No.a4fhb200

作成 1998.1

 

ロシアとウクライナの
ユダヤ人の悲史

 

 

第1章
「ハザール王国」と
「キエフ・ロシア国」とウクライナ人
第2章
ロシア帝国における
反ユダヤ政策の実態
第3章
ウクライナ人によるユダヤ人迫害
(ポグロムの始まり)
第4章
ロシア・ユダヤ人社会に
“3つの動き”が生じる
第5章
ロシアのユダヤ人が深く関与した
「ロシア革命」
第6章
第二次世界大戦後の
ソ連のユダヤ人

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 

 


 

■■■第1章:「ハザール王国」と「キエフ・ロシア国」とウクライナ人


■■古くから様々な民族が興亡を繰り返したウクライナ地域


●1991年に「ウクライナ」という国が旧ソ連から独立した。温暖な黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い国である。この国南部のステップ地帯には、黒土(チェルノジョーム)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていた。

1986年、この地域で「チェルノブイリ原発事故」が起きた際には、唯一の被爆国である日本から多くの専門家が派遣されて話題になったが、一般にウクライナは日本人にはあまりなじみのない国といえよう。

しかし、東欧ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナの歴史を知ることは非常に重要である。なぜなら、そこはハザール王国のあった地域と重なっているからである。そして、ロシアでのユダヤ人迫害(ポグロム)は、このウクライナ人の存在がかなり重要な要素になっているのだ。


●なお、「ウクライナ」という言葉は、もともと「辺境」という意味で、これが国名にも民族名にもなっている。ロシア人が勝手に名付けたもので、日本語で言えば「田舎者」ということになる。この言葉が象徴するように、ウクライナ地域の歴史はウクライナ人とロシア人とユダヤ人のケンカの歴史である。



●ウクライナ人は、ロシア人、ベラルーシ人と同じく「東スラブ族」に属している。ウクライナの歴史は古く、紀元5世紀前後に東スラブ族が黒海北方沿岸地域に住み着いた頃までさかのぼる。これ以前この地域は諸民族が入り乱れ、興亡を繰り返していた。

紀元前8〜7世紀の黒海北岸地域はギリシア人の植民市が建設され、ステップ地帯ではスキタイ、サルマートなどの騎馬民族国家が興亡した。2世紀には東ゴート族が侵入し、古代ローマ時代末期にはフン族が東から西へ通過していった。


●6世紀頃、ドン川、ボルガ川下流地域を中心に「ハザール王国」(ハザール汗国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。のちにこのハザール王国は、世界史上例を見ない「改宗ユダヤ教国家」となる。

9世紀頃には、都市キエフを中心に、現在のロシアのルーツとされる「キエフ・ロシア国」(キエフ・ルーシ)が成立。その担い手は東スラブ人であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。現在にまで至る「ロシア」の名はこれに由来している。

 


10世紀初頭のハザール王国

 

●このキエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇った。

なお、『原初年代記』によれば、ハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジミール公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになる。ハザール・ユダヤ人は以後、キリスト教会側からロシア人に改宗を挑んだ者として敵意をもって見られるようになり、11世紀に入ると、ハザール王国は、キエフ・ロシア国とビザンチン帝国の連合軍に攻撃され、大きなダメージを受けてしまう。

 

■■ロシア帝国の台頭


●12〜13世紀頃に、キエフ・ロシア国は内紛とステップ地域の遊牧民との争いによって力を弱め、13世紀になると、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、「キプチャク汗国」が成立(「タタールのくびき」の始まり)。

これ以降、この地域の北東部ではモンゴル支配を受けつつも、モスクワ公国が中心になって統一へ進む一方、キエフを含む南西部は、バルト海沿岸から拡張しつつあった新興国リトアニアの支配下に入り、16世紀にはポーランドの支配下に入った。


●そして、この頃から、ウクライナ南部に逃亡農奴を中心にした「ウクライナ・コサック集団」(自治国家)が形成され、勢力を誇るようになる。これが直接的なウクライナ国家の起源とされる。

しかし、コサックたちの自治国家は、当時、東欧の大国であったポーランド=リトアニア連合王国や、さらにロシア帝国、オスマン・トルコ帝国に挟まれ、長くは続かなかった。彼らの領土は、ロシア帝国とポーランドによって東西分割され、ポーランドが滅亡すると、ガリチア地方はハプスブルク帝国の支配下に、その他の大部分はロシア帝国の領土となってしまうのであった。

※ ガリチア地方とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。


●19世紀の民族運動の発展において、ウクライナ地域では、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在としてコサックが理想化された。そして、ウクライナ独立という目標を掲げたウクライナ民族運動が起きるようになるが、ロシア帝国下では、ウクライナ民族主義は徹底的に弾圧され、ロシア化が図られた。

しかし、ウクライナ人への弾圧は、かえってウクライナ人としての民族意識を根強いものとした。また一方で、ウクライナ人は、ハザール王国時代以来の同居人であるユダヤ人を迫害することによっても、自らをウクライナ人として意識したのであった。

※ このウクライナ人によるユダヤ人迫害については、後で詳しく触れていきます。

 

 


 

■■■第2章:ロシア帝国における反ユダヤ政策の実態


■■ロシア皇帝が相次いで実施した反ユダヤ政策


●ロシア国内における反ユダヤ主義は、1470年代に発生した「ユダヤ教的異端」をきっかけに現れた。この異端は、モスクワ宮廷内に広がり、高級聖職者、貴族、さらにはイワン3世の義娘によっても信奉された。この異端の広がりにより、1487年にはノヴゴロド大司教がユダヤ教徒追放令を、1504年には、イワン3世が、この異端信奉者を火刑にする命令を出した。


●イワン4世もまたユダヤ人に対する敵意を示している。彼はユダヤ人を“毒薬商人”とみなし、1545年にはモスクワにおいて、ユダヤ人の商品を焼き、彼らのモスクワでの商業活動を禁じた。また1555年には、リトアニアのユダヤ商人がロシアに入国することを要求したが、ポーランド王ジイグムントが拒否している。さらには、プスコフ併合後、1563年に、ポオツク市において、キリスト教への改宗を拒むユダヤ人を川に投げこむように命じた。

 


イワン4世(雷帝)

ユダヤ人を“毒薬商人”とみなした

 

●ユダヤ人追放令は、以後何度も出された。1610年にはシュイスキー、1727年にはピョートル2世が、さらに1744年には女帝エリザベータが約3万5000人のユダヤ人をリヴォニアから9年以内に追放するように命じた。この追放令に対しては、ユダヤ人の商業活動による利益を考慮した元老院からの反対があったが、エリザベータは、「私はキリストの敵から利益を得たくない」としてこれを拒否した。

 

■■ロシアは当時、世界で一番ユダヤ人の多い国となった


●1762年に就任した女帝エカチェリーナ2世は、それまでの皇帝によるユダヤ人政策を受け継ぎ、1762年に、ユダヤ人以外の外国商人に対しては、入国許可令を出した。しかしこのようなユダヤ人の入国を許可しない政策は「ポーランド分割」によって無意味になった。

なぜなら、1772年の第1回ポーランド分割によって約20万人のユダヤ人が、さらに1793年と1795年の分割によって約70万人のユダヤ人がロシア支配下となり、短期間で合わせて約100万人ものユダヤ人がロシア支配下になったためだ。その結果、ロシアは、当時、世界で最大のユダヤ人口を有する国となったのであった。同時に、それまでのユダヤ人追放令は機能しなくなり、廃止せざるをえなくなってしまった。

 


第8代ロシア皇帝 エカチェリーナ2世
(在位1762〜96年)

 

●こうして、エカチェリーナ2世は反ユダヤ政策を改め、その植民地化政策の過程で、特別な制限を加えることなく、ユダヤ人がロシアへ入ってくるままにまかせるようになったのである。

彼女の政治的、経済的実用主義は「啓蒙主義」の思想の影響によって本質的に強化された。啓蒙主義者たちはユダヤ人に対して、宗教的な偏見を抱いていなかった。彼らはユダヤ人を、すべての人々と同じ権利と義務とを具えた良き国民につくり上げようとした。

この、第1次ポーランド分割後のロシアの政策は、短期間にユダヤ人を同権をもって遇するということにおいて、他のすべてのヨーロッパの国家に大きく先んじたのであった。


●とはいえ、同権の待遇は、結果として種々の規制も招来した。時間が経つにつれて、とくに第2次および第3次のポーランド分割の後、ユダヤ人がますます大量にロシア帝国の支配下に帰するようになると、かなり大きな反動が現われてくるようになった。

このままユダヤ人を自由にさせていては、ロシア帝国内にユダヤ人が流れ込んでしまう。そのことを内心恐れ始めていたエカチェリーナ2世は、ロシア帝国の支配下に入った地域のユダヤ人全員の移住を禁じ、その土地に縛り付ける政策を実施するようになる。いわゆる「定住区域」という名の巨大なゲットーのスタートである。

 

■■エカチェリーナ2世によって作られた巨大なゲットー=「定住区域」


●彼女は1772年8月16日に、ユダヤ人と非ユダヤ人とを区別し、ユダヤ人はポーランド分割以前の定住地から移動することを禁じる勅令を出した。そして1791年には、ユダヤ商人、職人の身分登録地をベロルシアに限定した(「定住区域」の成立)。その後1793年にはミンスク、ウクライナ、小ロシア、1795年にはリトアニアなども登録地となり、ユダヤ人は、これらの区域以外には定住することができなくなった。

このようにしてエカチェリーナ2世は、「定住区域」の基礎を作った。ユダヤ人は少数の例外を除いて、1917年のロシア革命直前に至るまで、この区域を離れることが許されなかった。こうした区域は形式的には、長期にわたる準備の後に1804年に発せられたロシアにおける「ユダヤ人に対する条例」によって確定した。ただし、区域内のユダヤ人をロシアに同化させるかどうかについては、明確な政策を取らなかった。

 


黒く塗られたエリアがロシアの巨大なゲットーと呼ばれる
「定住区域」(ユダヤ人制限居住地域)である

1791年から1917年まで、ユダヤ人が移動することが禁じられた

 

●エカチェリーナ2世がこの「定住区域」を設定したのは、皇帝による伝統的なユダヤ人追放令の延長ともいえるが、直接には、ユダヤ商人によるロシア国内での商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。

この「定住区域」の広さは約100万平方キロメートルにも及び、ロシアにおけるいわば巨大な「ゲットー」のような存在であった。1897年までに500万人以上のユダヤ人が住んでいた。(※ この「定住区域」は、英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている)。


●このように啓蒙君主であるピョートル大帝を除くと、ほとんどのロシア皇帝は、18世紀後半のポーランド分割に至るまでは、ユダヤ人追放という一貫した政策を取ったことがわかる。そのため、女帝エカチェリーナ2世によって「定住区域」が設置される以前の東欧ユダヤ人は、度重なる追放令によってロシア国内には法的には存在せず、もともとハザール王国の領域だった地域──黒海北部・ウクライナの地域で多く生活していたのである。この時期のウクライナはポーランド領である。

 



↑ロシアの定住区域の拡大図

定住区域外の東部の町にも多くのユダヤ人が住んでいた

 

■■スラブ主義者とウクライナ民族主義者の台頭


●1801年に就任したロシア皇帝アレクサンドル1世は、「ユダヤ人改善委員会」を設置して、漸進的にユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、それはユダヤ人の反対にあい失敗に終わった。そこで、次に就任したロシア皇帝ニコライ1世は、「兵営学校制度」などを施行し、ユダヤ人の強制同化策を取った。しかしこの制度によって改宗したユダヤ人はごく少数であった。また改宗を拒んだユダヤ人の中には、自殺した者も少なくなかった。

ニコライ1世は、1841年には、ユダヤ人の改宗を目的とする公立学校とラビ神学校を設立し、1844年にはユダヤ人自治組織を廃止する法令を出した。また、1851年にはユダヤ人分類計画を提案した。しかし、これらの強制同化の試みは、あるものは廃止され、あるものはユダヤ人の反対にあって実施されず、全体的には失敗に終わった。

 


第11代ロシア皇帝
ニコライ1世
(在位1825〜55年)

 

●ニコライ1世の次に就任したロシア皇帝アレクサンドル2世は、最初は自由主義的な政策を実施し、ユダヤ人に対しても比較的寛容であったが、1861年のポーランド反乱後、急変。ユダヤ人に対する政策は厳しくなり、1870年には都市条例を出し、ユダヤ人が市役所職員の3分の1以上を占めることと、市長職に就くことを禁止した。また1873年には、ユダヤ人の公立学校とラビ神学校を閉鎖した。

 


第12代ロシア皇帝
アレクサンドル2世
(在位1855〜81年)

 

●一方、ロシア国内においては、スラブ主義者とウクライナ民族主義者が台頭し、反ユダヤ宣伝が繰り広げられた。その最たるものがヤコブ・ブラフマンによって1869年に出版された『カハルの書』であった。この序文は、ユダヤ人が国家の中に国家を形成し、その目的は一般市民を服従させ、搾取することである、という反ユダヤ宣伝になっている。この書は主として政府高官に好評を得た。

また、1880年には、新聞『ノーヴォエ・ヴレーミヤ(新時代)』が、自由主義から反動的立場に転じ、「ユダヤ人がやってくる」という警告文を掲載し、ユダヤ人のロシア文化への進出に対する危険性が述べられた。

 

 


 

■■■第3章:ウクライナ人によるユダヤ人迫害 (ポグロムの始まり)


■■ウクライナで生活していた富めるユダヤ人と貧しいユダヤ人


●ウクライナに住んでいたユダヤ人は、活発な商業活動を展開していた。例えば当時、ウクライナの周辺都市に点在していた居酒屋の80%近くはユダヤ人が経営していた。また、ユダヤ人たちは借地小作雇主としても活動し、目立つ存在であった。

こんなユダヤ人たちに対し、ウクライナの農民とコサックたちは、「搾取者」とみなして敵意を募らせていた。


●S・エティンゲルの調査によれば、東欧におけるユダヤ人の都市の数は、ハザール王国滅亡後の14世紀には41、15世紀には62、16世紀には、実に198に増加している。ユダヤ共同体も、1503年から1648年に至る期間、ウクライナだけにおいても115も形成されていた。

さらに、C・M・ドゥブノーフによれば、1501年から1648年に至る期間、ポーランドに居住するユダヤ人は、5万人から実に50万人に増加したことになる。ポーランドはロシアに分割される前は、当時、最大のユダヤ人口を有していたのである。


●1817年、ウクライナにおいて工場の30%はユダヤ人が所有していた。とりわけ製酒工場の90%、製材工場の56.6%、タバコ工場の48.8%、製糖工場の32.5%がユダヤ人経営であった。これらは中小企業にすぎないが、このような産業から何人かのユダヤ人資本家が登場していた。

例えば、製糖業では「砂糖の王」と称されたA・ブロッキー、鉄道建設業ではC・ポリャコフが1850年から1870年にかけて第一人者であった。また黒海北部に1883年開始されたドニエプル運河搬業、1876年のヴォルガ河蒸気船業などはいずれもユダヤ資本家によるものであった。


●なお注意しないといけないのは、ウクライナに住んでいた一般のユダヤ市民のほとんどは、都市下層民に属していたという点である。この地域のユダヤ人は、北西ロシアに比較すると、経済的には恵まれてはいたが、貧しさは共通していた。当時のユダヤ人の状況に関する調査報告には、ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、パンと野菜のみであったと記されている。キエフのある地主の報告によれば、ほとんどのユダヤ人はウクライナ農民よりも貧しかったとさえ述べられている。

 

■■ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生


●1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生した。いわゆる「フメリニツキーの乱」である。ボグダン・フメリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。約50万ものユダヤ人が殺された。

 

 
「フメリニツキーの乱」を起こした
ボグダン・フメリニツキー

 

●ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、コサックと農民の反乱指導者として、ウクライナをポーランドから解放し、ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ共同体を破壊したために、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。虐殺は、ガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及んだ。この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。


●さらに、1734年から1736年にかけてもウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団が、ユダヤ人虐殺を行った。このハイダマク運動においては、フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、しかもロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行ったのである。

 

■■「ポグロム」はウクライナ南部(黒海北岸)で始まった


●ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、一番最初のポグロム(本格的なタイプ)がどこで起きたのか知る人は少ない。一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──黒海北岸の都市オデッサで発生した。

オデッサは1794年に創設された多民族都市であり、ギリシア人、ユダヤ人などが多数存在し、ロシア・ユダヤ文化の中心地であった。市の3分の1がユダヤ人だった。後にオデッサからはロシア革命の指導者の1人トロツキーや、シオニズム運動の理論的指導者となるジャボチンスキー、散文作家バーベリなど著名なユダヤ人が輩出した。

 


ジャボチンスキー

 

●1881年の春、アレクサンドル2世が暗殺されると、この犯行グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ!」という煽動がなされた。そのため、この皇帝暗殺事件を機にポグロムは爆発的に波及したのだが、興味深いことに、ほぼ全てのポグロムがウクライナ南部の定住区域──かつてのハザール王国領と重なる地域(黒海北岸)に集中していたのである。当時のユダヤ人作家は、この時のポグロムを「ウクライナ南部(黒海北岸)の暴風」と呼んでいた。

ポグロム加害者は、ウクライナ農民と町人、それも下層労働者が多く、被害者はユダヤ町人、商人であり、こちらも下層民が多かった。

 



↑1881〜1884年のポグロムの発生状況

黒海北岸で集中的に起きている

 

●なお、有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、東欧ユダヤ文学者であるシャローム・アライヘムの『テヴィエの7人の娘たち』を原作としているが、これは帝政ロシア時代末期にウクライナで生活していたユダヤ人が、ポグロムに遭遇する物語である。この作品には、ユダヤ人を迫害するウクライナ人の暴動ぶりが描かれているのである。

 


『屋根の上のバイオリン弾き』

 

●また、1809年ウクライナ生まれの小説家、ニコライ・ゴーゴリの名作『タラス・ブーリバ』には、当時ウクライナの主人公だったコサックたちが、なにかといえばユダヤ人を虐殺していた姿が描かれている。それをまたウクライナ人のニコライ・ゴーゴリが、いかにも楽しげに書いている。

 


ウクライナ生まれの小説家
ニコライ・ゴーゴリ

 

●例えば、次のような場面では、コサックの会話の中に搾取者としてのユダヤ人への敵意が表現されている。

「今でも教会もみな、ユダヤ人どもに抵当に押さえられているんだ。それで前もってユダヤ人に借金を返さんことには、礼拝式のミサも行うことができない有様なんじゃ。」

「なんだと! ユダヤ人どもがキリストの教会堂を抵当に差し押さえたとな!──忌まわしい邪宗門どものために、ロシアの大地の上でこんな苦難がまかり通っているんだと!──そうだ。そんな真似はさせておかんぞ、断じてなるものか!」(『ゴーゴリ全集』第2巻)

この会話の後、ウクライナ・コサックたちはユダヤ人を手当たりしだいに川に投げ込んだのである。


●このように、かつてハザール王国があった領域に住んでいたユダヤ人たちは、その地に住むウクライナ人によって、とんでもない迫害に遭遇したのである。

 



↑1903年〜1906年の主なポグロム発生地

依然として黒海北岸で集中的に起きている



ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち

 

■■反ユダヤ政策の「5月法」成立


●1881年のポグロム後、内相イグナチエフは、皇帝アレクサンドル3世に、ポグロムの原因をユダヤ人の商業、工業への進出に対する一般民衆の抵抗の表明であるとし、ユダヤ人の“有害な”活動を阻止する必要があることを報告した。これを受けて、アレクサンドル3世は特別委員会を開設し、この問題について討議させた。この結果として翌1882年5月3日に、種々の反ユダヤ法が成立した。

 


第13代ロシア皇帝
アレクサンドル3世
(在位1881〜94年)

 

●「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法の内容は以下の通りである。


◎ 町以外におけるユダヤ人の居住を禁止する

◎ 町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の中止

◎ ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止



●これらはいずれもロシア人地方商人階級の要求を満たすものであり、特に定住区域の15県において実施された。1887年には、1882年以前から村に居住しているユダヤ人の村間の移動が禁止された。


●帝政ロシアにおけるユダヤ人政策は、この「5月法」にその完成をみる。ユダヤ人の商業活動と都市進出に注目し、それをロシアに同化させ利用しようとした試みも失敗し、最後には、差別政策を押し出さざるを得なかった。その背景の一つとしてユダヤ人迫害の伝統のあるウクライナを中心とする民衆運動が、政府に影響を与えたことは無視できない。



●なお、ロシアの支配機構の内部には、人道的ないしは経済戦略的な理由から、反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。とくにロシアの大蔵大臣らは種々の規定の緩和を支持した。彼らは、ユダヤ人がロシア帝国において重要な経済的要素たり得ることを理解していた。そして、ユダヤ人敵視の政策がこの先ずっと継続した場合、国際的な枠組みにおいて──外国のユダヤ人銀行家からの影響に基づいて、不利益が生じることを恐れていた。

重責を負っていた大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテが、ロシア皇帝アレクサンドル3世と行った対話は、この関連で示唆に富んでいる。

アレクサンドル3世は大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテに、ユダヤ人に好感をもっているかどうか訊ねた。これに対してセルゲイ・ヴィッテは、「ユダヤ人を全員黒海で溺死させることが可能でしょうか?」と問い返し、言葉を続けて、「もしそれができないとすれば、ユダヤ人は『生きていて』もよいとせざるをえません。それはとりもなおさず、ユダヤ人に結局、ほかの全臣民と同様の権利を承認することを意味するものです」と答えた。

しかし、本質的な改善は実施され得なかった。



●ちなみに、ロシア史に詳しいある研究家は、次のように述べている。

「かつて静かだった『定住区域』(ユダヤ人制限居住地域)は、相次ぐポグロムの影響で、革命活動の温床となり、地下活動が広がっていった。モージス・リッシンによれば、1901〜1903年に政治的理由でロシアで投獄された7791人のうち、2269人はユダヤ人であった。1903年3月から1904年11月までに政治的違反のかどで有罪判決を受けた者の54%はユダヤ人であった。そのような判決を受けた女性の64%はユダヤ人女性であった」

 

 


 

■■■第4章:ロシア・ユダヤ人社会に“3つの動き”が生じる


■■3つの動き


●1881年にウクライナ南部(黒海北岸)において発生した一連のポグロムは、ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、ロシア・ユダヤ人社会に大きく分けて“3つの動き”を生み出すことになった。


●1つめの動きは、ユダヤ人の大移住である。1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住した。その7割は、アメリカ合衆国を目ざしている。ユダヤ人は、エルサレム陥落以後、全世界に「離散の民」として移り住んだが、これほど短期間における大規模な移住は、かつて例を見ない。しかも彼らは組織もなく自発的にロシアを去ったのである。

 



1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、
ロシアを離れて他国(主にアメリカ)へと移住した


 
大型の蒸気船に乗って大西洋を越えるユダヤ移民たちの群れ

 

●2つめの動きは、革命への積極的参加である。ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。

ロシアの革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフなど、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人であったといえる。革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた。

 



ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、
革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の
唯一の解決だとして、革命運動に参加した

 

●3つめの動きは、シオニズム運動の開始である。一部のユダヤ人は、当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ人の国家を樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開した。

 



一部のユダヤ人は、パレスチナにユダヤ人の国家を
樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、
シオニズム運動を展開した

 

●まず1881年に、黒海北岸都市オデッサのユダヤ人医師レオン・ピンスケルが、オデッサ・ポグロムに遭遇したショックをもとに『自力解放』という本をドイツ語で出版し、ユダヤ人は自分たちの国を作って隷属状態から解放されるべきだと主張した。そして彼は、パレスチナにユダヤ人の植民化を推し進めるインテリや学生たちの「ヒバト・ツィオン」(1884年)に加わり指導的役割を演じたのであった。

 


ユダヤ人医師レオン・ピンスケル

彼は医者らしく、反ユダヤ主義は
“不治の病”であるので、シオニズムこそが
唯一の“処方箋”であると説いた

 

●1882年にはユダヤの学生組織ビールー派によって「ビールー運動」が開始された。「ビールー」とは「ヤコブの家よ、来れ、行かん」(イザヤ書2章5節)のヘブライ語の頭文字の組み合わせである。ビールー運動は、またたく間にロシアのユダヤ人青年の間に広まった。1884年には秘密警察を避けて、国境を越えたドイツ領内の町カトヴィッツで第1回の全国大会を開いた。その後、十数年間に約1万人のユダヤ青年がパレスチナへ渡り、約40ヶ所の地点に定着した。これがいわゆるシオニストの“第一波移民”である。

このパレスチナへの移住運動は「アリヤー運動」と呼ばれ、1904年から1914年までの10年間に、約4万人の東欧ユダヤ人がパレスチナに流入したのであった。


●このように、一般には、ハンガリー生まれのユダヤ人テオドール・ヘルツルが“近代シオニズムの父”とされているが、帝政ロシアにおいてすでにシオニズム運動は生まれていたのである。

 

 


 

■■■第5章:ロシアのユダヤ人が深く関与した「ロシア革命」


■■ロシア革命直前


●1897年の国勢調査によれば、ロシア帝国内には520万人のユダヤ人が生活しており、人口の約4%を占めていた。このうち、ユダヤ人「定住区域」には490万人、人口の11.5%が住んでおり、この地域の範囲内でポーランド王国に限れば、130万人、人口の14%が住んでいた。田舎に居住している者はユダヤ人の13.5%、都市に居住している者は86.5%であった。

商業、銀行・クレジット業を一方に、手工業、工業、運輸業をもう一方に置く、この2大業務領域には、この時代、ほぼ同じくらい多くのユダヤ人が従事しており、それぞれ40%強を占めていた。世紀のはじめにはまだ手工業が群を抜いていたが、こうして商業が次第にユダヤ人の最も重要な収益源となっていった。自由業の占める割合は増加を続けていたが、大勢からすれば取るに足らないものだった。また、農業やその他の業種で働ける機会は、ますます少なくなっていった。


●第一次世界大戦中に、ロシア帝国の反ユダヤ政策であった「定住区域」は廃止された。けれども、これはユダヤ人の不都合を慮ってのことではなく、ユダヤ人が敵と通じることを恐れたためであった。ユダヤ人が居住していた地域の大部分は、作戦行動の中心を成していた。数十万の住民が、軍事行動や略奪や徴発を恐れて避難した。

ポーランド国民民主党やロシア軍の参謀本部の反ユダヤ主義のグループは、公になった個別の事例を一般化して、ユダヤ人がドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国のためにスパイ活動を行っているとの非難を煽り立てた。その結果、さまざまな場所でポグロムが発生した。


●帝政ロシアの軍事機関は「定住区域」のうち、戦争が展開していない地域のユダヤ人をも、次第に追放するようになった。そうした地域の情勢がいかんともしがたくなったとき、政府は1915年8月に「定住区域」を廃止し、ユダヤ人にロシア帝国のどこに居住してもかまわないという許可を与えた。

追放や流刑に際しては、またしても暴力行為が決まって起こった。一部ユダヤ人は敵の占領地域、つまり前線へ追いやられた。のちにふたたび故郷の土地へ帰還することのできた者は、自分の住まいが既に非ユダヤ人によって占拠されているという状況にしばしば直面した。

 

■■ロシア革命の成功とユダヤ人


●ロシアを離れて海外(主にアメリカ)へ移住を開始したユダヤ人とは別に、ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したが、1917年2月から3月にかけて革命が成功したことで、一切の制限にようやく終止策が打たれた。

ユダヤ人はロシアの平等な権利を有する市民となった。

 


ボルシェビキの指導者レーニンは
1917年11月7日に新政府の樹立に成功した

 

●ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフなど、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人であったといえる。

革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた。
妻がユダヤ人か貴族か大金持ちか少数民族。
該当しないのはカリーニンとルイコフくらいだった。

政治局員クラスで言うと

トロツキー (ユダヤ人)
ジノビエフ (ユダヤ人)
カーメネフ (ユダヤ人)
ブハーリン (ロシア人、妻がユダヤ人)
スヴェルドロフ (ユダヤ人)
クイブイシェフ (ウクライナ人、秘書がユダヤ人)
ヴォロダルスキー (ユダヤ人)
ウリツキー (ユダヤ人)
ルイコフ (ロシア人)
カリーニン (ロシア人)
ソコリニコフ (ユダヤ人)
ラデック (ユダヤ人)

 


ロシア革命当時、ヨーロッパで出された
11人の共産党指導者たち

 

●1920年にイギリスで発行された『ユニティ・オブ・ロシア』は、ロシア革命で政権を握った中枢や政治組織の中に、いかに多くのユダヤ人たちがいたかということを伝えている。実に85%がユダヤ人である。また、イギリスの新聞『モーニング・ポスト』がロシア革命直後に掲載した革命の中心メンバーの一覧表によると、50人中44人までがユダヤ人である。

この時期にはさらに、ユダヤ人によって創立された労働運動の母体であるリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟「ブント」、また、シオニスト社会主義労働者党、ユダヤ人社会主義労働者党、社会民主主義労働党などの、ユダヤ人による社会主義、民主主義諸政党も盛んに活動していた。


●一般にレーニンはユダヤ人ではないとされるが、祖母はそうだとされ、妻のクルースプカヤはユダヤ人であった。ユダヤ人ジノビエフは、レーニンの腹心中の腹心となり、レーニンの原稿を代筆するまでになっていた。

(※ ちなみに、レーニンは、1918年7月4日に「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布し、同年、赤軍に対して次のような演説を行っている。

「反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!」 )

 


ウラジミール・レーニン
(本名ウリヤーノフ)

 

●レーニンを継いだスターリンはユダヤ人ではなくグルジア人だとされるが、スターリンはユダヤ人だったという根強い説がある。

その根拠の1つとして、彼の本名が挙げられる。彼の本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシビリだったが、「ジュガシビリ」とは「ジュウ(ユダヤ)の子孫」という意味で、彼はそれを嫌って、スターリン(鋼鉄の人)というあだ名を本当の名にしてしまったというのだ。

また、スターリン自身、身辺に多くのユダヤ人を抱えていたことも挙げられる。スターリンの長男の妻もユダヤ人だったし、娘スヴェトラナの恋人も夫も共にユダヤ人で、自分自身の妻はモロトフの妻(ユダヤ人)と親友だったし、ユダヤの血の流れている孫達にも囲まれていたのである。その上、彼の侍医たちはユダヤ人ばかりであった。

 


ヨシフ・スターリン

 

●とりあえずここでは、スターリンがユダヤ人であったかどうかという問題は保留しておきたい。

スターリンがユダヤ人であってもなくても、そもそも共産主義を唱えたカール・マルクス本人がユダヤ人であったし、ユダヤ人と共産主義の関係は想像以上に深い。

しかし、スターリンについても言えそうだが、カール・マルクスもユダヤ人でありながら、ユダヤ的なものを極度に忌み嫌った人間であった。自分がユダヤであることを欲しなかった1人であった。

マルクスにとって「ユダイズム」とは、駆引商売と同義であった。そこでは金の力が唯一絶対であって、市場と貨幣の思想が社会の中の人間的な絆にとってかわり、そのために「我々の社会は細分化され、非人間的になっていった」とし、その責任はユダヤ人にある、と考えたのである。マルクスにとっては、「ユダイズム」を排除するのが人間らしい社会的結合を取り戻すための条件であるかのように思われたのである。彼の語調は最もラジカルな反ユダヤ主義者達と似ていたから、反ユダヤ主義者から見れば、格好の宣伝の言葉として利用されたのであった。

 


ユダヤ人カール・マルクス
(1818〜1883年)

産業革命後の資本主義経済を分析し、
フリードリヒ・エンゲルスとともに、
「共産主義」を打ち立てた

 

●ちなみに、かの有名なジークムント・フロイトも、生涯自分がユダヤ人であることを誇りとしていたが、近親憎悪というか、生活スタイルや信条は徹底して「脱ユダヤ化」を図ろうとしていたことが知られている。

例えば、フロイトは文科学校(ギムナジウム)在学時代、自分の名前である「ジギスムント」という、コテコテのユダヤ人名を嫌悪し、この田舎風の名から、ゲルマン民族の英雄、ジークフリートの父である勇士「ジークムント」の名に改名した。「ジギスムント」と「ジークムント」──。わずか数字の違いだが、この違いは決定的だった。前者は反ユダヤ主義の嵐の中、徹底的な差別を呼び起こすのに対し、後者の名は“ゲルマンの勇士”なのだ。

フロイトは、様々なジレンマを抱えながら、自分を育んでくれた民族的、文化的、精神的風土が、逆に「伝統」という重い鎖となって自分を縛ろうとしていることに嫌悪していたのである。

 


ジークムント・フロイト

「精神分析学」を創始した
オーストリア生まれのユダヤ人

 

●さて、話を「ロシア革命」に戻そう。

ロシア革命以後、ユダヤ人は公職、教育機関での役職、企業の管理部門、その他重要なポストに昇進した。しかし、これは彼らの敵対者の憎悪を呼び起こし、コミュニストはユダヤ人だ(ないしはユダヤ人はコミュニストだ)というスローガンを助長することになった。

こうしたユダヤ人は「同化ユダヤ人」であった。彼らには社会主義の思想、世界革命、階級闘争が、ユダヤ民族の国家民族の問題や宗教の問題より重要なものであると思われたからである。同化以外の者たちは、社会的昇進のために己れを社会に組み入れていた。とはいえ、大半のユダヤ人は同化には消極的であった。



●ちなみに、親ユダヤ主義者であったアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は、1919年に「ロシア革命」を「ユダヤ人が指導した革命」と言っていたが、「ロシア革命」は単なる「ユダヤの陰謀」ではない。「ユダヤ人の解放運動」だったのである。そういう側面が強かったのである。これは否定できない事実である。

 


第28代アメリカ大統領
ウッドロー・ウィルソン

 

●参考までに、アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は、次のように述べている。

「1917年初め、アメリカに移民した東欧ユダヤ人は、ロシアで起こった2月革命の報に歓喜した。憎むべきツァーリズムの崩壊とボルシェビキの権力掌握までの時期、ニューヨークのユダヤ人社会は、市内における社会党選挙戦とあいまって、政治的熱狂に沸き立った。社会主義者たちはボルシェビキの10月革命を歓迎した。ジョン・リードが『世界を揺るがした10日間』でロシア革命の実際を伝え、革命的友愛の感情が左翼の心をとらえた。ヒルキットさえも1921年の著書『マルクスからレーニンへ』の中で、民主主義と両立できるものとして『プロレタリア独裁』を支持した」

「ユダヤ人の間にはロシアに帰って新社会の建設に参加しようという運動が起こった。1917年から1920年にかけて2万人以上のユダヤ人がアメリカを離れた。しかし圧倒的多数はアメリカにとどまった。200万の東欧ユダヤ人は既にアメリカに根をおろしていたからである」

「東欧ユダヤ人にとってニューヨークは『約束の都市』であり、アメリカは『約束の土地』であった。1881年にロシアで起きたアレクサンドル2世の暗殺の余波としての東欧ユダヤ人の大移住の開始から、第二次世界大戦へのアメリカの参戦の頃までの時期は60年間である。この間に東欧系ユダヤ移民の世代は巨大な変化を体験した。彼らは『東欧ユダヤ人』から『東欧系ユダヤ移民』となり、最後に『ユダヤ系アメリカ人』となったのである」

 

■■スターリンによる大粛清


●ロシア革命以後しばらくの間、国内のユダヤ人は法的な面ではかつてなかったほどうまくいっていた。ユダヤ人は都市住民の8%、商人の20%、手工業者の40%を占めるようになっていた。

しかし、スターリンの権力体制への移行にともない、情勢はふたたび急変した。個人企業家は全面的に禁止された。多数のユダヤ人が階級の敵であると宣告された。彼らは選挙権を失い、高等教育を受ける権利や医療を受ける権利、食料切符を受ける権利を失った。


●共産党内部のユダヤ人支部は1930年にことごとく廃止された。党指導部での権力抗争のなかで、スターリンとその支持者とは、ボルシェヴィキの中から着々とユダヤ的要素を除去し、意図的に反ユダヤ主義のスローガンを掲げた。彼らの敵のなかには一部ユダヤ人がいたから、奴らは労働者階級とはなんら共有するもののない、小市民的ユダヤ人インテリだと言われたのである。

比較的高位の公職についているユダヤ人や、新経済政策の時期に蓄財した投機家や利得者のなかに混じっていた多くのユダヤ人に対して、底流として存在していた人びとの不信感が利用された。スターリニズムのテロ、すなわち1930年代の「粛清」の犠牲となって倒れたユダヤ人も数え切れなかった。とくに芸術や学問の分野からは多くの犠牲者が出た。


●スターリンによる大粛清は、古参のボルシェヴィキの追放・抹殺であったが、それは、もう一方では、好ましくないユダヤ人幹部の排除であった。スターリン政権は、宿敵トロツキーなどの現実離れのしたユダヤ人革命家に取ってかわった、より保守的なユダヤ人の集まりであった。この同化ユダヤ人によって支配されていたスターリン政権は「反シオニズム」であった。

 


ユダヤ人レオン・トロツキー

スターリンと対立して追放され、
亡命先のメキシコで暗殺された

 

●革命後のソ連は、少数民族の平等を宣言し、ユダヤ人も平等な権利と機会が保障されてはいたが、ユダヤ教は他の信仰とともに反宗教闘争の対象となり、ユダヤ人国家の建設をめざす「シオニズム運動」はブルジョア思想として排斥されることになった。また、市民の間に染み込んでいたユダヤ人に対する根強い反感や偏見は、革命によっても一掃されはしなかった。

 

 

 

●スターリンとイスラエルの関係について、東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。

「イスラエル建国からほぼ25年の間イスラエルを支配したのは労働党を中心とした『社会主義』を標榜する政党の連合であった。だからスターリンは、建国当初のイスラエルに対して大きな期待を抱いていた。

第二次世界大戦が終了した時点での中近東は、イギリスやフランスやアメリカの影響がきわめて大きく、したがって社会主義を標榜し、ロシア系のユダヤ人が主流を占めていたイスラエルの出現は、スターリンをして社会主義の橋頭堡をこの地域に築くうえで期待できるものと感じさせた。スターリンは、第一次中東戦争に際してイスラエル支持に回ったばかりでなく、イスラエル国家の承認を世界に先駆けて行ったのであった。

しかし、その後イスラエルがアメリカ陣営に、主として経済援助を引き出す必要からくみするにいたり、反イスラエル=反シオニズムの厳しい態度をとったのである。」

 

 


 

■■■第6章:第二次世界大戦後のソ連のユダヤ人


●第二次世界大戦後のスターリン体制最後の数年間(1948〜1953年)は、ユダヤ人にとって暗黒期であった。この時期に生じた反ユダヤ的事件は以下の通りである。


◎秘密警察によるS・ミカエルの暗殺。ミカエルはユダヤ国立劇場の演出家ならびにユダヤ反ファシスト委員会の議長を勤めていた。

◎1930年代及び大戦中に設立された全てのユダヤ人文化協会・団体の廃止。

◎1949年からのソビエト新聞・雑誌による公然とした反ユダヤ宣言。特にユダヤ人の世界市民的な面が攻撃された。すなわち「母国をもたない根なし草」、反逆分子、など。西側陣営に対する教育の要素が強い。

◎ユダヤ反ファシスト委員会の廃止。ユダヤ人作家、芸術家などが逮捕もしくは殺された。

◎クリミア事件。スランスキー裁判。いずれもユダヤ人が罰せられた。「ドレフュス事件」に匹敵する。

◎ユダヤ人医師陰謀事件。スターリンの権力闘争に利用された事件。事件後、数千のユダヤ人が職を追われた。

◎ユダヤ人とイスラエル、アメリカとをソ連の共通の敵とする大衆宣伝開始。



●ソ連は第二次世界大戦後、ユダヤ人を差別し続けた。スターリン時代からソ連崩壊にいたるまで、ソ連の上級官僚に任命されたユダヤ人は皆無に近い。教育でも就職でも、ユダヤ人は常に差別されてきた。ブレジネフ時代にユダヤ人にもたらされた恩恵といえば、ただ1つ、出国の機会だった。



●『赤の広場』などの著書で知られる旧ソ連生まれのユダヤ人エフ・ニエズナンスキーは、1986年に日本の雑誌『中央公論社』の対談で、ソ連の「ユダヤ人問題」について次のように語っている。(ちなみに彼は、モスクワ大学を出て25年間にわたり司法界で活躍したが、1977年に旧西ドイツに亡命した人物である)。

「ロシア革命の時には、ユダヤ人はかなり多くの人たちが功績を立てたので、スターリン独裁が確立されるまでは政治の世界でも活躍の場を持っていた。1930年代には党の地方委員会にもユダヤ人がいたことがある。ところがスターリン独裁が確立した後の状況では、ユダヤ人問題はちょっと特別な社会の病理現象といった感じで受け止められるようになってきて、結局、スターリン時代の後は政治の檜舞台からユダヤ人は一掃されたと言ってよい。」

 

─ 完 ─

 


▲このページのTOPへ





 HOMEに戻るINDEXに戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.