No.a4fhb400

作成 1998.2

 

ソ連・東欧諸国のユダヤ人虐殺

〜 第二次世界大戦 〜

 

 

第1章
ウクライナ人とナチス
第2章
東欧諸国とナチス
第3章
ソ連とナチス
第4章
ホロコーストに匹敵する
スターリンの国家犯罪

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 

 


 

■■■第1章:ウクライナ人とナチス


●ハザール王国時代以来、ウクライナ人とユダヤ人は、ウクライナ地域(ガリチア地方含む)で何世紀にもわたって一緒に暮らしてきた。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチは、ユダヤ教の一大中心地となっていた。しかし、ウクライナ人とユダヤ人の間には常に社会的緊張関係が生じていた。ウクライナ人が抱く反ユダヤ的感情は、他のヨーロッパ諸国に負けないほど激しかった。


●ウクライナを支配した民族は、ロシア人であれポーランド人であれ、あるいはまたドイツ人であれ、全てこの緊張関係を利用した。ウクライナ人が反抗してウクライナ人の国家を要求すると、権力者はいつもウクライナ人を巧みに操って彼らの攻撃を他の目標、すなわちユダヤ人に向けさせた。

例えば17世紀にはウクライナをポーランドから解放する名目で、ボグダン・フメリニツキーの指導する反乱が起きたが、この反乱は結局のところユダヤ人に対する迫害で終わってしまい、約50万ものユダヤ人がその犠牲となった。ロシア革命を受けて、1919年、ウクライナ人は頭目ペトリューラのもとで再び反乱を試みたが、このときもまた、約30万ものユダヤ人の命がその代償となった。

 

 
「フメリニツキーの乱」(1648年)を起こした
ボグダン・フメリニツキー

ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、
コサックと農民の反乱指導者として、ウクライナをポーランドから
解放し、ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。しかしその反乱
において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ共同体を破壊したために、ユダヤ年代記では
「邪悪なフメル」と記されている。虐殺はガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、
ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及んだ。この虐殺と破壊によって、
ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされたのである。

さらに、1734年から1736年にかけても
ウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団が
ユダヤ人虐殺を実行した。このハイダマク運動においては、
フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、しかも
ロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行ったのである。

 

●第一次世界大戦により「オーストリア=ハンガリー帝国」の解体が決定的になると、西ウクライナ(東ガリチア)のウクライナ人の運動は急速に独立へ向けて動き出した。ウクライナ人の代表者たちは西ウクライナの第1都市リヴィウに集まり、「ウクライナ民族評議会」を形成し、オーストリア=ハンガリー領内のガリチア地方を統合したウクライナ国家の建設を目指すことを宣言した(1918年10月)。

一方、ポーランド人も、かねてから「歴史的ポーランド」国家の再建、すなわちガリチア地方のポーランドヘの併合を主張していた。1918年10月、ガリチアのポーランド人たちはクラクフにおいて「ポーランド清算委員会」を形成し、全ガリチアをオーストリア領からポーランド領に移行し、ガリチアの全権力をポーランド人の手に掌握する作業に着手し始めた。


●この結果、ガリチア地方の支配権を巡って、ウクライナ人とポーランド人の間で戦闘が始まった。西ウクライナのリヴィウではポーランド人地区の西部とウクライナ人地区の東部に市が二分されて20日間、激しい市街戦が展開された。この間、ウクライナ人は「西ウクライナ人民共和国」の成立を宣言したが、1920年、ウクライナ軍はポーランド軍に敗北。ウクライナ人の独立への夢はあっけなく打ち砕かれてしまった。

この後、ガリチア地方は、ポーランド・ソ連戦争で一時ソ連軍に占領されるが、1921年3月の「リガ条約」により東ガリチア地方もポーランド領とされ、ガリチア地方のポーランド支配が確定した。


●なお、第一次世界大戦中にガリチア地方からウィーンやボヘミア、モラビアなどに避難していたユダヤ人の多くは、戦争の傷跡も生々しいガリチア地方に追い返された。

 


ウクライナとガリチア地方(地図の中央付近)

 

●1930年代になると、ウクライナ人の民族主義者にとって、ナチス・ドイツが希望の星となった。

彼らは、ナチス帝国が待ちに待った独立の実現を助けてくれるものと思った。ドイツがソ連に侵攻を開始した3日後(1941年)には、既にリヴィウで「ウクライナ民族政府」の樹立が宣言された。このウクライナ民族政府がまずやったことといえば、ヒトラーに忠誠を誓う書簡を送ることだった。

ところがドイツ人は、ウクライナ人の処遇については彼らなりの考えをもっていた。ドイツ人は解放者としてこの地域へやってきたわけではなかった。彼らは、抑圧者としてここへ進出したのだった。

そのため、ウクライナ人の政府は、結局たった3日間でドイツ人によって解散させられ、その寿命を終えた。ウクライナ民族主義運動は禁止され、ナチスに忠誠を誓ったばかりの運動の指導者は投獄の憂き目にあった。

しかしそれでも、ナチスとの関係が比較的良好だったことから、ウクライナ人は突如、下層民ではなく、いわば「支配階級」とでもいうべき存在になった。数は多いものの、それまでポーランド人やユダヤ人のかげで暮らしてきたウクライナ人が、いまや権力を持つようになったのだ。

 


ドイツ軍を解放者として歓迎するウクライナ人たち(1941年)

 

●ウクライナの住民達は、率先してナチスのユダヤ人狩りに協力した。ナチスはこうしたウクライナ人の反応に驚き、その模様を次のように記録している。

「この地方の原住民達は、ユダヤ人問題の解決に少なからぬ関心を寄せている。それゆえ、ユダヤ人の逮捕をただ見ていることには飽き足らず、自分たちから進んで『我々にユダヤ人始末の権限を与えよ』と、申し出ているのである……」


●ルヴォフという町などでは、ウクライナ人がナチスの将兵たちと共にユダヤ人の家を一軒ずつ襲い、見付け次第殺害して歩いたという。そのように殺戮が速かに行われたために、この地方では、ユダヤ人の収容所を作る必要がなかった、とまで言われている。

一方では、ウクライナ人のあまりの暴挙に、未だお目こぼしにあずかっていたユダヤ協会の指導者層の者が、逆にナチス・ドイツの指揮官たちに向かって「ウクライナ人を取り締まってほしい」と陳情したという、信じられないような話も残っている。


●ナチスは「補助警察官」をウクライナ人の中から募ったが、ウクライナ人の多くは生まれながらの反ユダヤ主義にとりつかれていたので、ユダヤ人に対する作戦は、事実上すべてウクライナ人補助警察官の手で行われ、ナチスはほんの2、3人、これを指揮する親衛隊員か保安警察官がいただけで済んだのだった。


●もちろん、ここで注意しないといけないことは、ナチスによる被害者はユダヤ人だけでなく、一般のウクラナイ市民も被害者だったということだ。1941年から1944年の3年間のナチスによるウクライナ占領は、ドイツの「生存圏(レーベンス・ラウム)」としての支配であり、ウクライナを植民地として徹底的に搾取することに主眼がおかれた。ウクライナ人は「劣等人種」として徴用され、数十万のウクライナ人が「東方労働者」としてドイツ本国に強制連行された。独ソ戦でウクライナは少なく見積もって550万の死者を出した。そのうち民間人の犠牲者が390万であり、さらにそのうち少なくとも90万がユダヤ人であった。

 

 


 

■■■第2章:東欧諸国とナチス


●第二次世界大戦中、ウクライナではユダヤ人虐殺が公然と行われたのであるが、それは東欧諸国全般に共通する現象といえるものであった。北はリトアニアから南はクリミヤまでのナチス・ドイツ占領下のソビエト・ロシアでは、ユダヤ人殺戮のためにさまざまな形のナチスヘの協力が見られた。

それと共に、ソ連治下でくすぶっていた極右系のナショナリストのグループは、ナチスの方法手段をそのまま導入してユダヤ人迫害にあたった。

 


バルト三国と東欧諸国(1939年)

 

●リトアニアのグループなどは、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、独自のポグロムを始めていた。これらの地域では警察のみならず一般庶民も、ユダヤ殺害のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかった、と言われている。リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万で、生きながらえたユダヤ人はわずか1割だけであった。

 


ユダヤ人を撲殺するリトアニア人たち

 

●こういった厳しい状況の中で、リトアニアの日本領事・杉原千畝氏は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し、6000人の命を救ったのである。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。

(※ 1985年、杉原千畝氏はイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年に彼は亡くなった)。

 


6000人のユダヤ人を救った
リトアニアの日本領事・杉原千畝



ビザを求めて日本領事館の前に並ぶユダヤ難民(1940年)

 

●リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、「ダッハウ収容所」に収容されたが、アメリカの日系人部隊によって救出されたという。彼はこの時の体験を、著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめているが、彼はナチスが迫ってくる頃、全く偶然、杉原千畝氏に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。そして、杉原千畝氏から早期の脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ機を逃してしまい、このことはまさに一生悔やまれたという。

 

 
(左)リトアニア生まれのユダヤ人ソリー・ガノール
(右)彼の著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)

 

●当時のリトアニアの状況について、この本には次のような記述がある。

「ユダヤ人にとってスラボトケ(リトアニアの一地区)は、殺戮の地とされていた。ナチス・ドイツの対ソ不意打ち攻撃が始まってわずか3日後の6月25日、リトアニア人によるユダヤ人虐殺の最初の惨劇が、ここで繰り広げられたのである。夜更け、斧や銃、ナイフで武装したリトアニア人たちの大きな集団が、ユダヤ人の集中的居住地区に三々五々集まってきた。朝の光は無残な光景を照らし出した。男も女も子どもも四肢をばらばらにされており、家の中は壁も床も血だらけだった。酒に酔ったリトアニア人は、犠牲者の首でサッカーをしたとも伝えられている。この夜、700人をこえる人々が生命を落とした。

スラボトケの惨劇は、その後第7要塞で行われた数千人の虐殺への序曲にほかならない。リトアニア人によるユダヤ人攻撃が、多少とも鎮まるのは、ドイツ人による民政・軍政が整備されてからのことである。」


●さらに次のような記述が続いている。

「1941年8月7日、臨時の首都カウナスにいたリトアニア人は1000人を超すユダヤ人男性を射殺した。このリトアニア人の攻撃は、ゲットー年代記の中で『木曜日の迫害行動』として知られるようになる。私は同じ日、カウナスを離れてスラボトケのゲットーに向かっていたが、市内はわりあい静かに思えた。おそらく、街路をドイツ軍の巡察隊がパトロールしていたせいであろう。私たちを隣人たちから守るためにナチが出てくるなんて変なことになったものだ、と思わずにはいられなかった。 〈中略〉

リトアニア人は、ときどき私たちに罵声を浴びせてきた。『ユダヤのろくでなし、終わりは近いぞ!』、『キリスト殺しめ、地獄へ落ちろ!』

橋のところまで来ると、ドイツ兵とリトアニア人の混成チームが警備にあたっているのが見えた。何を言い交わしているのかはよく分からないが、私たちを見る目の違いは分かる。ドイツ兵のほうは軽蔑か無関心、これに対し、リトアニア人は不機嫌で、目に憎しみがこもっている。」



●さて、リトアニアの話はこれぐらいにして、次はポーランドについて触れたい。

ポーランドにおいて、ユダヤ人たちがアウシュヴィッツをはじめとする数多くの強制収容所で、悲惨な目にあっていたことを、知らない者はいなかったという。市民の中には、悲惨な運命を辿りつつある身近なユダヤ人を、危険を冒してまでかばおうとした人々もいることはいたが、絶対多数のポーランド人は、ユダヤ人に対して至って冷淡だったのだ。

ポーランドはナチスが追放されたあともユダヤ人にとって平安の地ではなかった。8万6000人がナチスの反ユダヤ政策を生き残り、13万6000人が1946年7月までにソ連から引き揚げてきた。このわずかのユダヤ人に対して各地でポーランド人による襲撃事件(ポグロム)が発生した。その犠牲者はあわせて2000人と見積もられている。なかでも有名なのは1946年7月の「キェルツェ事件」である。群衆が根も葉もない噂に興奮して次々と40人を虐殺し、それを当局が傍観視した。多くのユダヤ系市民は恐怖に駆られて出国した。その数は1945年7月から1年半で13万人にのぼった。

 


2002年11月5日 『東京新聞』


【追加情報/上の記事の内容】↓


第二次大戦中の1941年にポーランド北東部で起きたユダヤ人大量虐殺事件を調査している同国の国家記憶協会(IPN)は4日、有名な「イエドワブネ事件」以外に少なくとも30件の虐殺事件がナチスではなくポーランド住民によって引き起こされたとする報告書を発表した。

報告書によると、ユダヤ人生存者の証言や共産政権下の裁判記録から、20以上の町で数百人のユダヤ人が地元住民に殺害されたことが判明。約1600人が納屋で焼き殺されるなどしたイエドワブネの事件が、特異なケースではないことが明らかになった。

虐殺があったのは、1939年からソ連占領下にあったポーランド北東部にナチス・ドイツが侵攻した直後で、ユダヤ人がソ連軍の圧政に協力したという偏見に基づいた憎悪が引き金になった。ナチスのユダヤ人絶滅政策も、住民感情に拍車をかけたとみられる。

「イエドワブネ事件」は、米国在住のポーランド人歴史学者ヤン・グロス氏の調査で2年前に公となり、それまで第二次大戦に被害者意識しか持たなかったポーランド社会に大きな衝撃を与えた。




●次はスロバキアである。

スロバキアにおいては、カトリックの政党が政権を握っていて、既に1939年4月以来、ユダヤ排除の路線が敷かれ、ユダヤ人たちはあらゆる公的機関や職場から追放されていた。

さらに1940年にティゾ政権が生まれてからは、ティゾがカトリックの司祭であったので、一層ユダヤ迫害に拍車がかけられ、遂にユダヤ人は生計すら立たなくなったほどであった。時のローマ教皇はティゾ司祭のことを「わが愛する息子」と呼んだそうで、スロバキアは特に、バチカンの覚えめでたかったという。ローマ教皇はまた、在バチカンのスロバキア大使シドールに対して、わざわざスロバキア語を以て全面支持を示した、とも伝えられている。

スロバキアは、ナチスのSS親衛隊を真似た「フリンカ警備隊」とか「スロバキアSS隊」というグループも組織し、ユダヤ人の逮捕や輸送の任を自ら買って出たりした。彼らは国内くまなくユダヤ人を追及して、約7万5000人を狩り出したが、これはスロバキアに住む全ユダヤ人の85%に相当し、これらの人々は例外なくアウシュヴィッツに送られた。



●ルーマニアにおいても反ユダヤ主義が公認され、一般民衆のユダヤ人迫害がエスカレートしていった。

1940年10月に、ユダヤ人の財産を没収する法律が成立し、11月にはさらに別の法律が可決され、ユダヤ人の工場や農場も合法的に奪取出来るようになった。これによって仕事を失ったユダヤ人達は、無報酬の強制労働へと駆り立てられたのであった。

やがてナチス・ドイツと同盟を結んだルーマニアは、1941年6月にソ連に侵入し、ブコヴィナ地方やモルダウ河に沿ったベッサラビア平原などを占領したが、その時の軍司令官がその地方のユダヤ人虐殺を公認したので、たちまちにして大勢のユダヤ人たちが命を捨てることになった。


●ルーマニア兵たちのユダヤ殺害に示す情念やその方法には、ドイツ国防軍の多くの兵士達さえ背筋が寒くなった、と訴えるほどのものだった。例えば1940年から41年にかけて首都ブカレストでは、ユダヤ人たちを捕えた群衆がその彼らを屠殺場に曳いていき、牛や豚とまったく同じ方法で彼らを屠殺し、肉をハーケン(鈎)に引っ掛けてユダヤをののしる言葉を書き連ねたものと共に陳列したりしたという。

駐ルーマニア・アメリカ大使のフランクリン・モット・ガンサーは虐殺の後、ワシントンにこう打電している。

「肉を吊るすハーケンに60体のユダヤ人の死体があった。全て皮膚をはがされていた。生きながらはがされたための大量の血が流れていた。目撃者によると、犠牲者の中には、まだ5歳にもならない少女もいた。その少女は全身血まみれで、殺された子牛のように足から吊り下げられていた。」


●また、ルーマニアは、ソ連における占領地域に「ユダヤ人強制収容所」を作ったが、そこには無制限にユダヤ人を送り込んで片端から殺していった。それがまた、ドイツ人から見ても我慢ならない手段方法が講じられていたというので、ナチスのSS幹部から「少しは合法的にやれ!」と、叱責されたということも伝えられてる。



●ハンガリー人によるユダヤ人迫害は、さらに激しいものであった。

ハンガリーは、1944年にナチスと手を結んだ後、すぐにナチスのニュルンベルク法(人種差別法)を取り入れ、それのみかユダヤ人に対してドイツよりももっと厳しい法規を作ったのであった。もちろん、外来のユダヤ人に対しては、まったく容赦しなかった。

1944年10月19日ワシントン発行の『戦略情報局(OSS)レポート』と称する報告書には、次のように記載されている。

「……ハンガリー一般民衆のユダヤ輸送に対する反応は、尋常一様のものではない、という以外に言いようがない。ハンガリーのインテリや中産階級はナチスの反ユダヤ宣伝に完全に染まってしまっているようだ。この国のジャーナリズムの伝えるところでは、大多数の住民がユダヤ追跡、検挙に進んで協力を申し出、その熱意には政府も顔負けしたほどだという。
また、確かな筋からの報告によれば、ハンガリーの憲兵達のユダヤ摘発と迫害のやり方は、ナチスのゲシュタポの比ではないという。さらにナジヴァラドに於ては、2000人のキリスト教徒がユダヤ人たちの残していった財産を横領し、そのかどでいま訊問を受けているという。……ユダヤ人迫害政策に対する抗議といったものは、どこにも見当たらない……」

 

 
(左)ハンガリーの「矢十字党」の結成大会 (右)ナチスに敬礼するハンガリーの若い女性たち

 

※ 追記: 

●1944年11月8月、ハンガリーの親ナチ「矢十字党」政権は、ハンガリー警察の監視の下、4万人のユダヤ人をブダペストからオーストリア国境まで180キロの厳寒の道程を、水も食料も与えずに歩かせる「死の行進」を断行した。道中で多くのユダヤ人が倒れた。

スウェーデン外交官としてハンガリーに赴任したラウル・ワレンバーグは、その行進をトラックで追いかけ、食料や衣類を与え、約4000人をブダペストに連れ戻した。「死の行進」は24日で打ち切られた。

 

 
(左)ブダペストからオーストリア国境へ「死の行進」 (右)路上に横たわるユダヤ人の死体

ユダヤ人たちは雪と厳しい寒さの中を、180キロも歩かされた。
この「死の行進」の途中で、何千人という子供や女性が、疲れ果てて
死んだり、銃で撃たれたり殴られたりして死んでいった。

 

●また、ワレンバーグはブダペスト各地に隠れ家(セーフハウス)を31軒設置し、ナチスの襲撃からユダヤ人を保護した。さらに彼はユダヤ人を救出するためビザをばら撒き、時には処刑寸前のユダヤ人をナチスからお金で見逃してもらうというようなことまで行った。

 

 
(左)『ユダヤ人を救った外交官』(明石書店)
(右)スウェーデン外交官ラウル・ワレンバーグ

 

●1945年1月17日、ブダペストがソ連軍により解放されると、ワレンバーグは事後処理のため占領軍であるソ連軍との交渉に出かけた。しかし、彼はソ連KGBによりスパイ容疑で逮捕され、その後消息を絶ってしまったのである。

(逮捕後、シベリアの刑務所に収容され、1947年7月頃死亡したといわれている)。

 

 


 

■■■第3章:ソ連とナチス


●共産主義を標榜するスターリンと反共のヒトラー、この本来結びつくはずのない両者は、1939年8月突如として「独ソ不可侵条約」を締結して世界を驚かせた。この条約によって、ドイツはソ連の中立を確保したため、安心してポーランドに進攻することができるようになった。翌月、ドイツは突如としてポーランドに進攻して第二次世界大戦が勃発した。

今日、その責任はすべて一方的にポーランドへ進攻したヒトラーにありとされている。しかし、ドイツ軍がポーランドに突入したとき、スターリンの軍隊もポーランドに入っていたのである。しかも、ドイツ軍によってワルシャワが完全に破壊されてしまうまで、スターリンの軍隊は一歩も動かずに静観していたのだ。いわばポーランドは、独ソ両国にとっての「共同草刈り場」となったのである。

 



ポーランドは独ソ両国にとっての「共同草刈り場」となった(1939年)

 

●1941年、ヒトラーが「独ソ不可侵条約」を破って、ソ連に攻撃を仕掛けてくると、ソ連の国防軍や学会や作家たちの中の主だったユダヤ人たちは、共同で「緊急声明文」を発表した。

それは世界中のユダヤ同胞に訴えたもので、その時点でナチスの暴挙によって犠牲になりつつある者を励ますとともに、必ずユダヤ人迫害の仇は取るであろう、との誓いを公にしたものであった。

 


ヒトラーのソ連侵攻作戦=「バルバロッサ作戦」

 

●当時、ソビエト・ロシア全域を通じてユダヤの占める人口比率は僅か4%前後(約530万人)に過ぎなかったが、彼らの教育レベルは抜群であったため、ソビエト国防軍の中では指導的地位を得ている者が多く、たとえば将官級の者だけでも、ざっと200人はいたといわれている。

例えば、第二次世界大戦中、モスクワ攻防戦で第三軍団を率いて首都を救ったクロイツァー元帥、ソビエト空軍をよくリードしてレーニングラード戦線で偉功をたてたスムシニケヴィッチ元帥、ナチスの首都ベルリン初爆撃を敢行したブロトキン大尉、あるいは東部戦線の関ヶ原、スターリングラード攻防戦で7000の砲門を開き、パウルス元帥指揮のドイツ国防軍を打ち破ったソ連第二師団のプラスコフ砲兵隊長やエリート戦車団を率いてスターリングラードを奪回してオデッサを解放し、南からベルリンヘの最短距離を邁進してよく闘ったヴァインルブ中将、または北コーカサスからクリミヤ半島までの広域でドイツ・ルーマニア連合軍の退路を断って殲滅させた英雄クニコフ少佐や、ベルリン一番乗りをとげた機械化部隊のクリヴォスハイン大佐など、これら東部戦線の戦闘でソ連軍の活路を開いた将軍たちのほとんどがユダヤ系であった。

最終的に、ソ連将兵として戦死したユダヤ人の数は約20万人と推定されている。


●こういった人々の巧みな作戦や努力によって、もし東部戦線の戦局の転機がもたらされたのだとすれば、あたかもユダヤに対して宣戦を布告したヒトラーは、大規模なユダヤ人迫害を展開しながらも、一方では、ソ連兵として戦ったユダヤ人将兵たちから仇を討たれたことになるわけである……。

 


1941〜1942年 ドイツが占領したソ連内最大の領土

 

 


 

■■■第4章:ホロコーストに匹敵するスターリンの「国家犯罪」


●ソ連のヨシフ・スターリン(グルジア人)は、一応、有能なユダヤ人を将兵として重用してはいたものの、他方では虐殺や粛清の手をゆるめようとはしなかった。ユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、スターリンにとって自分を否定するものは誰もが敵となった。

スターリンの粛清は1934年の党幹部の暗殺をきっかけに始まった。「狂犬は殺せ」のかけ声のもと党の幹部たちが次々に刑場へ消えていった。共に戦ってきた同志を次々に抹殺していった。

スターリンは自らの偉大さをアピールし、正当化することが仕事となった。モスクワはいたるところ、スターリンの肖像画、彫像で覆われていった。自分の前に神があってはならなかった。宗教儀式は禁止された。

 

 
(左)ヨシフ・スターリン (右)ソ連の国旗

 

●粛清はクレムリンからロシア全土に広められ、ユダヤ人、外国人、知識人たちが次々と「敵」の烙印を押されていった。全土に200もの「強制収容所(ラーゲリ)」が作られ、無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。

助かったものには強制労動の生き地獄が待っていた。全土に監視と密告制度が、網の目のように張りめぐらされていった。知らないうちに人が消えていった。家庭の中でさえ密告が横行し、人々は疑心暗鬼になった。

 


雪原に残る「強制収容所(ラーゲリ)」跡

ロシア全土には200もの「強制収容所」が作られ、
無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。
スターリニズムによる死亡者数は1800万人ともいわれる。

 

●ポーランドで生活していたユダヤ人メナヘム・ベギン(のちのイスラエル首相)は、1940年9月、リトアニアのビリニュースにいたところをソ連の秘密警察に逮捕され、ルキシキの牢獄から極北ペチョラの収容所へと辛苦の遍歴生活を送った。(1941年に独ソ開戦にともなって、その冬、ポーランド市民に特赦が発せられ、彼は釈放された)。

彼が書いた『白夜のユダヤ人 ─ イスラエル首相ベギンの手記』(新人物往来社)という本は、彼が「ラーゲリ」で体験したことを赤裸々につづった自伝的回想録である。興味のある方は一読を。

 

 
(左)メナヘム・ベギン。第6代イスラエル首相
(右)彼の手記『白夜のユダヤ人』(新人物往来社)

 

●第二次世界大戦中、ソ連在住のユダヤ人のうちほとんどはシベリアに連行された。15%以下がドイツ軍の手に落ちた。赤軍中で、あるいは「強制収容所」で少なくとも100万ものユダヤ人が死亡した。

最近の研究によって、スターリンもまたヒトラーと同じように、ユダヤ人問題の「最終的解決」を図ろうとしていたことが明るみに出ている。つまり、スターリンはユダヤ人たちの集団流刑の計画を立てていたのである。トルストイの子孫である作家ニコライ・トルストイは、その著『スターリン』の中で次のように述べている。

「1953年には、各大学からユダヤ人の徹底的な追放が行われた。そしてとどのつまり、スターリンはユダヤ人問題の最終的解決を準備していたのであった。ロシアのユダヤ人は、すべて北カザフスタンの荒野に放逐されるはずであった。スターリンの死によって、初めてこのヒトラーばりの課題の完遂は妨げられたのである。」



●第二次世界大戦中、占領されたドイツや東欧諸国の捕虜や市民も、スパイ容疑で無差別に根こそぎ連れ去られた。ソ連軍に占領された地域は、ソ連兵によるレイプ・略奪の地獄絵図となった。

レイプはソ連軍が1944年に東プロシアとシレジアに入った時に始まった。多くの町や村では10歳から80歳までの全ての女性がレイプされた。女性はソ連兵に見つかり次第レイプされた。町のいたるところにレイプされ斬殺されたドイツ女性の死体がころがった。

進軍するソ連軍部隊は、強制収容所においても、ドイツ女性と同様、ものすごい数のロシア女性、ポーランド女性をレイプした。スターリンと彼の司令官たちは、レイプをドイツ女性ばかりか、同盟国のハンガリー、ルーマニア、クロアチアの女性に対しても許すか、正当化さえしたのだ。

 

 
(左)丸一日の激戦の末、ベルリンの帝国議会のドームに翻ったソ連国旗(1945年4月末)
(右)勝利を祝ってブランデンブルク門の前で踊りながら歓喜するソ連兵たち

 

●ソ連軍がベルリンに突入して制圧した際、スターリンは兵士に対し「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の“祭り”を許可した。ベルリンのドイツ女性のほとんどがソ連兵によってレイプされ、連合軍に届けられたものでも10万件を越えた。また暴行による自殺者は6000人を数えた。

レイプの規模は、1945〜48年の間、毎年200万のドイツ女性が非合法に妊娠中絶した事実から暗示される。ドイツ全体で少なくとも200万のドイツ女性がソ連兵にレイプされた。ソ連軍の強姦率は80%だった。ソ連当局が病気のまん延を心配し、敵との親交に対し、東ドイツにいるソ連軍兵士に重罰を課すようになったのは、1946年から47年の冬になってからのことであったという。

 


『1945年・ベルリン解放の真実』
ヘルケ・ザンダー著(パンドラ)

 

●1945年8月9日、スターリンは突如「日ソ不可侵条約」を破って日本に戦争を仕掛け、北方領土を奪い、満州に侵入した。

この満州でもソ連軍はレイプしまくった。

日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、北鮮では31万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。

北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、レイプをほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。

白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に拉致された。反抗した者、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。虐殺・餓死・凍死などで無念の死を遂げた民間人は20万人にも達した。

 


『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著(文藝春秋)


中立条約を平然と破るスターリン、
戦後体制を画策する米英。関東軍総司令部は
なすすべもなく退却し、混乱の中で女性や幼児を
含む大勢の民間人が見殺しにされた。このソ連の
侵入を重層的にとらえた迫真のドキュメント。

 

●また、ソ連は60万人にものぼる日本人を捕虜にして連行し、極寒のシベリアで強制労働をさせ、7万人近くを死亡させた。(※ 最近の研究によれば、シベリア抑留者は100万人を超え、そのうち40万人が死亡したという)。

 

 

●1997年11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の1987年の間に6200万人が殺害され、内4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った」と放送した。

旧ソ連のノーベル文学賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、この膨大な「強制収容所(ラーゲリ)」の群れをいみじくも「収容所群島」と呼び、その恐るべき実態を明らかにしている。ソルジェニーツィンによれば、囚人の総数は1500万人に達する。もっとも4000〜5000万という説もあるが、実数はもはや確かめようにない。規模の大きさからいって、ドイツのホロコーストに匹敵する「国家犯罪」であることは確かだ。

だがホロコーストへの糾弾に比べてスターリンの「強制収容所」の犯罪が追及されないのはなぜだろうか。

理由ははっきりしている。アメリカの原爆投下の犯罪が糾弾されないのと同じで、

ロシア(旧ソ連)は“戦勝国”だからである。

 

─ 完 ─

 


▲このページのTOPへ





 HOMEに戻るINDEXに戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.