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No.b1fha801
作成 2000.6
●ヒトラーがまだ無名だった時代、その出現と災禍を予告したオーストリア人がいた。
その男の名は人智学の創始者ルドルフ・シュタイナー。
そしてまた、ヒトラーのオカルト的精神が最も敵視したのが、同じ神秘主義の世界に生きたこのシュタイナーだった。シュタイナーは、ヒトラーが「唯一、完全に抹殺したい」人間であったと言われている。
ルドルフ・シュタイナー
(1861~1925年)
●思想家、教育家として著名なルドルフ・シュタイナーは、1861年、オーストリア・ハンガリー帝国のクラリェヴェックに生まれた。日本では、シュタイナーは教育者として非常に著名な存在である。現在でも彼が提唱した「シュタイナー教育」と呼ばれる全人教育は、実践者も多数存在し、高い評価を得ている(現在、「シュタイナー学校」は全世界に500校近くある)。
●シュタイナーは40歳までは、リベラルな文芸評論家として活躍していた。文芸雑誌を編集し、ゲーテの自然科学を研究、また『自由の哲学』などの哲学書を発表した。時代が20世紀に入ってから、シュタイナーは「神秘学者」としての人生を歩き始める。1913年に「人智学協会」を創設し、「人智学」と呼ばれる独特の思想運動を展開。
1919年2月、シュタイナーは『ドイツ国民と文化社会へ』と題されたアピール文を起草した。弟子たちはこのアピール文に署名する文化人を求めて、ヨーロッパ中に散っていった。そして翌月、アピール文は250人を上回る人々の署名と共に、数多くの新聞に掲載された。共同署名者の中にはヘルマン・ヘッセやヴュルテンベルク州憲法の起草者であるフォン・ブルーメ教授の名前もあった。そして、4月22日、アピール文の署名者を全員招いて盛大な集会が開かれ、そこで準備会のメンバーを中心に「社会有機体三分節化のための同盟」が結成された。
●こうして、シュタイナーの政治的立場が明確になり、人智学運動は力を蓄えていった。が、当然のように敵対者が現われた。攻撃は主として教会勢力や民主主義者たちからなされたが、その際にシュタイナーに張られたレッテルはまちまちで、「ゲルマン主義者」から「共産主義者」まであった。
●シュタイナーの人智学運動に対する批判や攻撃は次第に激化し、1920年と1921年を通じて、新聞に何らかの人智学批判が掲載されなかった週はほとんどなかったという。批判は主として教会やドイツ民族主義のグループからなされ、素性の知れないパンフレットも数多く出回り、講演会やイベントが物理的に妨害されることもあった。
もちろん、シュタイナーは自分の機関紙『社会三分節化』に反論記事を載せ、誹謗中傷の撤回を要求した。そのようにシュタイナーと弟子たちは、批判や攻撃への防御に多くの時間と精力を奪われることになる。
◆
●ルドルフ・シュタイナーは、自らの主宰する「人智学運動」の中枢として、スイスのバーゼル近郊の寒村の丘に、2つの巨大なドームを備えた異様でかつ美しい木造の建物「ゲーテアヌム」を建設していた。彼はこの「ゲーテアヌム」を、科学、芸術、教育、宗教を統合する、新しいヨーロッパの「自由大学」にしようと計画していたのである。
シュタイナーが建てた「ゲーテアヌム」
彼はこの「ゲーテアヌム」を、科学、芸術、
教育、宗教を統合する新しいヨーロッパの
「自由大学」にしようと計画していた
●しかし、その「ゲーテアヌム」が、あろうことか何者かの放火によって炎上してしまう。1922年12月31日の大晦日の夜のことである。しかも、そのとき、講堂ではシュタイナーが800人もの聴衆を前に講演を行っていた。
後日、「ゲーテアヌム」の火災のあとからは、放火犯と思われる1体の焼死体が発見された。この男はドイツ系スイス人であり、熱狂的なナチスの支持者であったことが判明した。彼は自らが信奉するナチスの創設者のひとりで、ナチ党の母胎となった「トゥーレ協会」の思想的リーダーのディートリヒ・エッカルトの遺言を忠実に実行したという。
「ゲーテアヌムを焼き払い、シュタイナー博士とそのサークルの精通者を炎の中で殺せ」という遺言を……。
●幸いなことにシュタイナーは一命をとりとめた。
しかし、ナチスによる攻撃の手はその後も執拗なまでにシュタイナーを襲うのであった。
実はこの放火事件の前、同年1922年の春に、シュタイナーはミュンヘン駅構内で、ナチス側の暗殺者に銃撃されるところをあやうく逃れるという、暗殺未遂事件にも遭遇していた。
◆
●エッカルトの遺言を見るまでもなく、1920年代の初期のナチスにとって「抹殺すべき最大の敵」は、実はユダヤ人でも、ボルシェヴィキ(革命的共産主義者)でもなく、シュタイナーこそがその最大の敵であったと言われている。
初期のナチスたちは、シュタイナーの広範な影響力を、ユダヤ人の「アジ演説」よりも危険な「混乱」とみなしていたという。
ナチスにとって、シュタイナーの提唱するイデオロギーは「世界フリーメイソンの卵」であり、国家を破壊する共産主義的なものだったらしい。
◆
●あるドイツ人退役将校がシュタイナーの「人智学協会」に所属していたために、将校の資格を剥奪されたことがあった。
この人物がヒトラーに間接的に理由を問いただしたところ、次のような答えが返ってきたという。
「人智学協会の会員はフリーメイソンの所属者と同様に扱うこと。彼らはフリーメイソンの所属者よりも危険である。彼らの思想は、もっと多くの人間に伝染するからだ。
交通整理員が人智学協会の会員だったとしても、それは大したことではない。けれども、党内部、あるいは国防軍に、かつて人智学協会に所属していた者を入れることは望ましくない」
アドルフ・ヒトラー
●さらにヒトラーは、ナチス結成時の党大会で、シュタイナーについて次のように警告を発していた。
「我々はシュタイナーとその追随者を許してはならない!
なぜなら彼は、シュリーフェン作戦、ひいては第一次世界大戦におけるドイツ敗北の直接の戦犯だからである。
……彼は、ドイツ軍最高司令官であるヘルムート・フォン・モルトケ将軍の親友だった。そして彼は、あろうことか1914年、ドイツがベルギー、フランスに進攻しようとしている重大な時期に、黒魔術を用いてモルトケ将軍の精神状想を混乱させ、もって我がドイツ軍を大敗に導いたのである!」
◆
●ヒトラーの精神的指導者であるディートリヒ・エッカルトは次のような言葉でシュタイナーを評していた。
「シュタイナーの霊的洞察力の前にあっては、何事も隠しおおせるものではない。
彼とその入門者たちは、我が『卜ゥーレ協会』の性質に異を唱え、我らの会合や入門儀式の全てを霊的地点から監視している……」
ヒトラーの精神的指導者
ディートリヒ・エッカルト
彼は遺言の中でシュタイナーの
「ゲーテアヌム」の放火を指令した
●このエッカルトは、先に紹介したように、遺言の中でシュタイナーの「ゲーテアヌム」の放火を指令した男である。
「トゥーレ協会」とはナチ党、すなわち「国家社会主義ドイツ労働者党」の母胎となった秘密結社である。その結社の目的は、地上で最も進化した人類であるゲルマン人の覇権を獲得するために、失われた古代の叡智を手に入れ、真の熟達した“魔術師”になる、というものだった。まさしくヒトラーの行動の原点となる思想がここには記されている。
●エッカルトは、この「トゥーレ協会」の中心人物であり、またナチスの創立メンバーの1人でもあった。
エッカルトはミュンヘンの社交界で詩人として知られていたが、彼はまた神秘主義に精通したオカルティストだった。しかも彼は、ナチスにおけるヒトラーの思想形成においても極めて重要な役割を果たした人物でもある。
その重要性は、ヒトラー自らが、自伝『我が闘争』の中で次のように述べていることからも明らかである。
「私は、その著作、思想、そして最終的には行動によって、生涯を私たちの同胞のために捧げたあの人物を、最も優れた人々のひとりとして挙げたい。
それはディートリヒ・エッカルトである。」
◆
●霊的な世界と深く関わりを持ち、これほどにまでヒトラーに称賛されたエッカルトにとってさえも、シュタイナーの存在は畏怖すべきものであったようだ。それはシュタイナーが、エッカルトやヒトラーが目指す霊的世界実現のためには、どうしても倒さなければならない、対極をなす霊的巨人であるということを認識していたからであろう。特にシュタイナーの持つ天才的な霊的洞察力は侮れないものがあった。
しかし、それも当然のことだった。シュタイナーはまだヒトラーが無名であった1920年代から彼の存在に着目し、彼の活動の背後にある「トゥーレ協会」の存在、そして彼の活動の「闇の部分」まで、全てを見抜いた上でたびたび警告を発してきていたのだから。
●例えば、1923年11月、ヒトラーは3000人の武装した男たちを率いミュンヘン市内を行進した。
世にいう「ミュンヘン一揆」である。
その結果は惨澹たるものとなった。ヒトラーは逮捕され、ナチ党は解散を命じられた。しかもエッカルトは、警官隊の発射した毒ガスにやられ再起不能に陥ってしまったのである。
2日後、このニュースを聞いたシュタイナーは、弟子たちに対して、当時ほとんど無名だった彼らを次のように評したのである。
「もし、この組織が今後、大きな勢力を奮うことになれば、それは中部ヨーロッパに大きな不幸をもたらすでしょう!」
「ナチ党」の正式名称は、
「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」
●さらにシュタイナーは、ナチスや「トゥーレ協会」、またアメリカの「KKK」など、世界には現在、民族主義を意図的に煽っている人間たちがいるが、彼らを駆り立てているのは愛国心などではなく、「純粋な破壊衝動」であり、その目的は人々を「完全な混沌」の中に追いやることにほかならない、と発言していた。
●そして彼はまた、ナチ党のシンボルマーク「ハーケン・クロイツ」(カギ十字)に関しても、次のように言及していたのである。
「今、この印(ハーケン・クロイツ)を中部ヨーロッパに持ち込もうとしている人間たちがいます。彼らは自分たちのしていることを、完全に心得ています。この印には効果があるのです!」
このように、シュタイナーは全てを見通したうえで、ヒトラー=ナチス・ドイツに対して常に鋭い警告を発し続けていたのである。
『世界の歴史〈14〉第二次世界大戦と独裁者ヒトラー』(学研)
↑長澤和俊氏(早稲田大学教授)が監修したこの「学研まんが」には、
ナチ党のシンボルマークの由来について、上のような説明が記載されている。
※ ちなみにヒトラーはナチ党の党旗について『我が闘争』の中でこう述べている。
「私が自ら数え切れないほどの試行を重ね、赤地に白円、その中央に黒いカギ十字という
最終的な党旗を定めたのだ。長期にわたる試行錯誤の結果、私はまた旗の大きさと
白円の大きさとの決定的な比率、さらにカギ十字の形状と厚みを発見した」
●シュタイナーは現代史の中に2種類の霊的な力が激しく衝突するのを見ていた。既に1917年の段階で、彼は講演の中で次のように語っていた。
「〈光の霊たち〉は今、人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている。
それに対して〈闇の霊たち〉は人種的、民族的な関連、血に根ざした古い衝動を現代に甦らせようとしている。人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません」
●「ゲーテアヌム」放火事件から約1年後の1924年1月、ドルナッハで夜会が催された。
その席でシュタイナーは突然、発作的な衰弱に襲われる。
シュタイナーは奥の部屋に引きこもり、しばらくして再び姿を現わした。終始蒼白で、苦痛に歪んだ顔をしていたという。この衰弱の原因を巡って、いろいろなことが言われている。サンドウィッチの中に毒物が混入されていたという説もある。
●いずれにせよ、シュタイナーの体はこの夜を境に衰弱の一途をたどった。
しかし、体調の衰えとは逆に、シュタイナーは1924年から1925年にかけて、数多くの重要な講演を行った。が、ついに1925年3月、シュタイナーは力尽き、他界した。
ヒトラーが政権を握るのは、これから8年後のことである。
1933年1月30日にヒトラー政権が誕生した
●シュタイナーの死後、ヒトラー政権下のシュタイナー学校の教師たちは、ナチスと妥協してでもシュタイナー学校を存続させようとする「現実派」と、あくまでも人智学の精神を貫こうとする「原理派」に分裂。
結局、ナチス政権下で「シュタイナー学校」は閉鎖されてしまった。
ナチス政権下のドイツの子供たち
※ ナチスは政権につくとすぐに、公立学校を支配下におさめ、
「国民学校」とした。それまでの教科書は破棄され、新しいものが提供された。
カリキュラムも徹底的に変えられ、新しい科目が2つ加わった。「人種学」と「優生学」である。
人種学の授業では「アーリア人種こそが優秀人種であり、ヨーロッパを支配することになっているのだ」
と教えられた。優生学の授業では「アーリア人種は健康なアーリア人種とのみ結婚すべきものであり、
非アーリア人種と結婚して血を混ぜてはならない」と教えられた。また生徒たちは「ユダヤ人は
ドイツに対する脅威であるだけでなく、世界平和に対する脅威でもある」と教えられた。
●ところで、シュタイナーは晩年、「偽りへの衝動」について繰り返し警告を発していた。
シュタイナーは、これからは、ありとあらゆる「常套句」「スローガン」「嘘」あるいは「空虚なフレーズ」が社会にはびこることになるだろう、と予言した。人々は初めはその「見え透いた嘘」を笑うかもしれないが、やがて感覚が麻痺して、その中に取り込まれてしまうだろう。実際すでに多くの人々が、優れた人々さえも、そのような「空虚なフレーズ」を知らず知らずのうちに受け入れてしまっている、とシュタイナーは言った。
後のナチス政権が宣伝を巧みに用いて大衆を煽動したことを考えると、シュタイナーの警告が妥当であったことが実感できる。
そして、この警告は現在の我々の社会にも当てはまるといえよう。
第三帝国を演出したプロパガンダの天才
ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣(文学博士)
ヒトラーの手足となって働き、当時の新しい
メディアであるラジオや映画を積極的に活用した。
※ プロパガンダ(宣伝工作)は国家や組織が一般大衆の意見や
世論を誘導し、特定の思想・意識・行動へと導くための手法であり、
「情報戦」「心理戦」もしくは「宣伝戦」といわれている。ゲッベルスは
「プロパガンダは我々の最も鋭利な武器である」と常々語っていた。
●ちなみに、1943年、ミュンヘン大学の学生によって結成された「白薔薇団」がヒトラーへのレジスタンス運動に立ち上がり、反戦のビラを各地にばら撒いたが、ゲシュタポによってもののみごとに壊滅させられた。
(捕らえられた「白薔薇団」のショル兄妹は、最後まで友をかばいベルラッハの森の施設で断頭台の露と消えた)。
これは、ヒトラーに対するほとんど唯一の民間の抵抗運動として有名だが、薔薇十字団のシンボルである白薔薇(白バラ)をいただいたこの組織は「シュタイナーの流れをくむグループだった」との説がある(真偽のほどはさだかではない)。
ヒトラー反対、戦争反対の白薔薇抵抗運動を起こした
医学生のハンス・ショル(左)と妹のゾフィー・ショル。
右は「白薔薇団」のリーダーであるクリストフ・プロープスト。
彼らの抵抗運動はドイツ国民の間に大きな反響を呼び起こす前に、
あっけなく崩壊してしまった(主要メンバーは全員処刑された)。
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