶対に必要なことだった…
●当時、ソ連軍や連合軍、いや世界中がヒトラーの死を待望していた。あの第二次世界大戦を完全に終結させるためには、ヒトラーの“死”は絶対に必要なことだった。
だが、かつてヒトラーは「自分の死は擬装すべきである」と側近に語っていた。もしこの言葉通り、ヒトラーが自殺などしないで、他国へ逃亡していたとなると大変なことである。まず、一般大衆の心理的な面での混乱(不安)が起きることは容易に想像できる。
●ヒトラーの逃走ルートや潜伏先をめぐって様々な憶測が流れる中、「ヒトラー逃亡」説はやがて一部の人々の間で「ナチス再興」の恐怖となって語られるようになる。
その根拠としてあげられるのが、1943年にナチス海軍総司令官デーニッツが「Uボート艦隊は世界のある場所にこの世の天国と同時に難攻不落の砦を築いたことを誇りとする」と宣言していること。そして1945年2月25日に、ヒトラーがラジオ放送を通じて語ったラスト・バタリオン(最後の部隊)である。「まもなく東(ソ連)と西(アメリカ)がぶつかりあう日が来るが、そのとき、その結果を左右する決定的な役割を演じるのがこのラスト・バタリオンのドイツ軍である」という演説である。
果たして、ヒトラーは自殺などしないで、本当にベルリンから国外へ逃亡したのであろうか?
■戦後の『戦争犯罪人指名手配リスト』にヒトラーの名前が書かれていた
●最後になるが、ハインリッヒ陸軍情報部大佐は『ポリス・ギャゼット』紙の中で興味深いことを語っている。
彼は既に触れたように、アメリカ軍のヒトラー捜索チームのリーダーとして、現場を徹底的に調査した結果、ヒトラー自殺をサポートする根拠は全く存在しないと最終報告の中で結論づけた人物である。
「……その結果として、1948年を最後として発表された『戦争犯罪人指名手配リスト』には『手配中~アドルフ・ヒトラー第三帝国総統』と書かれていた。これはあまり公には語られなかった。というのは、その頃ヒトラーが確かに生きているという噂が絶えず、もしそれを公にしてしまったら、そのような噂を裏付ける結果になることを我々は恐れたからである。
特に南米に住んでいた多くの狂信的ナチス主義者たちは、これを聞けば、かつてナポレオンがエルバ島から帰ったと同様、彼らのフューラー(総統)もいつの日かカムバックすると信じ込むに違いなかった。そのようなことは起こるわけがないと思うが、実際にヒトラーに何が起こったのかを推測するのは私の役目ではない……」
1948年を最後として発表された
『戦争犯罪人指名手配リスト』には
「手配中~アドルフ・ヒトラー第三帝国総統」
と書かれていたという…
─ 完 ─
■■おまけ情報:ヒトラーは本当に自殺したのか?
軍事史関係、冒険小説、歴史小説など、幅広い分野の作品を発表している作家の柘植久慶氏は、著書『ヒトラーの戦場』(集英社)の中で、ヒトラーの自殺について次のような疑問を述べている。
※ 賛否が分かれる内容の本だが、興味深い指摘なので参考までに抜粋しておきます↓
(あくまでも“参考”程度に読んで下さい)。
── ヒトラーは本当に自殺したのか?──
歴史、そして歴史上の人物を語るには、ある程度の時間の経過が必要とされる。悪虐の限りを尽くしたと伝えられるネロやリチャード三世が、その実像は全く違っていたことなど、現在では常識となっている。彼らは異なる王朝に逐われたことから、全く別の姿に書き変えられたのだ。ヒトラーに関しても、第二次世界大戦直後から発表された多くの文献が、非難の大合唱を展開した。だが冷静に読んでゆくと、そのほとんどが感情論に終始しており、都合のよい資料だけを針小棒大したものだった。とりわけユダヤ人に関する記述は、科学性に乏しく数字上もいい加減である。ところがそれに反論することは、非人道行為を是認するに通じると、半ば脅迫まがいの雰囲気がつくり上げられてきたのだ。
彼の犯した誤りは、自由主義陣営と共産主義陣営、それに国際間にまたがるユダヤ資本のすべてを、同時に敵に回したことによる。このため戦中戦後を問わず、非難の集中砲火を喰う破目に陥ったと言えよう。
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ヒトラーと第三帝国の残虐性を主張する人びとが、スターリンや毛沢東のそれとなると、一転して口をつぐんで看過した。スターリンの時代、ソ連はユダヤ人を数十万虐殺し、戦時捕虜100万以上を死に到らしめた。その政権誕生の前後には、レーニンと共に、2000万から3000万のロシア人同胞を殺害しているのだ。毛沢東もまた、二度の革命で5000万の中国人を殺害した。中国政府は口を開くと「日本の侵略」を声高く叫ぶが、1960年にチベットを侵略したのは、“偉大的”毛沢東の中国にほかならない。その後もヴェトナムに進攻したり、侵略国家の代表的存在である。
カンボジアの大量虐殺をやったポル・ポト政権は、そっくり毛沢東の真似をして知識階層と有産階級の一掃を企てた。人口が少ないだけ虐殺の規模が小さかったことは言うまでもない。
注目すべきことは、ヒトラーは自らの手でドイツ人を多数殺害しておらず、むしろ内政面での成功者だったという点だ。
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定説では、ヒトラーの死は1945年4月30日となっている。だがこれは果たして信じられるのだろうか?4月28日。正確に言うなら27日の夜半から28日にかけて、シャルロテンブルクの王宮付近の路上に、一機の「Ju−52」が駐機しているのを目撃されている。この機種は古くからヒトラーの愛用したものとして知られていた。当時の状況からして、テンペルホーフ、テーゲルなどベルリンの飛行場は、敵の砲火を喰う危険性が高かった。だから幅広い道路を有する旧王宮付近に着陸させるのは、少しも不思議ではない。問題は誰がそこに待機させたかだ。ヒトラーの脱出用だったとしても少しもおかしくない。
もちろん彼はたび重なる周囲からの勧めを、そのたびに強く拒絶している。だが、ゲーリングやヒムラーの裏切りに、当初の決心を変えたことは十分に考えられるのだ。
ノルウェーはまだドイツ軍が確保していたから、このルートが安全なことでは一番である。南ドイツ経由でスペインへの脱出も可能性は残されている。フランコ総統の庇護下に入る屈辱を、甘んじて受けるならとの前提だが。
何しろヒトラーの死体が確認されていないため、疑問が多く残っている。どういった手段で自殺したのか、それすら証言はバラバラだ。
拳銃で自殺したとの説だと、右のこめかみと言う者があれば、左だと主張した者もいた。なかには毒薬を仰いだとの証言まで出るに到っては、混乱をつくり出すものとしか考えられない。
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死の瞬間に立ち合った者が一人もいないことも、真実が伝えられてこない一因だろう。ヒトラーが死んだと皆に告げた人間も、ゲッベルスをはじめすべて生存していない。かなりの人数が残っていた地下壕の住人たちは、揃いも揃って気づいていないのだ。その死と火葬されたことを、人伝てに聴いているにすぎなかった。ソ連軍の発表も謎をいよいよ深くするだけだ。
5月2日正午に総統官邸に突入した一兵士は、口髭のある男ともう一体、女の死体が燃えていたと報告した。ところがこれだと死体は二日にわたり、燃えていたことになる。もし本当だとしても、口髭など残っているわけがない。発見されたゲッベルスの焼死体のように、頭髪も何もかも燃えてしまっているはずなのだ。
1960年代半ばになって、ソ連軍情報将校が、『アドルフ・ヒトラーの死』という本を発表した。これによると発見されたのが5月4日とのことだ。だが、確認されたと称しているだけで、鮮明な写真は全く載せられていない。証拠も何一つ示されていないのである。反面、ゲッベルスとその家族のものに関しては、これでもかとばかり角度を変えて幾枚も掲載している。これ一つをみてもソ連軍当局の発表は全然信用できないことが判る。
第一、彼らは焼死体を発見していたら、文字どおり鬼の首を取ったように、自国に運んで展示するだろう。隠し続けること自体、ヒトラーの最期に関する確証を、何も掴んでいないと考えるべきだ。
結局、ヒトラーとエヴァの死は永遠の謎である。砲弾が落下して二人の遺体を吹き飛ばしたとの近年の説は、早く何らかの形で終止符を打ちたいとの、一部の人びとの願望にすぎないのだ。
ヒトラーは4月中旬以降、自殺をほのめかしてきた。だが、自殺を頻繁に口にした人が目的を達成した例は稀である。大体カムフラージュであることが多い。4月30日の夕刻、地下壕の料理人は常と変わらず、ヒトラーの食事を用意し続けていたのだ。これをどう解釈するか?
晩年のヒトラーについて、巷間では狂っていたと主張する人が多い。けれどそれはないと考える。彼はたしかに健康を害し、判断力の衰えを示した。けれど尊敬するフリードリヒ大王の肖像画を前に、「大王に比べたら私なんかただのクズだ」との言葉を、はっきり残している。これが狂人の発した最晩年の言葉だろうか。
1993年3月 柘植久慶/『ヒトラーの戦場』(集英社)より
■■おまけ情報 2:ベラスコの告白 ─ ヒトラーは死ななかった
驚くべきことに、第三帝国が崩壊する寸前までヒトラーとともに地下官邸で過ごし、戦後もずっと生き延びた男がいる。その男の名前はベラスコ。ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップ・スパイである。
彼は死の直前(90年代初頭)に、ヒトラーの最期について驚くべき証言を残している。
※ 彼の話に興味のある方は「ベラスコの告白」をご覧下さい。
真偽はともかく興味深い内容です。
↑ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップ・スパイで、第三帝国が
崩壊する寸前までヒトラーとともに地下官邸で過ごしていたベラスコ
※ ベラスコによれば「ヒトラーは死ななかった」という
■■おまけ情報 3:重度の「パーキンソン病」
ところで、もしヒトラーが自殺などしないで国外に逃亡していたとしても、
当時すでに重度の「パーキンソン病」にかかっていたとも言われており、
あまり長くは生きられなかったと思われる(もし長生きしたとしても、
相当苦しい闘病生活を送っていたであろう……)。
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※ 追加情報:
ヒトラーに関する「謎の写真」が最近ネット上に出回っている。
まだソースが未確認なので「フェイク」の可能性もあるが、
参考までに掲載しておきたい↓
↑「戦後、南米で撮影された晩年の
ヒトラー」と言われている謎の写真
この写真、果たして本物だろうか?
※「日本フォーティアン協会」の並木会長によれば、
この謎の写真は米ロサンゼルス在住のナチスドイツ研究家
ロイ・タヴェスクが極秘に入手したものであるという。
そしてこの写真が撮影されたのは1960年代で、
場所は南米アルゼンチンであるという。
アルゼンチンの国旗
■■追加情報:DNA鑑定の結果、ヒトラーの頭蓋骨は女性のものと判明
●2009年9月29日付でAFPが配信した外電によると、
米コネチカット大学の研究チームが、ヒトラーの遺骸と思われてきた頭蓋骨のサンプルをDNA分析にかけたところ、頭蓋骨は20~40歳代の女性のものと判明したという。
↑ヒトラーのものと考えられてきた頭蓋骨の一部
この頭蓋骨は2000年にロシア政府の公文書館で初めて
公開されたものである。当時ソ連軍が掘り返したというあご骨
とともに「戦利品」としてソ連軍が持ち帰ったとされている。
●この頭蓋骨には銃弾による穴が開いており、ヒトラーはソ連軍がベルリンに侵攻した1945年4月に、総統官邸の地下壕で銃と青酸カリを使って自殺したという説を支えていた。
しかし、この定説は最新科学の調査によってくつがえされてしまったのだ。
● ある研究家はこう語る。
「この衝撃的なニュースは、いま世界を大きく揺るがしています。ソ連軍が総統府の地下壕から持ち帰った遺体はやはり、アドルフ・ヒトラー本人のものではなかったのです。ベルリン陥落直前の混乱の中、何者かがヒトラーの死を大急ぎで偽装していたことが、最新科学の目で明らかにされてしまったのです」
●今回、この調査を指揮したコネチカット大学の考古学者、ニック・ベラントーニ博士はこう語る。
「今回の調査による結果は、頭蓋骨だけでなく、地下壕でヒトラーの身に起こったことについて定説をくつがえすことになるでしょう。
ヒトラーでないなら誰だったのか、調べることは山のようにあります」
ニック・ベラントーニ博士
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◆ヒトラーは生きていた? DNA鑑定の結果、遺骨は女性のものと判明
http://digimaga.net/2009/09/dna-test-shows-hitler-skull-is-that-of-a-woman
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