No.b1fha502

作成 1998.4

 

ことごとく失敗に終わった「ヒトラー暗殺計画」

 

 

●ヒトラーの暗殺40回以上企てられたが、その全てのピンチから逃れている。

多くの死傷者が出ても、ヒトラーはケガひとつ負うことはなかった。これは予知能力のおかげなのか、単なる偶然なのかは分からないが、やはり「強運」の持ち主であることには変わりはないだろう。

 



ドイツの独裁者として君臨したヒトラー。
彼は権力者の常として、様々な手段によって
その命を狙われた。しかし彼は一種名状しがたい
「強運」に恵まれており、誰一人としてヒトラーの
 排除という目的を達成することはできなかった。

 

以下、主な暗殺計画(暗殺未遂事件)を列挙しておきたい。



◆1933年3月、ヒトラーがケーニヒスベルクで演説する際に、爆弾を投げつけるという暗殺計画が共産主義者たちによって立てられた。

しかし、計画は事前に発覚したため未遂に終わり、犯人グループは全員逮捕された。


◆「ミュンヘン・ビアホール事件」(1939年11月8日)では、ヒトラーの演説中に爆発するよう、演壇のすぐ後ろに巧妙に時限爆弾がセットされた。ヒトラーの演説は2〜3時間行なう予定であった。

しかしヒトラーはこの日、突然演説を1時間たらずで切り上げて姿を消してしまったのである。そしてその13分後に時限爆弾が破裂。爆弾の威力は凄まじく、8人が死に63人が負傷した。ヒトラーが立っていた場所は2mもの高さの瓦礫(がれき)に覆われたのであった。

もしヒトラーが危機一髪のところでこの場所から離れず、演説を続けていれば、確実に死んでいたといわれている。(ちなみに、爆弾を仕掛けたのは単独犯で、ゲオルク・エルザーという名の平凡な田舎の家具職人だった)。

 

 
(左)事件前のビアホールの様子。中央の壇上でヒトラーが演説している。
(右)事件後のビアホール。1939年11月8日、ビアホール内で爆弾が
炸裂したが、ヒトラーはその直前に会場を出たため無事だった。

 

◆ドイツ軍がフランスを征服した1940年には、パリで行なわれる「勝利パレード」に臨席するヒトラーを暗殺する計画が立てられた。

しかし、パレードそのものが中止されたために失敗に終わった。


◆1943年3月13日、東部(ロシア)戦線を視察に訪れたヒトラーの専用飛行機に爆弾を仕掛け、飛行中に爆発させる計画(閃光作戦)が実行に移された。

しかし、ヒトラー専用機は無事に目的地へと降りたってしまう。ロシア上空の寒気が原因で機内の温度が低くなり、起爆装置が作動しなかったのである。(もし起爆装置が正常に作動していたら、ヒトラーは確実に死んでいたといわれている)。


◆その8日後の「ベルリン博物館事件」(1943年3月21日)では、捕獲兵器の説明役のルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐が自爆するつもりで両ポケットに爆弾を隠していた。ヒトラーを殺すための準備は整えられていた。見学は30分の予定だった。

しかしヒトラーは博物館に入ると、なぜかたった2分で、急に通用口から駆け足で出ていってしまったのである。


◆同じく1943年には、ヒトラーが臨席した軍の演習中に兵士が爆薬を彼に投げつけて殺害しようとした事件があった。

しかし、事前に爆薬が発見されたために未遂となった。


◆1944年7月20日には、ヒトラーに反対するクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐など、国防軍の一部を中心とするグループによって、大規模なヒトラー暗殺計画が決行された。

これは総統大本営、通称「狼の巣」(ヴォルフスシャンツェ)に爆弾を仕掛け、そこでヒトラーを殺すというものだった。

しかし、この計画は未遂に終わり、事件発生後24時間以内に700人の加担者が逮捕され、シュタウフェンベルク以下200人が処刑されたのであった。

 

 
(左)クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
(右)ヒトラーの暗殺未遂現場。爆破の痕が生々しい。

シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾がヒトラーの間近で爆発。
室内にいた24人全員が吹き飛ばされ、そのうち4人が爆発により死亡した。
ヒトラーが寄りかかっていた机は爆風で飛び、部屋はメチャクチャに破壊された。
しかしヒトラーは死ななかった。驚いたことにヒトラーは軽傷を負ったのみだった。

※ ヒトラーは自分の生還を“神の御業(みわざ)”だと考え、
 主治医に向かい「私は不滅だ!」と言ったという…。

 

 


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